金田一耕助ファイル7    夜歩く [#地から2字上げ]横溝正史   目 次  第一章 汝夜歩くなかれ  第二章 大惨劇  第三章 金田一耕助登場  第四章 もう一人の女  第五章 最後の悲劇     第一章 汝夜歩くなかれ      佝僂画家 「とにかく困った。何しろ正気の|沙《さ》|汰《た》とは思えん。狂ってるよ、まったく。……なに、昔から気まぐれなたちはたちなんだ。しかし今度のことは、気まぐれだなんてすましていられない何かがある。それがおれには|怖《こわ》いんだ。ねえ君、おれはこう見えてもふつうの人間なんだ。いたって平凡な常識人なんだよ。そりゃア時には悪党がってもみせるさ。|凄《すご》んだことをいってみたりしてみたりすることもある。しかし、ありゃア要するに一種の虚栄心だ。小心翼々たる実体を、ひとに|看《かん》|破《ぱ》されたくないカムフラージさ。魚でも昆虫でも、弱い奴ほどおっかない|外《がい》|貌《ぼう》をそなえているじゃないか。あれと同じことだ。いや、まったくの話が……だから、悪党ぶって、せいぜい凄んでみたところで、内心はいたって謹直なものさ。いつか君が言ったね。おまえのは露悪趣味だと……。そのとおり。要するに趣味なんだ。本質じゃないんだ。だから、はたから見て、どんなに無軌道に見える行動でも、ちゃんと|埒《らち》を心得ているんだ。うっかり社会の道徳律を踏み越えそうになると、おっとどっこいと、後戻りするだけの才覚はあるんだ。ところがあいつと来たら、……あの娘と来たら、それがないんだ。あの娘の眼中にゃ、道徳もへったくれも存在しないんだ。困った、まったく弱っちまったよ。……おい、何んとかいえよ」 「何んとかいえったって、さっぱり話がわからんじゃないか」 「わからない? そんなことがあるもんか。さっきからこれだけしゃべらせておいてわからんという法はあるまい。君は|日《ひ》|頃《ごろ》から感の鋭いところを、自慢している男じゃないか」  私はころころ笑い出した。それから手巻煙草に火をつけると、ゆっくり一服くゆらしながら、酒にすさんだ仙石直記の顔を眺めまわした。こういう場合、こっちが落ち着きはらった態度に出れば出るほど、いよいよ|忙《せ》きこんで来る相手であることを知っていたのだが、どういうものかこの時は、いつもとちがって仙石のやつ、いっこう忙きこんで来る様子もなかった。おやおや、|奴《やっこ》さんよっぽど|悄《しょ》|気《げ》かえっているな。…… 「いかに感のいい人物だって……断わっておくが、ぼくがそうだというンじゃないよ……とにかくいかに感の鋭い人物だって、データのない|囈《たわ》|語《ごと》の|羅《ら》|列《れつ》から、何が|汲《く》み出せるというンだ。酔っ払いの囈語から、まじめな意味をつかみ出そうと苦労するほど、馬鹿の骨頂はないからね」 「酔っ払いかい、おれが……は、は、は、酔っ払いにゃちがいないね。さっきからこれだけ飲んでいるンだから」  直記は持参のサントリーを、ジャブジャブグラスに注ぐとまたひといきに飲み干した。酔っ払って手がふるえているから、半分ぐらいは机にこぼす。もったいない話だ。第一このウイスキーは、私への|土産《み や げ》だといって持って来ながら、ほとんど一人で飲んでしまった。とにかく、この男にしては珍しく|動《どう》|顛《てん》しているらしい。 「だけど、だいたいの事はわかるだろう、ね、わかってくれるだろう。おれがいったい何の話をしているんだか」 「そりゃア想像のつかぬこともない。八千代さんの話らしいね」  直記はとろんとした眼で私を見すえたが、私はその眼のなかに、何かしら異様な|凄《すご》みをかんじて、思わずひやっとした。網の目のように、血の筋の走った直記の眼には、酒の酔いが|雲《うん》|母《も》の粉をふいたようにぎらぎらと浮かんでいる。  しかし、そのきららの底から、何かしらえたいの知れぬ異様な凄みが、熱っぽくのぞいているのを感じて、こいつほんとうに酔っちゃいないな……と、私はふいと警戒する気になった。直記もこっちの気持ちに気がついたのか、あわてて眼を伏せると、またウイスキーを注ぎながら、 「そうだ。あの女のことだ。実はあいつ、今度結婚しようというンだよ」 「八千代さんはいったいいくつだったね」 「二十三。……いや、とって四だったかな」 「なら、まだ早いという年じゃない。結婚したっていいじゃないか。いや、むしろ結婚するのが至当じゃないか」 「そうだ。君のいうとおりさ。だけど君、そりア相手によりけりだぜ」 「と、いうのはつまり、相手が悪いというのかね」  直記はドスぐろい顔をしてうなずいた。 「いったい、どういう人物だね、相手というのは、いや、こんなこと、ぼくが聞いたってはじまらんがね」 「ところが、それを是非、君にきいてもらわねばならんのだ。いや、君に聞いてもらおうと思ってわざわざやって来たんじゃないか。ねえ、君、きいてくれるだろう。いや、君がいやだといったところできかせずにはおかんのだが……」 「……しかし、困ったねどうも、仙石、まあ、きけよ。ぼくは八千代さんという女性についちゃちっとも知ってやしない。そりゃ君の話ではよくきいているが、いままで会ったことも見たこともない。そう、いつか写真を見せてもらって、|綺《き》|麗《れい》なひとだと思ったことはあるが、それ以外彼女については、ほとんど何も知らないも同然だ。そのぼくがなんだって、彼女の縁談についてきかなければならないんだね」 「そりゃアね。つまり、おれが君を信用しているからさ」 「おい、仙石。君はまじめにそんなことをいってるのかい」 「あたりまえさ。まあ、おきき、|寅《とら》さん。この話はいずれ誰かにうちあけて相談しなければならんのだが、おれはおよそ人間というやつを信用しない。屋代寅太以外にはね。そうだ。おれは君を信用している。そのことは君も知っているだろう。君ならば、どんな話をしようとも、おれの許可がないあいだは絶対に他へもらすようなことはないね、そうだろう」 「有難い仕合わせさ、君の信用を博しているのは……しかし、仙石、君がこれから話をしようというのは、他へもらしてはいけないことなのかい」 「絶対に。……そのことだけはあらかじめ固く申しつけておく」 「まっぴら御免だ。ぼくはなにも君に信用してもらわなくてもよろしい。その代わり、そんな重っくるしい話をきくのも願いさげにしてもらいたいね」 「あっはっはっはっ、駄目駄目。いかに君が口さきで辞退しても内心の好奇心はおおうべくもなしさ。まあ、いいさ。それにね、ぼくが君にこの話をするのは、もうひとつ別に理由があるんだ。このことはいずれ後で話すがね。それじゃ寅さん、話すからきいてくれるね」  仙石直記という男は、どこか偏執狂的なところがある上に、たいへん熱っこい性質で、何かに打ちこむとわきめもふらない。そしてそういう時には万事が高飛車になる。相手の気持ちなどかんがえずに、ぐんぐん自分の思うとおり押して来る。気の弱い私は、いつもこの高飛車に押しまくられてしまう。そしてあとで後悔したり、いまいましがったりするのだが、つぎの機会には、やっぱり押しまくられてしまうのである。  この時も、私が露骨に迷惑そうなかおをしてみせるのも|委《い》|細《さい》構わず、直記のやつ、例の手で押して来た。 「ところで、その男だが……」  と、かれは話しかけたのだが、そこで急に気をかえたように、 「いや、……それより……そうだ……君はあの事件を知っているか。ほら、キャバレー『花』で去年起こった事件、佝僂の画家が|狙《そ》|撃《げき》されたというあの事件さ」  私はびっくりして直記の顔を見直した。話が思いがけぬ方向へ飛躍したせいもあるが、直記がいま話題にのせた事件というのが、かなり|変《へん》|挺《てこ》な事件で、あれからもう半年もたっているのに、いまだに私の頭脳のすみに、妙な印象をのこしていたからである。  その事件というのを、一応ここに紹介しておくことにしよう。 『花』というのは、戦後雨後の|筍《たけのこ》の如く出来たキャバレーのひとつで、場所は銀座裏である。三文小説家であるところの私は、むろんそんな場所で捨てる新円の持ちあわせなどあろう|筈《はず》はないから、その方面の消息についてはいたってうといほうだが、仙石直記の話によると、同じキャバレーでもかなり豪華なものらしい。 「キャバレーにもピンからキリまであってね。昔でいえば場末のカフェー、それよりもまだお寒いのもあるが『花』はなかなかどうして大したもんだよ。場所もいいしね。|尾《お》|張《わり》町のすぐ裏っ側、焼ビルの一階を修理してやりはじめたんだが、戦後いちはやく手をつけたから、あれだけのものが出来たのさね。いまじゃ君、建築法とかなんとかで、とてもああはやれやアしない。広いし、造作もこっている。ちょっと敗戦国の産物たア思えないぜ。もっとも、こういう心がけだから敗けたのかも知れないが……あっはっはっは、そんなことはどうでもいい。お説教だの|悲《ひ》|憤《ふん》|慷《こう》|慨《がい》だのってなあおれの|柄《がら》じゃない。とにかく東京でも、一といって二とはさがらんだろう。第一、バンドが素敵だ。アトラクションに出る芸人も一流だしね。その代わり高い。べら棒なボリかただ。しかし、まあ、あれでいいのだろう。どうせ、あんなところへ出入りをする奴ア、ヤミ師か、ヤミブローカーか。……君みたいな、紳士の出入りをするところじゃない」  だが、そういう直記はしょっちゅう出入りをしているらしい。  さて、去年の十月——あとで当時の新聞をひっぱり出して調べた所によると、十月三日のことであった——このキャバレーへ、ひとりの女がやって来た。年ごろは|二十《は た ち》前後で、素敵な美人であった。——ということに衆口一致している。服装なども素晴らしいもので、いまどき、ああいうなりが出来るのは、よほどの新円階級であろうと、そのときキャバレーにいあわせた女連中を、|羨《うらやま》しがらせたそうである。  ところでここが問題なのだが、それほど満堂の注視を集めながら、さて、後になってその女の事が問題になったとき、誰一人、彼女の服装を的確に証言しうる者はなかった。ある者は黒い毛皮の|外《がい》|套《とう》を着ていたというし、ある者は眼のさめるようなピンクの外套だったという。オーヴァひとつを例にとってみても、そのとおりだから、洋服の型などについては意見百出であった。いや、服のみならず、顔立ちについても素晴らしい美人であったということには一致しているものの、さてその美の型については、ほとんどひとりひとり意見がちがっていた。  ある者は下ぶくれの、どちらかといえば近代的美人であったというし、ある者は|瓜《うり》|実《ざね》|顔《がお》の古風な美人型だったといっている。化粧などについても、毒々しいほどの|濃化粧《こいげしょう》だったという者があるかと思うと、別の証人は、また、ごくあっさりとした薄化粧だったようだといっている。これは要するに人間の観察眼ほど当てにならぬものはないということが、改めて立証されただけのことで、その女の正体をつかむよすがとなるような証言は何一つえられなかった。  しかも、この女には、取り巻きが三人もついていたし、その取り巻きは事件の後、警察で厳重に取り調べられたのだが、かれらの申し立てによるところがまたすこぶる|曖《あい》|昧《まい》|模《も》|糊《こ》と来ている。もっとも、この取り巻きというのは三人とも若い学生だったし、当時かなり酔っ払っていたので、女の服装や化粧法について、あまり多くの注意を払う趣味も余裕もなかったのも無理ではなかったかも知れない。  さて、かれらの申し立てによるとこうである。 「ぼくたち、銀座裏のチューリップというバアで飲んでいたんです。すると、そこへあの女が入って来たんで……はじめのうちあの女はひとりで飲んでいたんですが、そのうち、どっちから声をかけるともなく、ひとつ合流しようじゃないかということになって、いっしょになって飲みはじめたんです。ええ、あの女、すごく酒が強いんです、ぐんぐんウイスキーを|呷《あお》るんです。そしてみんないい加減酔っ払ったところで、あの女のほうから、もっと面白いところへ連れていけっていい出したんで、それじゃ『花』へいこうということになって押し出したんです。ええ、勘定は全部あの女が払いました。いえ、合流してからの分ばかりじゃない、それまでわれわれ三人で、飲んでた分まで払ってくれたんです。何んしろもの|凄《すご》く金を持ってたようです」  そこで取り調べにあたった係官が、しつこく念を押して|訊《たず》ねたというのは、『花』へいこう、といい出したのは学生のほうであったか、それとも女のほうからいい出したのではなかったかということであった。これについて学生たちはいちようにつぎの如く証言している。 「それはぼくたちのほうでした。どっかもっと面白いところへ行こうといい出したのはあの女ですが、『花』を持ち出したのはぼくたちなんです。あの女はそれまで『花』の存在すら知らなかったようです。『花』とは何んだときくから、キャバレーだと教えてやったくらいです。するとあの女がダンスホールは知っているが、キャバレーというのは行ったことがないから、是非つれていけといい出したんです。だから、あの女がはじめから『花』を目指していたとはどうしても思えません」  こうして四人の男女が『花』へやって来たのは八時ごろのことであった。女はそれまでに十分酔っぱらっていたのが、ここへ来てまた相当呷ったので、あの事件の起こった際には、酔いつぶれる一歩手前の状態だったらしい。  ところがそこへ入って来たのが、佝僂画家の|蜂《はち》|屋《や》小市であった。蜂屋小市もかなり酔っぱらっていたが、しかし、決して慎しみを忘れるほどではなかったと、これはそのときかれと一緒だった二人の友人が口を|揃《そろ》えて証言するところである。それに小市は佝僂という肉体上の欠陥はあるにしても、それ以外かれの|外《がい》|貌《ぼう》には、特別にひとの|悪《お》|感《かん》をそそるようなところもなかった。佝僂とはいえ、小市はなかなかの美男子である。それに身だしなみのいい男で、いつも白いカラーに黒い|紐《ひも》ネクタイをしめている。ズボンの折目もちゃんと筋が立っているし靴もピカピカ光っている。蜂屋小市は相当の金持ちの上になかなかお|洒《しゃ》|落《れ》なのである。  ところが、小市と二人の友人が、笑いさんざめきながらキャバレーの入口から、入って来るのを見た|刹《せつ》|那《な》、女の顔色がさっと変わった。——と、これはあとから、その時のことを思い出して、三人の学生が申し立てたところなのだが、とにかく小市の姿を見た刹那、女は非常なショックをうけたらしい。一瞬、酒の酔いもさめたように大きく眼をみはり、わなわなと唇をふるわせていたが、急にすっくと立ち上がると、泳ぐような|恰《かっ》|好《こう》でふらふらと小市のほうへちかづいていったかと思うと、 「畜生ッ、畜生ッ、とうとうやって来たのね」  その刹那、女のハンドバッグから火をふいて、小市は骨を抜かれたように、クタクタとキャバレーの床に倒れたのである。      古神家の一族  さて、ここで一言読者諸君に申し上げておくが、私がこれからお話ししようとするのは実に|凄《せい》|惨《さん》を極めた一連の殺人事件なのである。いまどきこんな事をいうと、読者諸君にわらわれるかも知れないが、まったくそれこそ、昔の|草《くさ》|双《ぞう》|紙《し》にでもあるような、|妖《あや》しい悪夢にみちた、|妖《よう》|異《い》と|邪《じゃ》|智《ち》の殺人事件で、そこには血統の|呪《のろ》いというような古めかしい|匂《にお》いさえ感じられるくらいである。  それほど異様な事件なのだから、よってもって由来するところも、遠く、深く、かつ複雑であった。憎悪、|貪《どん》|欲《よく》、不倫、迷信、|嫉《しっ》|妬《と》と、あらゆるドス黒い要素が、執念ぶかくからみあい、もつれあいながら、それでも|辛《かろ》うじて平衡を保っていたのが、ついに保ちきれなくなって爆発したのが世にも凄惨な、あの殺人事件であったといってもいいだろう。したがってこの事件の発端をさぐるとなると、実に複雑で遠く昔にまでさかのぼらなければならないのだが、直接の導火線となったのは何んといってもキャバレー『花』で起こった、あの佝僂画家の|狙《そ》|撃《げき》事件であった。だから、当時わけのわからぬ事件として騒がれた、あの『花』における小事件こそ、実に古神家殺人事件の発端であったといっても差支えないであろう。 「うむ、あの事件なら、ぼくもよく知っている、蜂屋小市とはそう親しいという間柄じゃないが、まんざら|識《し》らぬ仲でもない。げんにあの晩もぼくは銀座であの男に出会ったんだ。あとからかんがえると、あいつが『花』へいく直前だったんだね」 「ふん、君に話をきいて|貰《もら》おうというのも、その事がひとつの理由になっているんだ。蜂屋という男の性質について君にきけばだいたいわかるだろうと思ってね」 「いや、それはどうだかわからんぜ。あいつのことはぼくもあんまり詳しいことは識らないんだ。ところで、蜂屋を射った女だが、そのまま逃走してしまったのだったね」 「そうだ、それ以来|杳《よう》として消息がわからない。完全に姿を消してしまったのだ」  直記の調子があまり沈んでいたので、私ははっと思い当たるところがあってその顔を見直した。  蜂屋を狙撃した女は、そのまま身をひるがえしてキャバレーから|跳《と》び出したのである。何しろあまり|咄《とっ》|嗟《さ》の出来事ですぐそばに立っていた蜂屋の友人でさえ、いったい何事が起こったのか、合点がいくまでには相当ひまがかかったというから、誰ひとり彼女をとめようとする才覚のうかばなかったのも無理ではない。そして、それきり女の正体はいまにいたるまでわかっていないのである。  何しろ三人の取り巻きも、その晩はじめてチューリップで出会っただけのことで、酔いにまぎれて名前もきいていなかった。チューリップでも、はじめての客だから、どこの何者ともわからないといっている。『花』にいあわせた客のなかにも、誰ひとりその女を見識っているものはいなかった。  しかも、ここがこの事件のもっとも奇怪な点なのだが、射たれた当人の蜂屋小市でさえが、全然その女を識らぬといっているのである。女の|狙《ねら》いがひくかったので蜂屋は幸い|太《ふと》|股《もも》を射抜かれただけで、生命にかかわるような傷ではなかったが、その蜂屋もまるで|狐《きつね》につままれたような気持ちだといっている。  ここで、蜂屋小市という男について、自分の識っているだけのことを、述べておこう。蜂屋は、戦後メキメキ売り出した新進画家で、自ら新思潮派と称している。かれの主張するところによると、対象となる実体を、いかに巧みに写したところで、それは自然の|模《も》|倣《ほう》者に過ぎぬ。小説にも思想がなければならぬ。思想のない小説は|戯《げ》|作《さく》に過ぎないが、思想のない絵も、また戯画に過ぎない。自分の絵を見てわからぬという奴があるが、そういう連中はみずから思想の空虚を表明しているに過ぎないというのだ。  つまり蜂屋という男はたいへんなウヌボレ屋だが、正直のところ私もまた思想の空虚を表明せずにはいられない。かれの絵は手法としては象徴派も前期程度で、かなり克明にかいてあるのだが、さて、何をかれが描こうとしているのか、その点になるとさっぱりわからない。女が|髑《どく》|髏《ろ》を抱いていたり蛇が美童を巻いていたり、そして、そういう絵に『人生苦』だの『女の神秘』だのともったいぶった題をつけるのがかれのミソだった。そこがかれの思想の発露かも知れないが、私にいわしむればむしろ小ざかしい戯作者魂の流露としか思えない。しかし、世の中にはわからないものに対して妙に|畏《い》|敬《けい》の念を抱く連中が多いと見えて、蜂屋の商魂はこういう意味でかなり成功しているようだ。  人間としての蜂屋はまえにもいったとおり佝僂だが、それ以外の点では、かなり均整のとれたからだを持っている。私は一度かれが与太者とわたりあうところを見たことがあるが、かれが大変な腕力の持主であることを知って、驚くというよりむしろ薄気味悪く感じたことがある。顔も人並みというよりも、むしろ苦み走った美男子に出来あがっていて、芸術家の繊細さはないけれど、押しの太い不敵さは十分うかがわれる。神様もいたずら者でこういう肉体にこういう秀麗な|容《よう》|貌《ぼう》をあたえるから間違いが起こるので、かれは有名な|女蕩《おんなたら》しであった。この男が不具者であるだけならば、あんなにも女を|惹《ひ》きつけなかったろう。また、かれがあれだけの容貌を持っていたにしても佝僂でなかったら、やはりあれほどの女蕩しにはなれなかったろう。矛盾は時によると魅力となる。美男子であるが不具者である。ところが腕力が強い。そういうところに女という動物はえてして心を惹かれがちなものらしい。  性格的に傍若無人で一種の|嗜虐《しぎゃく》色情狂だという|噂《うわさ》があるが、そこまでは私もたしかなことを知らない。いずれにしても蜂屋がそういう男だから、はじめのうち警察でも、なかなかかれのいうことを信用しなかったらしい。蜂屋の関係した女で、かれに|怨《うら》みをふくんだものの仕業であろうとしつこく追求したらしいが、蜂屋はまったくその女を識らなかったそうである。いままで一度もあったことも、見たこともない女だったというのである。で、結句、女のほうで人違いをしたか、それとも酒乱のために一時的な精神錯乱におちいったのであろう。……と、そういうことになってこの事件は一応ケリになっている。 「蜂屋は一か月ほどの入院で全治したそうだが、そのことと君の話というのと、いったいどういう関係があるというんだね」  私が|訊《たず》ねると、直記は毒々しいわらいをうかべて、 「それなんだよ。八千代のやつが結婚したいという相手が即ち蜂屋小市なんだ」  私ははっとして直記の顔を見た。 「それじゃ……もしや蜂屋を射ったのは……」 「そうなんだ。八千代なんだ。だが、このことはおれもついちかごろまで知らなかった。いや、『花』の事件さえ、当時新聞で読んだことは読んだが、別に気にもとめていなかったんだ。ヘボ画工の一人や二人、射たれようが殺されようが、おれの人生には何んの関係もないことだからね。ところが今度八千代のやつが、蜂屋と結婚するといい出したので、はじめてはっと気がついて問いつめたところが、果たせる|哉《かな》だ。あの夜の女というのが八千代だったというわけさ」  直記はそこでどういうわけか、急に大声をあげてげらげらと笑い出した。私にはその笑いの意味がとっさにのみこめなかったので、ぎょっとして相手の顔を見直した。何んとなく、いやアな、不愉快な気持ちだった。 「どうしたんだ、何がおかしいんだ……いったい八千代さんは以前から、蜂屋小市を識っていたんかね」  そこでまた直記はげらげら笑うと、 「いや、御免、そうじゃないんだ。そうでないからおかしいんだ。まったく|愚《おろか》な話さ。しかし、愚だからこそ気味が悪い。|寅《とら》さん、おれが笑っているのは必ずしもおかしいからじゃない。気味が悪いんだ。なんとなくゾーッとするんだ。八千代はその晩まで、蜂屋のはの字も知らなかった。会うのはもちろん、そんな奇妙な人間が、この世に存在することすら識らなかったんだ」 「それじゃ、|何《な》|故《ぜ》……」 「さあ、そこだ、寅さん、君にきいてもらいたいというのは。……古めかしい|因縁噺《いんねんばなし》だ。血統の|呪《のろ》いというやつかな。屋代、君も古神家の一族のことは知ってるだろう」 「いや、詳しいことは知らん、おりおり君にきくぐらいのことだからね。昔の御領主様の御子孫を知らんというのはちっともったいない話かも知れないが……」 「馬鹿アいえ。しかし、古神家に代々佝僂病の遺伝があるということぐらい知っているだろう。現に八千代の兄貴の|守《もり》|衛《え》という奴がやっぱり佝僂だ」  私ははっとして直記の顔を見直した。いま直記のいったことが、八千代さんの狙撃事件と果たしてどういう関係があるのかわからなかったが、古神家の血統にときおり佝僂が現われるということは、私も子供のときからきいている。  私のうちは岡山県と鳥取県の境にある山間部落の百姓なのだが、旧幕時代その辺を所領しているのが古神家である。禄高は一万五百石、ずいぶん半端な数だが、それでも明治になると華族に列し、ついこの間までは|子爵《ししゃく》であった。この古神家——と、いうよりは、古神家が領地としていたその辺いったい、昔から佝僂が多かったそうで、これは遺伝というよりも、一種の風土病であろう。いまでもかなり不便な山の中だが、江戸時代には交通の便がもっと悪かったにちがいないから、海産物にめぐまれること少なく、ヨード分の不足から、骨格に異状を来たすのであろうと思われる。 「そのことならばぼくもきいている。ちかごろじゃあの辺でも、だいぶ佝僂が減ったということだが、|肝《かん》|腎《じん》の御領主様のうちには、いまでも存在するのかね」 「そうさ。立派に存在あそばすんだよ。典型的なやつで、その点、蜂屋のタイプとよく似ている」 「しかし、それが八千代さんと……」 「まあ、待て、それをこれからきかせてやろうというンじゃないか。笑っちゃいけないぜ。民主民主と騒がれている時代に、こんな古めかしい因縁噺があるのかといったところでおれは知らん。民主日本の一角にも、こんな手ずれのした草双紙みたいな話もあると観念して、まあ、きくんだね」  八千代さんは数年まえに亡くなった、古神|織《おり》|部《べ》の娘で、守衛とは九つちがいの妹だが、腹はちがっていて|妾腹《しょうふく》であった。もっとも守衛の母は早くなくなったので、八千代さんのおふくろは、八千代さんを産むと間もなく正妻になおって、それが現在古神家を統率している未亡人のお柳さまである。  ところで、八千代さんのうまれたときの織部子爵のよろこびと心配というものは大変なもので、——と、いうのがうまれたときにはなんともなかった異母兄の守衛が七つ八つ時分から、そろそろ佝僂病の徴候をあらわして来たものだから、それだけに八千代さんの前途にも気をつかったわけで、そこで、昔から信仰していたなんとかいう女易者を招いて、八千代さんの将来を占ってもらったそうだが、その占師の婆さん|曰《いわ》く、 「御安心なさい。このお嬢さまは決して佝僂にはおなりなさいません。きっと丈夫に|健《すこや》かに美しくお育ちになります。しかし」  と、そこで止しておけばよかったものを、婆アめ、ひとつ余計なことをつけ加えた。 「その代わり、この方のお婿さまになるかたが佝僂でございましょう。お気の毒ですが、こればかりは神様の|思《おぼ》|召《しめ》しでございますから、人力ではなんとも致し方がございませぬ」 「あの婆アめ、いま生きていたらひねりつぶしてやる」  直記は|蒼《あお》|白《じろ》んだ顔に|凄《すご》い微笑をうかべると、 「八千代が佝僂にならんのははじめからわかりきっているんだ。あいつの顔を見るがいい。あれゃア織部の子じゃないんだ」  私はきっとして直記の顔を見直した。 「じゃ、……八千代さんの父というのは、いったい……」 「おれのおやじさ、あっはっは、いいじゃないか。古神家は血族結婚ばかりしているから、代々馬鹿が生まれるんだ。そこでおやじが種馬になって種族改良をしてやったのさ」  直記の言葉があまりさりげなかったので、その言葉の持つ印象の毒々しさが、いっそう強く私の胸を打った。  私はまえから直記の父、仙石鉄之進という人物のなみなみならぬ|辣《らつ》|腕《わん》|家《か》であることは聞き及んでいた。露悪家の直記の話によると、鉄之進とお柳さまの関係は、だいぶんまえから主従の域を越えていて、織部の死後は鉄之進が|宛《さな》|然《がら》古神家の主人であるという。 「しかし……」  と、そのとき私は、いつか直記が語った言葉をふと思い出して、 「いつかの君の話じゃ、君のお父さんは、君と八千代さんを結婚させたがっているというじゃないか」 「そうさ」  直記のやつは|空嘯《そらうそぶ》いた。 「しかし、それじゃ……」 「まあ、聞きなよ、寅さん、うちのおやじというやつは、そんなことにけじめのある奴じゃないんだ。あいつは金力と権力の|権《ごん》|化《げ》なんだ。自分の野望をみたすためにゃ、娘も息子もあったもんじゃない。だからさっきもいってある。民主日本の一角にも、こんな古めかしい話もあるということを……」  私はとても直記の話をそのまま信用する気にはなれなかった。八千代さんは|或《ある》いは織部の子ではないかも知れぬ。しかし、恐らく鉄之進の娘ではないだろう。  いったい、仙石の家というのは古神家の家老の家柄だが代々傑物がうまれると見えて、数代以前、即ち江戸時代の末期に古神家の御領内に百姓|一《いっ》|揆《き》みたいなことが起こったことがある。その際、四人農民代表が江戸へ走って将軍家に直訴を企てた。直訴は当時の|法《はっ》|度《と》だから、四人の者はすぐに古神家に下げ渡されて打首かなんかになったが、私の郷里ではいまでも四人衆様という神社があって、毎年その御命日には盛大なお祭りをするそうだ。  その節、古神家でも|政事《まつりごと》よろしからずとあってお取り|潰《つぶ》しか、軽くて|改《かい》|易《えき》ということになるべき|筈《はず》だったが、直記の何代かまえの家老が、罪を一身に引き受けて切腹したので、危うく難をまぬがれたという、講談まがいの歴史的事実がある。そのとき古神家の当主なるお殿様が、涙を流して喜んで、 「仙石ののちを家来と思うべからず、恩人として長くあがめよ」  と、いうようなことを子々孫々に伝えたそうである。  ところが同じような事が御維新の際にも起こった。いったい古神家の主人というのは織部の例を見てもわかるとおり|些《いささ》かお人好しで、|心《しん》|悸《き》モーロー性が多いのだが、御維新の際の主人もその例にもれず、したがってああいう大変動に処すべき道を全然知っていなかった。そこを手際よく切り抜けたのは、直記の|曾《そう》|祖《そ》|父《ふ》にあたる人物の手腕だそうで、この人は経済学にも明るかったと見えて、無事に変動を切り抜けたばかりか、新時代における古神家の土台を立派に築きあげた。おかげでわずか一万五百石の家柄にも|拘《かかわ》らず、古神家は華族界でも有名な資産家だそうだ。その後、大正の大不況時に華族がバタバタ倒産した際もこれを無事に切り抜けたのは、直記の父鉄之進の手腕だそうで、だから仙石家は新時代へ入っても、いよいよ古神家に重きを加えていったのである。 「何しろ死んだ織部という|御《ご》|前《ぜん》が、これまた典型的な生活無能力者で、心悸モーロー性そのものだから、あの人が生きている時分から、すでに古神家はおやじのものだった。古い話だ。お家騒動さ。徳川|家《いえ》|宣《のぶ》という男は|間《まな》|部《べ》|詮《あき》|房《ふさ》に頭があがらず、大奥の女勝手たるべしということにしていたそうだが、織部さんもその腹だったかも知れん。お柳さまとの関係もまえから知っていたかも知れんし、八千代がおやじの娘だということも、ちゃんと御承知だったかもわからん。それを知っていたところで、織部さんはやっぱり|嬉《うれ》しがって、八千代のやつを可愛がったにちがいない」  だが、これだけでは八千代さんがなぜ、見も識らぬ蜂屋小市を狙撃したのかまだわからない。毒々しい直記の話はまだつづくのである。      汝夜歩くなかれ  仙石直記のドスぐろい|因縁噺《いんねんばなし》はまだまだつづくのだが、そのまえにかれと私との関係を述べておくことにしよう。  直記の家はまえにもいったとおり、古神家の家老の家筋で、維新後もひきつづき同じ邸内に住み、代々家令だか執事だか、そんな役を勤めて来たらしいが、直記の父の鉄之進にいたっては、事実上、古神家の支配者みたいな地位にあるらしい。  そういう人物の|倅《せがれ》だから、直記も物質的には恵まれている。学生時代から金使いのあらいので有名であった。戦後も多くの金持ちが、財産税やなにかでバタバタ倒れたなかに、古神家のみはビクともしない。郷里に杉と|檜《ひのき》の大山林を持っているせいだそうで、戦前よりはかえって景気がよいらしい。だから|近《ちか》|頃《ごろ》の直記の金使いっぷりと来たらお話にならない。さながら湯水の如しといいたいが、そこがお殿様と御家老のちがいとでもいうのか、直記の金の使いっぷりには|鷹《おう》|揚《よう》なところがない。金を使うことは使うがどこか勘定高いところがある。心底から馬鹿になれない|性《たち》なのである。  私はこの直記と学校で|識《し》り合った。学校は某私立大学の文科で、私ははじめから小説家志望だったが、直記は別に何が志望というわけでもなく、一番入り|易《やす》いところへもぐりこんだというべきだろう。だから、学校を出てからも、仕事らしい仕事は何ひとつせず、ただブラブラと|女漁《おんなあさ》りばかりやっている。  私の郷里はまえにもいったとおり、古神家の支配下にあった一寒村で、家は代々貧農であった。しかし、明治の終わりごろ、|親《おや》|爺《じ》が東京へとび出して来て以来、郷里とはだんだん縁がうすくなり、ことに学生時代に親爺とおふくろがあいついで死亡してからは、全然縁が切れてしまったようなものである。私など一度も郷里へかえったことはないくらいだ。  直記もやはり同じことで、古神家の旧支配地へ一度もいったことがないといっているが、それでも変なもので、私が同郷の出身であることを知ると、妙に好意を示しはじめた。物質的にも何かと面倒を見てくれた。私自身は直記という人物に、かくべつ好意も悪意もかんじないが、何しろ親爺が下級の公吏で、私が大学へいくのさえ間違っているような家だったから、何しろ苦しいし、苦しいから直記の物質的援助だけは一応有難かった。  しかし、まえにもいったとおり、直記の金のつかいっぷりには、どこか勘定高いところがある。使っただけのものは、必ず何かのかたちで取り戻そうというところがあるから心底から有難くかんじたことは一度もない。いや、有難く思うどころか、横柄で、わがままで、お天気で、露悪家でそれでいて、自分からいっているとおり、小心でこすっ|辛《から》いと来ているから、ムカムカするような事が始終ある。  それでいて|喧《けん》|嘩《か》別れをしてしまえないのは、売れない小説家である私には、やはりパトロンが必要なのだ。内心のいまいましさをおさえては、なるべく|尻尾《し っ ぽ》をふることにしている。直記だってバカではないから私の気持ちはよく知っている。知っていながら縁を切ってしまわないのは、昔からの因縁で、私を使うのが何かにつけて便利な場合が多いからである。殊に女の|尻《しり》|拭《ぬぐ》いなどさせるには、私がいちばん便利だからであろう。だからわれわれの間には、友情などというものは|微《み》|塵《じん》も存在しない。お互いに少しも相手を尊敬していないし、ことに直記が私を|軽《けい》|蔑《べつ》しきっている証拠には、かなり長いつきあいにも|拘《かかわ》らず、私は一度もかれの家へ招かれていったことがない。年齢はふたりとも三十五歳、|寅《とら》|年《どし》だから私は屋代寅太というわけである。  さて、これでだいたいわれわれの関係もわかったことだろうから、直記の話をつづけることにする。 「さて、八千代が佝僂画家の蜂屋小市を|狙《そ》|撃《げき》したわけだがね」  と、ウイスキーをほとんどひとりで|空《から》にした直記は、|蒼《あお》|白《じろ》んだ額に、みみずのような血管を二本、ニューッと無気味に走らせながら、|瞳《め》をすえて語りつづける。 「いや、それを話すまえに、もうひとつ、八千代の兄の|守《もり》|衛《え》のことを話しておこう。守衛が佝僂だってことはまえにもいったね。佝僂だったってそう醜怪な感じじゃない。こいつなかなか好男子だし、おしゃれで|身躾《みだしな》みがいいから、話をきいて想像するより、見た感じはずっと悪くないのだ。そういう点でも蜂屋によく似ているね。年齢はおれより二つ下の三十三だ。ところがこいつ、やはり不具者のヒガミがあるから、根性がヒネくれていてね、実に陰険なやつなんだ。もっともそれも無理はないやね。昔の言葉でいえば家来であるべき|筈《はず》のうちのおやじが、すっかり家を乗っとったかたちになっている。おやじのみならず息子のこのおれまでが若殿様をバカにして威張りちらしているんだからクサるのも無理のない話だ。そこで当人、すっかり世のなかを|諦《あきら》めたような顔をして、本ばかり読んでくらしているが、なかなかどうしてこいつ|肚《はら》にいちもつある奴で、いつかはわれわれ親子にガチンと一撃くらわせてやろうと、ひそかに機会をねらっていやアがる。ところが、こいつが八千代に|惚《ほ》れてやアがンだよ」  私は|唖《あ》|然《ぜん》として直記の顔を見直した。直記の話はいよいよ出でて、ますます奇っ怪至極である。 「だって、君……そりゃアあんまり……守衛という人と八千代さんとは兄妹じゃないか」 「むろん、表向きはね。だけど、そんなこと、さっきもいったとおり表向きだけのことさ。守衛は、先妻の子供だし、八千代はいまのお柳さまの腹だ。そこへもって来て、八千代が先代|織《おり》|部《べ》のタネでないことは、公然の秘密みたいなもので、誰でも知ってる。父系からいっても母系からいっても両人のあいだには何の血のつながりもないのだから、惚れて夫婦になったところで別に差しつかえはない。——と、こう守衛のやつはかんがえているんだ。そこへもって来て、守衛のそういう感情をあおるのが、ほら例の占い婆アのあの予言さ。この方は佝僂のお嫁さんになるでしょう。……つまり、その佝僂というのは自分であると、守衛のやつ固く信じてうたがわないのだから始末が悪い。八千代が佝僂画家の蜂屋小市と結婚するといい出したのは、ひとつはこの|執《しつ》|拗《よう》な守衛の求愛に終止符を打ってやろうという意味も、たぶんにあるらしいんだ。つまり、占い婆アの予言した佝僂というのは、あなたのことではありません。蜂屋小市さんの事ですよと、守衛に思い知らせたいという|魂《こん》|胆《たん》があるんだ」  考えてみると八千代という娘も|不《ふ》|愍《びん》なうまれである。  直記の父の仙石鉄之進は、直記と八千代を夫婦にしたい意向らしい。しかも直記の説によると、八千代は鉄之進のタネだという。幸いこのことは直記がすすまないからよいようなものの、うっかりすると、兄妹|相《そう》|姦《かん》なんて恐ろしいことになる。  一方、兄の守衛が自分に惚れてる。このほうは血のつながりはないかも知れないが戸籍面では立派な兄妹である。前門の|虎《とら》、後門の|狼《おおかみ》とはまさにこの事で、どっちへころんでも、兄と結婚しそうな危険があるのだから、ヤケクソになるのも無理ではない。直記の話によると、ずいぶん奔放無軌道な女らしいが、由来するところはこういうところにあるのだろう。 「なるほど。——しかし、それだけでは八千代さんがなぜ、見も|識《し》らぬ蜂屋小市を撃ったかまだわからないね」 「だからさ、それをこれから話そうというんじゃないか」  直記のやつ、だいぶ|呂《ろ》|律《れつ》が怪しくなった。それにさっきからの長話で、息が切れるらしいのだが、それでも必死になって語りつづける。ギラギラ光る眼があやしく熱をおびて、だんだん調子が|凄《すご》んで来た。こんどはどうやらほんとうに酔うて来たらしいのである。 「実はね……」  と、犬のようにペロリと舌なめずりをすると、 「去年の夏ごろのことだった。八千代のところへ変な手紙がまいこんだ。八千代は奔放無軌道な女で家中|何《なん》|人《ぴと》も眼中にないのだが、おれには|日《ひ》|頃《ごろ》から一目おいている。それにその手紙があまり妙なものだから、ついおれに見せて相談する気になったんだが、手紙の文句というのがこうなんだ。——われ還り来れり、近く|汝《なんじ》のもとに赴きて結婚せん——と、まあ、そんな文句だ。発信局は九州の|博《はか》|多《た》だが、差出人の名前はない。君はこれをどう思う」 「誰かのいたずらだろう」  私は言下にこたえた。 「そうさ。われわれもそう思ったから手紙は破りすててしまった。いまから考えると惜しいことをしたよ。あの手紙をとっておけば何かの証拠になったかも知れない。ところがそれからひと月ほどすると、また、同じような手紙が舞いこんだ。今度の発信局は京都だが、文句は少しちがっている。——汝、かの予言者の予言を記憶いたしおれるや。汝は余の妻たるべく運命づけられたる者なり。——差出人の名前はあいかわらずない」 「ふうン」  私は思わず眼をみはった。 「そいつは少し深刻だね。で、その手紙はどうしたい」 「やっぱり破りすててしまった」 「それは……惜しいことをしたね」 「ふむ、今になってみるとそう思うが、その時には何だか腹が立ってね。それに八千代のやつ、すっかりヒステリーを起こして、ズタズタに破ってしまったんだ。すると……」 「また来たのかい」 「うん来た。しかも今度の発信局は東京都内だ。こんどはさすがに気味が悪くなって来たから、何かの証拠にと思ってとっておいたのだが、それがほら、この手紙さ」  直記がポケットからつかみ出したのは、四角い西洋封筒だったが、なるほどスタンプを見ると、東京という文字がかすかに見える。しかしそれ以外の文字は、スタンプがつぶれてほとんど読むことが出来ないし、差出人の名前もなかった。 「なかを見てもいいかい」 「うん読んで見たまえ」  中から出て来たのは一枚の|便《びん》|箋《せん》と薄葉紙にくるんだ写真が一枚。便箋の文句というのはこうである。 「——われ東京へ来れり。近く汝と見参せん。同封したるは余の姿なれど、面影は見参の際まで預けおくべし」  それから、行をかえて妙なことが書いてあった。 「——汝夜歩くなかれ」  私は、薄葉紙をひらいて急いで写真を取り出したが、そのとたん、思わずぎょっと息をのんだ。  写真の主は佝僂であった。しかし、なかなかスマートな|恰《かっ》|好《こう》をしている。黒い洋服を着て、黒いインバネスを羽織り、|細《ほそ》|身《み》のステッキをまえについて、そのうえに両手をかさねている。インバネスのまえが開いているので、白いカラーにいきな|紐《ひも》ネクタイを結んでいるのがよくわかる。私は蜂屋小市がよくこういう姿をしているのを見たことがあるが、果たしてこれが蜂屋であるかどうかはわからなかった。と、いうのがこの写真の首からうえがチョン切ってあるからである。  私が息をのんでその写真を見ていると、直記がそばから口を出した。 「どうだろう。それ、蜂屋だろうか」 「どうだかわからん。しかし蜂屋がこういうふうをしていることはよくある。たいへん似ているようにも思うが……」 「ところがね、守衛のやつもときどきそういうなりをすることがあるんだ。つまりその写真は、守衛のすがたにもたいへんよく似ているんだよ」  私はぎょっとして|唾《つば》をのみこんだ。それからしばらく、息をこらして直記の顔を|視《み》|詰《つ》めていた。何かしら、えたいの知れぬ無気味さが、ムズムズと背中を|這《は》うかんじであった。直記の血走った、|瞳《め》のなかにも、なにやら狂気じみた色がうかんでいた。 「それじゃ、これ、守衛のしわざだというのかい」 「わからない。はっきり断言するわけにはいかぬ。しかし、あいつならそれくらいのこと、やりかねまじき奴なんだ。陰険で、ねちねちとして、妙に芝居がかったところのある奴なんだ。それに手紙の文句から見て、古神家の内情に精通しているらしいこともわかるしね」  私はもう一度便箋の文字を見直した。それはペンで書いた字だったが、活字のように一字一字ていねいに書いてあった。 「これはわざと筆跡をゴマ化すためにこう書いたんだね。まえの二通もこれと同じ書体だったのかい」 「うん、これと同じだ」 「ところで、ここに書いてある、汝夜歩くべからずというのはどういう意味だね」 「それだよ、それがあるからこの手紙の主は、いよいよ深く古神家の内情に精通してると思われるんだよ。八千代にはね、夜歩くくせがあるんだ。つまり夢遊病だね。こんなこと、古神家のもの以外は、絶対に誰も知らないことなんだが……」  私はもう一度唾をのみこんだ。あまりといえばあまりにも道具だてがそろいすぎている。ひょっとすると直記が、からかっているのではあるまいかと思ったが、相手の顔を見ると、すぐその疑いも消えてしまった。|嘘《うそ》や冗談でああも狂気じみた眼付きが出来るものではない。 「いや、君が疑うのも無理はない。しかしこりゃアみんなほんとの話だよ、まったく古神家と来たら|化《ばけ》|物《もの》屋敷も同然なんだ。どいつもこいつも化物だよ。むろん、このおれだってその一類だがね」  直記は乾いた声でドスぐろくせせら笑うと、 「ところで、八千代がキャバレー『花』で蜂屋小市を|狙《そ》|撃《げき》した理由も、これでおおかたわかるだろう。この手紙を受け取った三日目の晩だかに、偶然ああして蜂屋にぶつかったもんだから、八千代のやつ、てっきり手紙の主が、見参に現われた——と、こう思ったんだね。そこで、夢中でピストルをぶっぱなしたんだそうだ。これは最近になって聞いたことなんだがね」  話をきいてみると、八千代さんの突飛な行動も、あながち無理ではないように思われる。彼女にとっては佝僂は恐ろしい夢魔なのだ。おそらく彼女は世界中の佝僂という佝僂を、片っぱしから抹殺したいと思っているにちがいない。殊にああいう恐ろしい手紙を受け取った直後に、よく似たすがたの佝僂に出会ったとしたら、若い女として前後を忘れるのも無理のないところかも知れない。弱い女ならば気絶でもするところを、逆に彼女はかッとして、兇暴な発作にとらわれたのであろう。妙な話だといえば妙な話だが、この話ははじめから終りまで何もかも妙に出来ているのだ。|歪《ゆが》んだ世界の出来事なのだ。 「なるほど、それで八千代さんが蜂屋を狙撃した理由はわかるが、八千代さんが蜂屋と結婚しようというのはどういうんだ。その後、八千代さんは蜂屋と識り合いになったのかい」 「そうなんだ。あの事件のあとで新聞を見て、はじめて蜂屋のひととなりを知った。どうやら人違いだったらしいことに気がついた。と、同時に蜂屋のいろんな逸話を知って、何んとなく興味をおぼえたんだね。八千代ってそういう女なんだよ。いかもの|喰《ぐ》いなんだ。で、のこのこと入院中の蜂屋のもとへ見舞いにいったそうだ。蜂屋のファンだというふれこみでね」  私は眼を丸くして驚いた。 「だって、そりゃ……危険千万な話じゃないか。狙撃犯人と|看《かん》|破《ぱ》されたら……」 「ところが八千代の奴、その点についちゃ絶対自信を持ってたそうだ。これも今度はじめてきいた話だが、八千代のやつ、ああいうようにハメを外す場合は、いつも変装してるんだそうだ。あいつにいわせると、近代の化粧法は変装におあつらい向きだそうだ。|眉《まゆ》のひきかた、つけ|睫《まつ》|毛《げ》、口紅の塗りかた、髪の色だって変えるし、|頬《ほお》をふくらませたり、ひっこめたり、西洋人のように眼を落ちくぼませたり、自由自在だというんだ。そういうことをあいつは実によく研究してるんだよ。変なやつでね。まるで女のジキル・ハイドだよ、あいつは……」 「なるほど、しかし、蜂屋ほどの男が、それに|騙《だま》されるとは思えないね。案外、それと気がついていながら、騙されているようなふうをしているんじゃないか」 「ふん、そんなこともあるかも知れん。あいつにとって損な|役《やく》|廻《まわ》りじゃないからね」 「で、君はこのぼくをどうしようというんだい。こんな話をぼくにして、いったい、ぼくに何を期待しようというんだい」 「さあ、そこだよ。寅さん」  直記は急にからだをまえに乗り出すと、 「実は、蜂屋の奴が一週間ほどまえからうちに泊りこんでやアがンだよ。むろん、八千代が招待したのさ。ところがああいうずうずうしいやつだから、まるで傍若無人なんだ。すっかり八千代を情婦あつかいにしてさ。このおれでさえ業が煮えるくらいだから、守衛のやつがイライラするのも無理はなかろう。そうでなくとも佝僂と佝僂だ、お互に|反《はん》|撥《ぱつ》しあわアね。そこへもって来て恋の|鞘《さや》|当《あ》てと来てるから実にもって雲行き険悪なんだ。何しろこの話、はじめから変だろう。いまに何か起こりゃしないかと——さすが無軌道な八千代のやつも、近ごろ少々不安になって来たらしい。と、いってまだ何も起こってるわけじゃないから警察へ持ち出すほどのことでもなしね。そこでおれがふと、君の話を持ち出したもんだ。すると八千代のやつ大乗気で、ぜひとも君をつれて来てくれというんだ。女というやつはバカだから探偵小説家といえば、小説のなかの名探偵同様、あたまがいいものと思いこんでやアがンだよ。あっはっは」  直記は毒々しい声をあげて笑ったが、私はかれにいくら|嘲弄《ちょうろう》されても一言もない。口惜しいけれどこの私、屋代寅太という人間は、売れない哀れな三流探偵小説家なのである。      みどり御殿  古神家の現在の住居は東京都|北《きた》|多《た》|摩《ま》|郡《ぐん》|小《こ》|金《がね》|井《い》にある。むろんもとは市内の山の手に、立派なお屋敷があったのだが、このほうは戦災で焼けてしまった。しかし、戦災をうけるまえに、かねてこのことあるを覚悟していた仙石鉄之進の|采《さい》|配《はい》で、家具調度その他一切を小金井のほうに移してしまって、本宅のほうは|空《あき》|家《や》同然になっていたから、家を焼かれたというものの、実際の被害は大したことはなかったという話だ。  小金井のほうは先代織部の時代に建てた別荘だが、これがまた、なかなかどうして大したものである。敷地はなんでも、三千坪からあるという話で、邸内には大きな池がある。いったい、この辺は|井《い》の|頭《かしら》や善福寺の池をつらねる、一脈の|湧《ゆう》|水《すい》地帯になっていると見えて、四六時中|清《せい》|洌《れつ》な水が湧出し、そこに天然の池をつくっている。この池と池をとりまく|武蔵《む さ し》|野《の》の自然林をたくみに取り入れて、そこに古神家の別荘は、ひとつの|妖《あや》しい夢幻境をかたちづくっているのである。  あやしいというのは、古神家の建築技巧が一風かわっているからである。それは古風な江戸時代の建築法と、西洋の近代建築法とのたくみな結合であり、うちかけを着た|椎《しい》|茸《たけ》|髱《たぼ》の腰元でも出て来そうな日本座敷があるかと思うと、一方ではどんな|尖《せん》|端《たん》的なダンスパーティをひらいても不釣合いではない、近代的意匠をほどこした西洋風の大広間もある。付近ではこの別荘のことを、みどり御殿とよんでいるが、みどり御殿の名のいわれは、建物の屋根が、全部緑色|瓦《かわら》でふかれているからで、この沈んだ色の緑の調子が、建物全体に、落ち着きと、ずっしりとした重量感をあたえている。  しかし、こんな風に書いたものの、私はいままで一度もその御殿へ、入ったこともなければ見たこともなかった。ただ、おりにふれ仙石直記の話すところから、だいたいのことを知っていたまでである。そのみどり御殿へはじめて私が足を踏み入れたのは前章で述べたような話を直記からきかされた翌日のこと、即ち三月七日のことで、実にその晩あの恐ろしい、残虐をきわめた犯罪が行なわれたのだから、私はまるで、火取虫が|灯《ひ》のなかへとびこんでいくように、事件のなかへとびこんでいったも同様であった。  直記はすぐにも私をつれていきそうにいいながら、その日はウイスキーに酔いつぶれて、|雑《ぞう》|司《し》ガ|谷《や》の焼跡にたった一軒焼けのこった、古寺の中の私の部屋へ泊まってしまった。そして翌日つれだって小金井へおもむいたのだが、私はいまでもみどり御殿へ踏みこんだ、|刹《せつ》|那《な》の印象を忘れることが出来ない。というのが、一歩邸内へ踏み入れたのっけから、どぎもを抜かれるような事態にぶつかったからだ。  みどり御殿は武蔵野の原野のなかに、長い土塀にとりかこまれてたっている。その土塀は薄紫色をした壁で塗られていて、それがまず周囲の暗緑色のなかに、くっきりと美しく、いくらか|瀟洒《しょうしゃ》なかんじで浮きあがっている。  その土塀の一部分に大きな門がついているが、その門は昔の大名屋敷のように古風なものであった。しかし、この門はふだんはめったに使わぬらしく、大きな金具のついた扉がぴったりと重々しくしまっていた。 「向こうから入ろう」  その門のまえを通りすぎ、角を曲がると、間もなく鉄格子のついた小さな門が現われた。この門を入るとなかにまた内塀があり、これにもまた鉄の門がついている。この門を入った刹那なのである。私たちがあの怒号と悲鳴をきいたのは——それはまるで、われわれの到着をまって、いよいよこの大惨劇の序幕を切って落としたようなものであった。 「何んだ、ありゃア……」  門のなかへ入った刹那、私たちは一瞬そこに立ちすくんでしまった。  あらあらしい怒号は、まるで|猛《たけ》りくるッた野獣の叫びのようであった。それにまじって女の悲鳴と、それからもうひとつ、何んともいえぬ毒々しいわらい声がおりおりまざった。 「ありゃア……蜂屋だ。あいつ、何を……」  いきなり直記が走り出したので、私もそのあとにつづいた。建物の角を曲がると、そこに広い庭がひろがっている。この庭は古風な日本式の造庭術に、多分に洋風を加味したもので、そこに三十坪ばかりの池がある。この池はまえに述べた天然の湧水池とはちがっていて、湧水池はもっと奥にあることを後に私は知った。  さて、われわれが建物の角からとび出したとき、この池のまわりを三人の男が、こけつまろびつ駆けめぐっているのであった。  いちばん先頭を走っているのは、まぎれもなく蜂屋小市である。例によって黒っぽい洋服に、意気な|紐《ひも》ネクタイをしめている。そして、背中をいよいよ丸くして、|這《は》うように池の周囲を走っている。不具者ながらも|敏捷《びんしょう》な男で、おりおりあとをふりかえっては手を|叩《たた》いて毒々しい|嘲笑《ちょうしょう》をあげている。  そのあとを追っかけているのは、六十前後の老人だが、この人はまるで壮士芝居に出て来る人物のような服装をしている。ずんぐりとした|胡麻塩頭《ごましおあたま》、ピンとはねた太い八字|髭《ひげ》、着物はなんだかわからないが、ふとい白|縮《ちり》|緬《めん》の帯をぐるぐるまきにしていて、胸もまえも大はだけ。そして驚いたことには、ギラギラする日本刀を大上段にふりかぶっているのである。私が芝居を連想したのは、この日本刀のせいだったかも知れない。あの野獣のような怒号は、むろんこの人の口から|洩《も》れるのだが、口ほどには体が|利《き》かぬと見えてよたよたとした千鳥足がいかにも息苦しそうである。そしておりおり|躓《つまず》いたり、転んだりするたびに、先頭に立った蜂屋小市が、手を叩いて嘲笑するのである。  さて、一番あとから追っかけているのはおそらくここの召使いであろう。四十がらみの、植木屋の着るような|法《はっ》|被《ぴ》を着た男であった。 「|旦《だん》|那《な》、いけません、そりゃ無茶だ。いくら相手が無礼なやつでも、人ひとりぶった|斬《ぎ》っちゃそのままではすみません。だ、旦那、旦那!」 「うぬ、殺してやる。斬ってやる。無礼な奴、……おのれ」 「あっはっは、斬れるなら斬ってみろ。ここまでおいで。甘酒進上だ。やい、髭! やい、助平|爺《じじ》イ、やい、|狒《ひ》|々《ひ》おやじ。あっはっは、そのざまアなんだ」  三人の叫び声が|三《み》ツ|巴《どもえ》になってきこえて来る。私は驚きと|怖《おそ》れで、腹の底がつめたくなるかんじだったが、直記は案外落ち着いていた。 「おい、仙石ありゃアどうしたんだ」 「酒乱だよ」 「酒乱?」 「おやじめ、大酔するといつもあのとおりなんだ。そこへ蜂屋のやつがからんで来やアがったんだろう。年がいもない。いい恥ッさらしだ。だが、放ってもおけまい。あんな人斬り庖丁をふりまわされちゃ物騒でいけない、あの刀はおやじの眼のとどかないところへかくしてあったのだが……」  私たちは足早にちかづいていったが、その時である。  蜂屋は少し図に乗りすぎたのである。相手を酔っぱらいとあなどってか、うしろを向いて、手を叩きながら嘲弄していたが、木の根かなにかに躓いたのであろう。だしぬけに仰向けざまにひっくりかえった。  と、そのとたん酔っぱらいは驚くべき敏捷さを発揮した。|蝗《いなご》のように飛石をとんでいくと、ひっくりかえった蜂屋のまっこうから、サーッと日本刀をふりおろした。 「あっ!」  私は思わず立ちすくんで眼を閉じた。弧をえがいてふりおろされた白銀の下に、さっと飛び散る生ぬるい血潮が、はっきりと網膜にうつるようなかんじだった。  だが、その瞬間ボチャンと大きな水の音がすると、蜂屋の毒々しい笑いごえが、はっきりと、耳の底にひびいて来た。  眼をひらいてみると、蜂屋は池のはたにかがみこんで、水の中を眺めながら、手を叩いてゲタゲタわらっている。しかし、さすがにその顔には血の気がなかった。  池の表面には大きな波紋がゆれていたが、やがてその波紋の中心からムックリと首をもたげたのは鉄之進老人だ。御自慢の髭が無残に|潮《しお》|垂《た》れているのが、この際ではあるがやっぱり|滑《こっ》|稽《けい》なかんじだった。 「あっはっは、どうだ、どうだ、髭。助平爺イの狒々おやじ。|加《か》|茂《も》川の|水《みず》|雑《ぞう》|炊《すい》だ。少しゃ酔いがさめたかい」 「蜂屋!」  直記がこちらから鋭い声で極めつけた。  蜂屋はそれではじめてわれわれの存在に気がついたのである。  ぎょっとしたようにこちらをふり返ると私の顔を見て|怪《け》げんそうに|眉《まゆ》をひそめた。そして、しばらくまじまじとわれわれの顔を見くらべていたが、やがて何と思ったのかニヤリと不敵な笑みをうかべて、コトコトと向こうのほうへ立ち去った。佝僂の背中を丸くして、軽く|跛《びっこ》をひきながら……。  蜂屋小市はキャバレー『花』の事件以来、佝僂のうえに軽い跛になっていたのである。 「源造、お父さんを上げてあげな」 「へえ」  水雑炊をくらって、さすがに老人もすっかりしょげかえっている。日本刀はあいかわらず握りしめていたが、その指先には力がなかった。息子の顔を見ると、いくらか面目なげに瞬きをした。 「おい、屋代、いこう!」  驚いたことには、直記は父の災難に手をかそうともしない。|穢《きたな》いものでも吐き出すように、ペッと池のなかへ|唾《つば》を吐くと、そのままスタスタと池をまわっていった。このときばかりは私もなんだか、この老人が気の毒になったものである。 「おい、どうだ、わかったか。この家を化物屋敷という理由が……酒乱のおやじに佝僂がふたり、それに夜歩く女だ。いや、まだまだほかにも化物はいる。ほら、見ろ、あそこにいるのもその一人だ」  直記が立ち止まって、ぐいと|顎《あご》をしゃくったので、私がそのほうへ眼をやると、絵にかいた御殿のような日本座敷の縁側に立って、じっとこちらを見守っている女があった。 「お柳さま……?」 「うん」  お柳さまは八千代さんの生母だから、四十はすでに越えていなければならぬ|筈《はず》だが、見たところ三十そこそこの若さに見える。それでいて、髪は切髪である。白い着物をゾロリと|裾《すそ》|長《なが》に着て、紫色の|被《ひ》|布《ふ》を重ねている。そしてそういう服装がいかにもよく似合っている。細面の古風な純日本式の美人である。  私は一瞬、時代が百年あまりも逆行したような錯覚にとらわれて、しばらく|呆《ぼう》|然《ぜん》とそこに立ちすくんでいたものである。      八千代と守衛  お柳さまの頭には、そのときどんな考えがやどっていたのだろう。われわれがふりかえると、彼女はつと眼をそらして、池のほうへむき直った。池のふちでは仙石鉄之進が、源造にたすけられて、よたよた|這《は》いあがって来るところであった。しかし、お柳さまの眼は、そういう浅間しい愛人のすがたを見ているのではない。彼女はあきらかに眼のすみから、まじまじとわれわれの様子をうかがっているのである。その美しい横顔に、ふいと|謎《なぞ》のような微笑がひろがっていく。なんとなくそれは、みだらな、好色らしい印象をひとにあたえる微笑であった。 「おい、いこう」  突然、あらっぽく直記は私の腕をつかまえると、 「あの|牝狐《めぎつね》めが……」  と、吐き出すように|呟《つぶや》いた。  お柳さまのすがたを|尻《しり》|眼《め》に見ながら、日本座敷の角をまがると、ふいにピアノの音がたかくなった。  考えてみるとこのピアノは、庭へとふみこんで来たときから聞こえているのである。ことに木の根につまずいて仰向けざまにひっくりかえった蜂屋のうえから、さっと日本刀がふりおろされた瞬間、爆発するように高くなって、座敷中をひっかきまわしたのをおぼえている。そのピアノの音はいま静かな呟きとためいきに変わっている。  わたしたちがポーチから入っていくと、女がひとり、こちらに横顔を見せて、ピアノをひいていたが、その横顔があまりにもお柳さまによく似ているので驚いた。むろんお柳さまは古風である。まるで|歌《か》|舞《ぶ》|伎《き》芝居に出て来る|御《ご》|後《こう》|室《しつ》といった|恰《かっ》|好《こう》をしている。それに反して八千代さんはあくまで|尖《せん》|端《たん》的だ。髪をアップにして、|真《ま》っ|紅《か》な花をさしている。|眉《まゆ》をながくひいて、横向きになっていると、|睫《まつ》|毛《げ》がびっくりするほど長い。唇をまっかに塗って、アフタヌーンも燃えるように赤い。よほど赤という色が好きと見えて、スリッパまで真っ赤である。  しかし、それでいて彼女とお柳さまの相似はおおうべくもない。思うに八千代さんの生地はお柳さまと同じく、古風な純日本式の顔立ちなのだろう。それを巧みな化粧によって、近代的な感覚にもりあげているのだろう。『花』の事件が起こった際、ある証人は彼女を古風な美人だといい、ある証人はまた彼女を毒々しいまでに近代的な美人だったと、正反対の証言をしたのも無理はない。見るひとによってどちらともとれるのが八千代さんの顔であり、そこに彼女の化粧の魔術があるのだろう。  さて、われわれが部屋へ入っていくと、そこにもうひとり男のいるのに気がついた。その男はこちらに背を向け、ピアノによりかかるようにして八千代さんの顔をのぞきこんでいる。おりおりその男がなにか|囁《ささや》いているらしく、八千代さんはうっとりした眼で微笑する。その笑顔までがお柳さまにそっくりだった。  私はうしろ姿からして、てっきりその男を蜂屋小市だとばかり思っていた。その男も小市と同じような姿だし、それに服装などもほとんど小市とかわらなかった。私は小市に対して、|嫉《ねた》ましさといまいましさがこみあげて来るのをどうすることも出来なかった。  直記は眉をひそめ、一種異様な|眼《まな》|差《ざ》しで男女ふたりのこの活人画を見守っていた。私はいまでもそのときの直記の眼差しをありありと思い浮かべることが出来るのだが、するとゾクリと冷たい|戦《せん》|慄《りつ》が、背筋をつらぬいて走るのを禁ずることが出来ないのだ。あのとき、かれはいったい何を考えていたのだろう。あの熱っぽい、ギラギラ光る眼光は、いったい何を意味していたのだろう。それはふいと心をかすめてとおった疑惑のあらわれだったろうか。  それとも|軽《けい》|蔑《べつ》と|嘲笑《ちょうしょう》だったろうか。いやいや、ひょっとするとかれもまた、私と同じような|嫉《しっ》|妬《と》に胸をかまれていたのではあるまいか。  だが。……  直記はふと私の視線に気がつくと、あわてて、はげしく瞬きをし、それからぐいと顔をそむけた。そして煙草を出して口にくわえると、ライターを出してカチッと鳴らした。その音に、ふたりの陶酔境はハッと破れたのである。  男も女もはじかれたようにこちらをふりかえった。そして、そのとき私ははじめて自分の思いちがいに気がついたのである。  男は蜂屋小市ではなかった。なるほど体つきや服装は蜂屋によく似ていたけれど、顔はまるでちがっている。この男も佝僂とはいえ、蜂屋と同様なかなか美男子である。しかし、その|美《び》|貌《ぼう》の性質はすっかりちがっていて、蜂屋のずうずうしい、押しの太い|面魂《つらだましい》と正反対、この男にはどこか内面の|脆《もろ》さを思わせるような、弱々しさと空虚さがあった。そのことはかれの眼を見ればすぐわかる。それはまるで|虐《しいた》げられた犬のようにオドオドしている。それでいて、その|臆病《おくびょう》そうな表情のなかに、何かしら、一種異様なひらめきが漂うていた。ちょうど追いつめられた野獣が、突然むきをかえて飛びついて来ようとする、あの瞬間の殺気にも似たかがやきが……。いうまでもなくこれが古神家の当主|守《もり》|衛《え》にちがいない。 「あら、いやアなひとね。いつ入っていらしたの」  ピアノのよこへ立って、くるりとこちらをふりかえった八千代さんの顔には、一瞬バツの悪さをおしかくすような頼りなげな微笑が動揺している。私はそこではじめて彼女の顔を正視することが出来たのだが、すると、今まで彼女の容貌をくるんでいた、あの古風なお柳さまの面影は一瞬にしてくずれて、そこにはいきいきとした、|悪《いた》|戯《ずら》っぽい、それでいて、どこか心の平衡をうしなっているような、美しい小悪魔が躍動しているのである。白痴美というのは、こういう美人のことをいうのかも知れないと、私はその時かんがえた。 「いや」  直記はにべもなくいいはなつと、ゆっくりとライターの火を煙草にうつした。  守衛はピアノのそばをはなれると、コトコトと向こうのソファへ歩いていったが、その後ろ姿がビクビクはげしくふるえているところを見ると、この男の内心の怒りが思いやられる。さっき眼底からほとばしり出た殺気といい、また、この|凄《すさま》じい|痙《けい》|攣《れん》といい、この一見無能力者かに見える男が、いかに恐るべき激情家であるかがわかるのだ。 「八っちゃん、ありゃアいったいどうしたんだ」  直記は守衛のほうには眼もくれなかった。きっと八千代さんの顔をにらみながら、詰問するような調子だった。 「あれってなアに?」  八千代さんは鼻のあたまに|皺《しわ》を寄せて、かるく首をかしげた。それでいて、眼も口も、そしてからだまでが笑っているのである。 「おやじのことさ。おやじと蜂屋のあの醜態さ。ありゃアいったいなんのざまだ」 「ああ、あれ」  八千代さんはフフフとわらうと、遠いところを見るような眼つきになって、 「あれは蜂屋さんが悪いのよ。もっともおじさんのくせを知らないんだから無理もないようなものね。お酒を飲みすぎて、しつこくお母さんにからみついたのよ。あのひと、酒を飲むととてもしつこくなる。そのくせが出たのね。おじさんのまえでお母さんの手をにぎったり、|頬《ほお》を寄せたり……むろん、本心じゃないわ。いやがらせよ。あのひとにはひとのいやがるところを見てよろこぶくせがある。いやなくせね。ところがお母さんというひとがあんなひとでしょう。誰でもいいのよ。若い男がちやほやすればよろこんでンの。だからしゃあしゃあとしておじさんのまえで、蜂屋さんのおもちゃになっていたわ。おじさんも、はじめのうちは面白そうに見ていらしたが、蜂屋さんがあんまりしつこいもンだから、とうとう爆発したのね。どっちもどっちよ。つまらない話……」 「八っちゃん、君はそれを見ていたのかい」 「ええ、見てたわ。バカバカしくなったから途中でこっちへひきあげて来たのよ。直記さん、蜂屋さんどうかして?」  まるでそれは、ひねりつぶされた|蠅《はえ》の安否でも気づかうような調子であった。 「ううん、どうやらまあ助かったが、君から蜂屋によくいっておけ。おやじは危ないから、あんまりとりあわないようにしろと」 「ええ、いっとくわ。でも、あのひときくかしら。こんなことがあると|意《え》|怙《こ》|地《じ》になるひとなんだから。でも、それより直記さん、紹介して下さらないの。こちら屋代さんでしょう」 「ふむ、君の御希望によってつれて来た、三文小説家の屋代寅太。屋代、こちらが八千代。向こうにいるのが兄貴の守衛。こんなことをいわなくてもわかっているだろうがね。あのからだを見れば……」  直記はそのあとへあっはっはと毒々しいわらいをつけ加えた。私はこういう扱いになれているから、別になんとも思わなかったが、守衛はビクリとからだをふるわせたようである。いったい人は誰でも肉体上の欠点を指摘されることを、何よりも忌み嫌うものである。直記はそれを知っていて、相手の感情をさかさに|撫《な》であげているのだ。私はむしろ守衛に同情せずにはいられなかった。直記はしかし、他人の感情などいっさいお構いなしで、 「しかし、いったいどうしてあんなことが持ち上がったのだ。いや、おやじの酒乱はよく知っている。蜂屋のからんで来たことも、あいつならやりそうなことだ。しかし、ぼくのいうのはそのことじゃないのだ。おやじはちかごろ酒をつつしんでいる。飲んでもほどということに気をつけているようだ。昼日中から酒を飲むようなことはめったにない。それになんだってきょう……」 「あら、直記さん、御存知ないの」 「何を……?」 「今日は父の十三回忌よ。それでお母さん、あんな殊勝らしいなりをしているんじゃありませんか。おじさんにはそれが気にいらないのよ」  直記は|眉《まゆ》をつりあげただけで、別になんともいわなかった。 「お母さんにしてみれば、せめてきょうだけは父の想い出に生きていたいのよ。|日《ひ》|頃《ごろ》の罪ほろぼしにね。ところがそれがおじさんには痛いのよ。良心にさわられるのね、あんなひとでも……で、まるでお母さんがわざと当てつけてるみたいに、変にヒネくれて、気をまわして、そこで面白くないからヤケ酒というわけよ。それもひとりでは詰まらないって蜂屋さんを呼び寄せて……その揚句があの騒ぎ。おじさんもちかごろヤキがまわったわね」  フフンとあざわらうように、八千代さんは鼻のあたまに|皺《しわ》を寄せると、部屋の中央にあるテーブルのそばに腰をおろして、煙草入れのなかから煙草をとり出した。 「火を貸して頂戴」  直記がライターを取り出そうとするのを構わずに、八千代さんは|猿《えん》|臂《ぴ》をのばして直記の口から煙草をとると、火をうつして、直記の煙草はそのまま灰皿のなかにつっこんでしまった。 「だけどね、ほんとうをいうとお母さんも悪いのよ。おじさんの気にさわることを承知のうえで、あんななりをしているんですもの。おまけにわざと蜂屋さんにしなだれかかってみたり……どうも変よ。おじさんとお母さん、ちかごろ雲行き険悪なんじゃない?」  直記はブスッとしたままこたえなかった。 「お母さんも若い若いったってもう年ですものね。いくらか|後生気《ごしょうっけ》が出て来たのかも知れない。ちかごろよく浮かぬかおをしているわ。きっと後悔しているのよ、おじさんとのこと……それでおじさん、納まらないのよ。どう? おじさんちかごろ、妙にいらいらしてるように見えなくって?」 「そんなことはどうでもいい。それより八っちゃん、おれが気になるのはあの刀のことだ。おやじ、いったいあの刀を、どこから引っ張り出して来たんだ」 「あの刀って……?」 「八っちゃん、おまえ忘れたのかい。おやじめ、酒乱を起こすとあの刀を振りまわすくせがある。危なくって仕様がないから、ついこのあいだ、おまえとおれとであの刀を、おやじの眼につかないところへかくしておいた|筈《はず》じゃないか。それをいったい、いつの間に……」 「と、いうことは誰かこの家に、ぼくを殺させようと|企《たくら》んでるやつがあるわけだね」  私たちがふりかえると、ポーチから入って来たのは蜂屋小市であった。蜂屋のやつどこかでおめかしをしていたに違いない。服を着更え、髪をきれいに撫であげて、そうしていると佝僂とはいえ、色の浅黒い、なかなかの好男子である。かれの顔を見たとたん、私はそっと守衛のほうをふりかえってみた。守衛は毛虫にでもさわられたように、ビクリと眉をふるわせたが、それでも、立って出ていこうともせず、ソファに|坐《すわ》ったままそっぽを向いている。 「蜂屋さん、それどういう意味? あなたはこの家のお客さんじゃありませんか。別に深い関係があるわけじゃアなし、フフフ、誰があなたを殺そうなどと、考えるもんですか」 「そう、いまンところ、まだ別に深い関係はないさ。しかし、早晩、切っても切れぬ関係が出来ようとしている。八っちゃん、そうじゃないのか、君は……」  なれなれしく、蜂屋が八っちゃんと呼んだ|刹《せつ》|那《な》、私は首筋へ毛虫でも入れられたようにゾクリとした。なんともいえぬいやアな気持ちだった。八千代さんはフフンというように、鼻のあたまに皺を寄せて、煙草の煙を輪に吹いている。蜂屋の眼が急にギラギラ輝いた。 「蜂屋君、君はしかし、どうしてそんなことを考えるんだ、この家に君を殺そうと企んでいるものがあるなんて……」  蜂屋は急に直記のほうをふりかえった。 「あの刀だ」 「あの刀?」 「そうだ、あの刀だ。いまそこで聞いていれば、あの刀は君と八っちゃんのふたりで、おやじの気のつかぬところへかくしておいたというじゃないか。ところがおやじめ、|癇癪《かんしゃく》を起こして何かえものはなきものかと、ぐるぐる座敷を|見《み》|廻《まわ》した揚句、がらりと押入の|襖《ふすま》をひらくと、……」 「がらりと押入の襖をひらくと……?」 「そこにちゃんと、あの刀があったのだ。おい、これを君たちはどう説明するんだ」  蜂屋はニヤニヤわらっている。しかしその眼は妙にギラギラ、兇暴な光をうかべて、ひとりひとり突きさすように顔をにらんだ。      明かずの窓 「お茶番よ、なあ、いまから考えるとおかしくなる。しかし、あのときは笑いごとじゃなかったぜ。おやじが|躓《つまず》かなかったら、あのときおりゃア、|真《ま》っ|向《こう》唐竹割りになっているんだ。なあ、仙石、そうじゃなかったかい」  直記はだまって答えなかったが、さすがに暗いかおをしている。私もあの刹那の|戦《せん》|慄《りつ》を思い出して、思わずゾクリと肩をすぼめた。 「おりゃアまさかあのおやじに、あんな兇暴な発作があろうたア夢にも知らなかった。知ってたら、ああまでしつこくからみつくんじゃなかったンだ。おれだって命は惜しいやね。ところで、ここの屋敷の連中は、みんなおやじに、ああいう兇暴な発作のあることは知ってる|筈《はず》だ。それだのに、なぜおれをとめてくれなかったんだ」 「とめたわよ。とめたけれどそれでとまるあなたじゃなかったじゃないの。|意《え》|怙《こ》|地《じ》になって、ますます図に乗って……」 「だけど、酒乱のことはおれも知らなかった」 「そう、そこまではいわなかったわ。だってあたしあんなとこに刀があるなんて事、夢にも知らなかったし、少しゃアあなたも思い知るがいいと思ったもんだから、わざと黙っていてやった」 「あっはっは、有難い仕合わせさ。しかし、あの刀だ。あの刀はどうしてあそこにあったんだ。たとえにもいうとおりなんとかに刃物だ。誰があんなところへ刀を……」 「ひょっとすると、おじさんが自分で見付けて、こっそりかくしておいたんじゃ……」 「いや、そんな筈はない。おやじはあれで自分の酒乱を気にやんでいるんだ。あの刀をかくしておくように頼んだのもおやじ自身だ。よしんばかくしどころを見付けたところで、自分の|手《て》|許《もと》へ持って来るようなことはない」 「そうだ、それに……あのときのおやじの顔色がそのことを物語っているぜ。おやじめ、だしぬけに|盃《さかずき》を投げつけやアがった。それから立ち上がって、口から泡をふきながらけだもののように座敷の中を歩きまわっていたが、やがて押入の|襖《ふすま》をひらいたんだ。するとそこにあの刀があった。それを見つけたときのおやじの顔色は……まるで、世にも意外なものを発見したように、大きく眼を見張り、ブルブル肩をふるわせていやアがったぜ。おやじ自身、そんなところに刀があることは、夢にも知っていなかったんだ」 「しかし、ねえ、蜂屋君」  誰も口をひらくものがなかったので、私はふと思いついたままのことを口に出した。 「誰がそこへ刀を持っていったにしろ、そいつはきょう、こんな事態が持ち上がろうと、予測することは出来なかった筈じゃないか。君がからんで仙石のおやじさんの酒乱が爆発する。そんなこと、誰だって、あらかじめ勘定に入れとくわけにはいかないじゃないか」  蜂屋は不敵なせせらわらいをうかべた。 「フフフ、また屋代の得意の論法がはじまったな。|理《り》|窟《くつ》をいえばそうさ。しかし、なあ、実際にきょうああいう事態が起こったんだぜ。しかも、危うくその犠牲者になろうとしたのがこのおれさ。思い出してもぞッとすらア。すってんころりとひっくりかえりの、ざあッと風を切って|白《はく》|刃《じん》をふりおろされて。……おらア首筋がひやッとした。理窟なんかどうでもいいんだ。誰があそこへ刀を持っていったのか、それを調べあげなきゃアおかないんだ」 「仙石、その刀はどこにかくしてあったんだ」  私の質問に直記がなにかこたえようとしたときである。廊下のドアがひらいて、妙な男が顔を出した。  その男、年は四十から四十五までのあいだであろう。ずんぐりと肉付きのよい体をして|羽織袴《はおりはかま》、着ているものは悪くはない。頭は丸坊主にしているが、男振りも悪くはなかった。それでいて、どこかこの男には|冴《さ》えないところがある。第一、眼付きがどろんとしている。|口《くち》|許《もと》にしまりがない。肉付きのよい顔は、子供のようにつやつやとして|脂《あぶら》ぎっているが、意味もなくニヤニヤとわらいながら、一座の顔を|見《み》|廻《まわ》す口許からは、今にも|涎《よだれ》がたれそうであった。 「直記さんや」  のろのろとした、甘ったるい調子でその男は直記に呼びかけた。口のなかにいっぱい|唾《つば》がたまっているような声だった。直記はそっぽを向いて返事もしなかったので、かわりに八千代さんが声をかけた。 「|叔《お》|父《じ》さん、どうかしたの、何か御用?」 「う、う、八っちゃん、こ、これ、どうしたもんじゃろうなあ」  ずうっと前へさし出したものを見て、われわれは思わずビクッとうしろへ身をひいた。それは抜身のままの白刃だった。氷のような冷たい光が、ひやっとわれわれをちぢみあがらせた。 「バ、バカ、馬鹿!」  直記は突然立ち上がって、その男の手から抜身をうばいとった。 「抜身のままさげて来るやつがあるか、|鞘《さや》はどうしたんだ鞘は……」 「鞘はここにあるがな」  左手でうしろにかくしている鞘を、男はのろのろとまえに出した。直記はそれをひったくると、パチンと刀を鞘におさめて、 「これはこちらへ預っておく。あんたはあっちへいっていらっしゃい」 「ええかな。また、さっきみたいな間違いがあると困るぞな。仙石もええ男じゃが、酒を飲むと、どだいわやじゃ。あっちの|御《ご》|仁《じん》が木の根につまずいて倒れたときには、わしはぎょっとして冷汗が出たがな」 「よろしい、よろしい。そんなことはもう忘れてしまいなさい。これはしっかりこっちで預っておく」 「そうかな。それでは直記さん、よろしゅう頼みますぞ」  ニヤニヤわらいながら、なめるように一同の顔を見廻すと、その男はドアをしめて、のろのろと立ち去っていった。 「誰だい、直記、あの男は……」  直記のかわりに八千代さんがこたえてくれた。 「あたしの叔父さん」 「あなたの叔父さん?」 「ええ、そう、父の弟よ」 「なに、先代の異母弟さ。先々代が女中にうませて、どこかへ里子にやってあったのを、うちのおやじが妙な|義侠《ぎきょう》心を起こしてひろって来てやったのさ。この家の飼い殺しさ。あの年になってまだ女房もない」 「少し……」  と、いいかけて、私はすぐ気がついて口をつぐんだ。|守《もり》|衛《え》や八千代さんの前であることに気がついたからである。蜂屋はしかし、そんなことに遠慮するような男ではなかった。 「少しどころか、大々的パア太郎さ。屋代君は知らないのかい。この古神家という家は、古池のように血がにごっているんだ。どいつもこいつもひとりとして、ましな人間はいやアしねえ。からだばかりか、精神までみんな片輪だ」  ふいに守衛がすっくと立ち上がった。私はその顔を見てまったく驚いてしまったのである。弱くて、卑屈で、|臆病《おくびょう》な男も、ある限界に達すると、それ以上屈辱に耐えていけないことを、そのときの守衛の表情がよく物語っている。守衛の顔は|真《ま》っ|蒼《さお》にひきつっていた。憎悪にくらんだような|瞳《どう》|孔《こう》が、まっくろにひろがって、異様に熱っぽくギタギタと光っている。何かいおうとするらしかったが、舌がもつれて口が|利《き》けないらしい。|顎《あご》ばかりガタガタふるえている。 「キ、キ、キ、貴様、貴様、貴様」 「貴様がどうかしたかい。あっはっは、そうしてるところはさっきの男にそっくりだ。貴様ももう五、六年すると、あのとおりになるだろうぜ」  蜂屋は|椅《い》|子《す》に腰をおろしたまませせらわらっている。守衛はぜいぜい肩でいきをしながら、何かいおうとするらしかったが、適当な言葉のうかばぬもどかしさに、地団駄をふんでいたが、やにわに|猿《えん》|臀《ぴ》をのばして、ピアノのうえにあった花瓶をとりあげた。 「危ない!」  私は椅子を|蹴《け》って立ち上がったが、そのとたん、首をすくめた蜂屋の頭上すれすれに、花瓶はとんでポーチにあたって砕けてちった。 「ちき生」  蜂屋もさすがに怒気満面、椅子を蹴ってとびあがったが一瞬早く、八千代さんがふたりのあいだに割って入った。 「お止しなさい。バカらしいわ。きょうはみんなよっぽどどうかしてンのね。陽気の加減かしら。|喧《けん》|嘩《か》はよしたっと。兄さん、向こうへいきましょうよ」  守衛の手をとってさっさと廊下へ出てしまった。  蜂屋はギリギリ歯をかんでいる。しばらく燃えるような眼をして、廊下のほうをにらんでいたが、ふと、私の視線に気がつくと、さすがにきまりが悪かったのか、どっかと椅子に腰をおとした。 「フフン。とんだ災難だ。さっきは|真《ま》っ|向《こう》唐竹割り、今度は花瓶で頭割り、おい、これが古神家の客に対する礼儀かい」 「おれはこの刀をしまって来る」  直記も立ってそそくさと部屋を出ていった。  あとには蜂屋と私のふたりだけである。蜂屋はいまいましそうに直記のうしろすがたを見送っていたが、やがてその眼を私のほうに戻すと、探るように顔を見ながら、 「おい、君はここへ何しに来たのだ」  と、詰問するような調子である。 「別になにってわけはないがね。直記があそびに来いというものだから……」 「君はこの家をよく|識《し》っているのかい」  私は首を左右にふって、 「ううん、ぼくの識ってるのは直記だけだ。この家へ来るのは今日はじめてだし、ほかの連中にあったのもこれがはじめてだ」 「直記とは……?」 「学校時代からの友達だ」  蜂屋はニヤリと意地の悪い微笑をうかべて、 「ああ、そうか、売れもしない小説を書いてるくせに、君が相当ゼイタクな生活をしているのは、どこかに|金《かね》|蔓《づる》を持ってるンだろうという評判だが、その金蔓というのはあの直記の野郎だったのかい。つまり君はあいつの|幇《ほう》|間《かん》というわけだな、あっはっは」  私はもうこういう侮辱に慣れているから別に腹も立たなかった。いや、腹は立っても、それを顔色に出さぬだけの修練をつんでいた。  蜂屋も拍子抜けがしたように、 「しかし、あの直記というやつも|喰《く》わせものだぜ。|座《ざ》|敷《しき》|牢《ろう》みたいななかへ、変な女をかこっていやアがったが、二、三日まえにどこかへつれていってしまやアがった。いったいどこへ連れていったのかな」 「座敷牢……?」  私は驚いて蜂屋の顔を見直した。 「そうよ。この奥の林のなかに変な建物があるンだ。小っちゃな洋館でね。いつでも窓がぴったりしめてある。おまけにその窓には外から厳重にかすがいが打ちこんであるんだ。おりゃはじめ|空《あき》|家《や》になってるのかと思ったが、おりおり中から、女の泣声がするので驚いた。顔は見ないが、まだ年若い女の声だ。変に思って八千代にきいたら……」 「八千代さん、何んていってたい?」 「フフフと妙なわらいかたをしながら、直記さんの恋人よ、気が変になったので、世間態をはばかって、あそこへかくしてあるのよ。……」  私は急にムラムラと妙な疑惑に胸をどきつかせた。直記の女なら、たいてい私は知っている筈である。直記はとっかえひっかえ女をこさえたが、長くても半年とつづくことは珍しかった。そんな際、いつも|尻《しり》|拭《ぬぐ》いをするのが私の役目だから、いやでもかれの女といえば、ことごとく知っているわけである。しかし、いままで直記の情婦で、気が狂った女があるなどということは、一度も聞いたことはなかった。ましてや直記がその女を、自分の家にかくまっているなどということは、いまここで蜂屋の口からきくのが初耳だった。ひょっとすると、それは私が一年ほど軍隊生活をしているあいだに出来た女かも知れない。 「何を妙なかおをしているんだい。あっはっは。幇間先生、パトロンの秘密をかぎつけて、また一仕事しようというんだな。しまった、それと知ったらこう|易《やす》|々《やす》ときかせてやるんじゃなかった」 「そして直記のやつ、二、三日まえにその女をほかへ連れ出したというんだね」 「うん、自動車を呼んで来てね、無理矢理に女を押しこみどこかへ連れていってしまったよ。ありゃア一昨日のことだったかな」 「どんな女だった?」 「なに、遠くのほうから、ちらとうしろ姿を見ただけだから、どんな女かわかりゃしない。どうせこっちは興味のないことだしね」  私は黙ってかんがえこんだ。直記はなぜいままでそのことを自分にかくしていたのだろう。相当うしろ暗いことがあっても、たいていのことは自分に打ち明け、自分の知恵と助力をこいに来る直記だのに。……しかし、蜂屋にとっては、もうその女は問題ではないらしく、 「どうも変だぜ、この家は? まるで|化《ばけ》|物《もの》屋敷だ。直記といい、直記のおやじの鉄之進といい、お柳さまといい、守衛といい、八千代だって|只《ただ》の|鼠《ねずみ》じゃねえ。それにさっきのうらなりといい……」 「うらなりたア誰だい」 「守衛の叔父よ。|四《よ》|方《も》|太《た》というんだ、あいつは……」 「化物屋敷といえば、君自身も、そのお仲間じゃないのかい」 「あっはっは、大きにそうかも知れん」 「いったい、君こそどうしてこの家へ来たんだ」 「八千代のやつに招待されたからさ」 「君はまえから八千代さんを知っているのかい」  蜂屋はふいに私のほうへ向きなおった。そして探るように私の顔を見ながら、 「ううん、極く最近だ。あいつア、おれのアドマイヤーだというんだ。それでよくよく聞いてみると、おれの絵なんか一枚も|識《し》ってやアしねえ。でも、すぐにおれに|惚《ほ》れちゃって、遊びに来いというもんだから、のこのこやって来たというわけさ」 「君はこの家に、守衛という、君と同じような人物がいることを識っていたのか」 「そんなこと識るもんか。来て見て驚いたのさ。おい、屋代君、知ってるなら教えてくれ。おれはなんのためにここへ招かれて来たんだ」 「そんなこと、ぼくに分ろう筈がないじゃないか。君は八千代さんに惚れられて……」 「いや、それは表面の理由だ。その底にはなにかもっと深いたくらみがあるにちがいないんだ。君は直記のふるい友達だから、何か知っているんだろう。知ってたら教えてくれ。おりゃア何だか気味が悪くてたまらないんだ。ゾクゾクするんだ。背筋が寒くなるんだ」 「それなら、この家を出ていけばいいじゃないか」  蜂屋は急にすごい眼をして私をにらんだ。 「八千代のやつをのこしたままかい、そんなことが出来るもんか。おれゃ……おれゃ……どうしてもあの女を、自分のものにせずにゃおかないんだ。畜生、あの|阿《あ》|魔《ま》!」  それから蜂屋は|咽《の》|喉《ど》の奥でひくくわらいながら、 「いや、君にこんな話をしたのは間違いだった。おれは人に弱身を見られるのが嫌いなんだ。自分のことは自分でしまつする。屋代、いまおれのいったことは忘れてくれ」  蜂屋は立ってのろのろ部屋を出ていった。あとから考えると、生きている蜂屋の姿を私が見たのは、これが最後だったようである。      村正をかくす  その夜の食事は妙に気まずいものだった。  いったい古神家では外国流に、四度食事をとるとみえて昼食と晩食とのあいだに、かるい食物とお茶が出る。したがってほんとうの夕食は九時ごろになるのである。  その晩、洋館の食堂へ出たのは、直記に守衛に八千代さん、それから私と、この四人きりだった。直記の父やお柳さま、それに四方太などは日本建てのほうで食事をとるし、蜂屋は気分が悪いといって食堂へ出て来なかった。  憎まれ者の蜂屋が出て来ないということは、一同に一種の|安《あん》|堵《ど》感をあたえそうなものだったが、それが反対に、妙に不安をそそったらしい。いや不安というよりも、拍子抜けがしたのかも知れぬ。食事中、ほとんど誰も口をきかなかったし、食事がすんで煙草になってからも、みんなおもいおもいの顔色で、妙に押しだまっていた。  そして、そのことが私にとって、何よりも有難かったのである。と、いうのは、食前に飲んだ酒の酔いが、おいおい|廻《まわ》って来て何んともいえぬよい気持ちだったし、その上に誰もよけいなおしゃべりをしないので、思うぞんぶん、八千代さんの美しさを観賞出来たからである。  実際、その晩の八千代さんは美しかった。昼とはうってかわって真っ黒なイヴニングに真珠の|頸飾《くびかざり》、|唯《ただ》それだけの装飾なのだが、それが一層彼女の美しさを際立たせていた。頸にかけた真珠にもまがう肌の色がまるで|爬虫類《はちゅうるい》の腹かなんぞのように、|妖《あや》しく底光りするかと思われるほどだった。  私はいくらかちらちらする眼で、その美しさを満喫しながら、心ひそかに悦に入っていたが、すると、ふいにすっくと八千代さんが立ったのである。 「…………」 「…………」  直記と守衛が期せずして、彼女の顔をふりあおぐ。八千代さんはいらいらしたように、ハンカチを|揉《も》んだりのばしたりしながら、 「あたし、もうたまらない。これ以上、腹のさぐりあいはまっぴらよ、ええ、ええ、皆さんの考えてることはよくわかってるわ。蜂屋さんの出て来ないのをよろこんでいながら、一方ひそかにおそれてるんでしょ。ええ、そうよ、そうよ。あのひとが何かたくらんでるんじゃないか。……何か今日の仕返しを計画してるんじゃないかと、そんなふうに考えてビクビクしているんでしょ。あの人に何が出来るもんですか。でも、皆さんがそんなに|怖《こわ》がるなら、あたしちょっと様子を見てくる」  まるで駄々っ児のような調子だった。実際彼女はイヴニングの|裾《すそ》をからげながら、可愛い|爪《つま》|先《さき》で地団駄をふんでいた。 「八千代!」  直記が鋭い声でよびとめた。だが、そのまえに八千代さんは、くるりと|踵《きびす》をかえすと、調理場のほうへ入っていったが、すぐお盆のうえに二、三品の食べ物と水の入ったコップをのせて出て来た。そして、そのままものもいわずに、食堂を駆けぬけると、食堂のすぐまえにある広い階段をのぼっていった。 「どうしたんだい、仙石、八千代さんはなんだってあのように|昂《こう》|奮《ふん》してるんだ」  私はあっけにとられて直記をふりかえった。今までこころひそかに楽しんでいた美しい影像が急に消えてなくなったので、いくらか、がっかりした気持ちも手伝っていたのである。 「なあに、|近《ちか》|頃《ごろ》はいつもあのとおりよ、無理もないやね。化物みたいな連中にとりまかれて、やいのやいのと責め立てられちゃ、誰だって多少気が変になるのは当たりまえさ」  直記はかわいた声をあげて毒々しくわらうと、ポケットから|爪《つめ》|磨《みが》きの道具をとり出して爪を磨きはじめる。佝僂の守衛はそれをきくと、ギクッと|椅《い》|子《す》から立ち上がり、ギラギラするような眼で、しばらく直記を見つめていたが、直記が相手にならないのを見ると、フフンと唇をねじまげてわらった。そしてもう一度、もとの席に腰をおろすとポケットからパイプを出して火をつけた。 「そういうおまえだって、化物のひとりじゃないか」  守衛のいいたかったのはそれだったのだろう。  そのとき二階でバターンとドアのしまる音がしたので、二人は|弾《はじ》かれたように天井を|視《み》たが、すぐ気がついたように視線をそらすと、それきり誰も口を|利《き》かない。  直記はせっせと爪を磨いている。守衛は食卓に|頬《ほお》|杖《づえ》をついて、しきりに煙草を吹かしている。だが、そういうさりげない姿勢のうちに、ふたりとも全身全霊をもって、二階の気配をうかがっているのである。その二階では、さっきドアの締まる音がしたきり、あとはコトリとも物音がしない。  むろん、これだけの建物だし、二階と階下とはなれているのだから、ドアをしめてしまえば、ふつうの話声や物音では、きこえないのが当然なのだが、それにも|拘《かかわ》らず、その静けさが、息苦しいほどふたりの心を|掻《か》きみだすのである。直記の爪磨きはしだいに急ピッチになって来るし、守衛のふかす煙草の煙は、だんだん小刻みになって来る。  私にはそういう二人の様子を見まもっているのがたいへん面白かった。|態《ざま》ア見ろ!……そういってわらってやりたいくらいだった。だが、それと同時に私自身、しだいにじりじりして来る気持ちを、どうしようもなかった。いつの間にやら私自身、全身を耳にして二階の気配をうかがっているのである。  二分、三分、五分。——  三人の男の|瞋《しん》|恚《い》のほむらがこって、あたりの空気がしだいに濃度をまして来るように思われる。私はあまりの息苦しさに、何か大声を出して叫びたくなったが、するとそのとき突然、直記が椅子をけって立ち上がった。 「|寅《とら》さん、話がある。ちょっとおれの部屋まで来てくれ」  守衛もビクッと椅子から腰をうかせる。  直記は、しかし、それに眼もくれず、|大《おお》|股《また》に食堂を出ていくと、はや、階段に足をかけている。 「屋代、何をグズグズしているんだ。早く来ないか」  まるで飼犬でも呼ぶような調子である。さすがに私はためらったが、するとそのとき守衛のやつが、私たちの顔を見くらべながら、ニヤリとわらってこんなことをいった。 「屋代君、早くいきたまえ、グズグズしてると|旦《だん》|那《な》をしくじるぜ」  そのときくらい私は屈辱をかんじたことはない。いくどもいうように、私は直記の横柄さにはなれっこになっている。かれはときどき、私をまるで犬か猫かのように扱うことがあるが、それでも私は平気である。しかし、守衛のような不具者にまで馬鹿にされるかと思うと、一瞬、私は全身がもえるように熱くなるのをかんじた。一寸の虫にも五分の魂である。相手がもしあわれな佝僂でなかったら、私はぶんなぐってやった所だ。  守衛はそういう私の顔色に気がついたのか、いささかおそれをなした|態《てい》で、ヘタヘタと椅子のなかにくずれてしまった。私はそれを|尻《しり》|眼《め》にかけて食堂を出ていった。階段の下では直記がむずかしい顔色をして待っていたが、私をみるとすぐくるりと背をむけて、スタスタと上へあがっていった。私がむろん、よたよたとそのあとからついていったことはいうまでもないが、正直のところ、そのとき私はかなり酔うていたのである。階段をあがるにも、はあはあと息切れがするくらいだった。だから、やっと階段をあがりきったところで、いきなり誰かにぶつかったときには、危うく足を踏みはずして、真っさかさまに下へころげおちるところだった。 「あっ、御免なさい!」  これまた危うくころげおちるところを、やっと壁に身をもたせて、|辛《かろ》うじてからだの平衡をたもっているのは八千代さんだった。  見ると八千代さんは髪ふりみだし、|真《ま》っ|蒼《さお》になって息を|弾《はず》ませている。そればかりではなく、イヴニングの肩から胸へかけて大きく裂けて、むっちりとした乳房がのぞいている。私ははっとして、思わず眼をそらせた。 「八っちゃん、どうしたのだ、行儀の悪い!」  階段のうえから直記がきびしい声でたしなめた。 「ううん、何でもないの。蜂屋のやつが酔っぱらって……」  それだけいうと八千代さんは、イヴニングの肩をたくしあげながら、私のそばを駆け抜けるように階下へおりていった。すれちがうとき、ふと見ると、イヴニングの下からのぞいている肩に、なまなましいみみず|脹《ば》れがひとすじ走っているのが眼にうつった。  直記と私はしばらく顔を見合わせていたが、やがて直記がそっぽを向くと、物もいわずに歩き出したので、私も無言のままそのあとについていった。  蜂屋の部屋は階段をあがったところから三つ目の部屋である。通りすがりに見ると、ぴったりしまったドアのすきから、かすかに|灯《ひ》の色がもれていたが、中からはコトリとも物音はきこえなかった。  直記の部屋はそこを通りすぎて、廊下を曲がった角にある。私たちが入っていくと直記は用心ぶかくドアをしめた。 「まあ、掛けたまえ」 「うん」  私たちはめいめい勝手なところに腰をおろすと、煙草を出して火をつけた。そしてしばらく無言のままで、煙の行方を視つめていたが、やがてたまらなくなって、私のほうから口を切った。 「仙石、話というのはなんだね」 「ふむ、実は……」  と、直記はそれでもしばらくためらっているふうであったが、やがて思いきったように、煙草の|吸《すい》|殼《がら》を灰皿へつっこむと、立ち上がってベッドの下へ手をつっこんだ。 「話というのはこのことだがね」  そういいながら、ベッドの下から取り出したのは、昼間|四《よ》|方《も》|太《た》からとりあげた日本刀である。私は思わずギョッとして、直記の顔を見直した。直記はひきつったようなわらい顔をしながら、 「屋代、こんなことをいうと君はわらうかも知れん。わらいたければいくらでもわらえ。しかし、とにかく、おれは何んだか|怖《おそ》ろしくてたまらないのだ。心配でたまらないのだ。なあに、守衛や蜂屋のことじゃない。あいつらはたかがさかりのついた犬みたいなものだ。八千代をとりまいて、キャンキャンわめきたてているだけのことなのさ。おれが|怖《こわ》いというのはそれじゃない、これだ、この刀だ。こいつは無銘だが、昔から村正だという評判がある」  私は急におかしくなって吹き出しそうになった。しかし、直記の|蒼《あお》|白《じろ》んだ顔を見るとすぐに笑いもひっこんでしまった。いや、それのみならず、直記のような高等教育をうけた人物が、真剣になって講談まがいの村正の怪談を持ち出すところに、何んともいえぬ深刻な恐怖がかんじられて来るのだった。 「おやじがこの刀をおそれているのもそのためなのだ。おやじは自分で自分の酒乱を知っている。ちかごろはお柳さまとの仲がうまくいっていないから、いらいらして、いっそう酒乱が|昂《こう》じ気味になっている。いつかそういう酒乱の際、この刀で誰かを|斬《き》り殺すのではなかろうかと、おやじはそれをおそれているのだ。つまり、自分で自分が信用出来ないのだね。だから、ちかごろではつとめて自分をおさえ酒の量もなるべく過ごさぬようにしているのだが、しかし、それでもまだ不安だったのか、おれにこの刀を、どこか自分の眼につかぬところへ隠しておいてくれるように頼んだのだ。そこでおれはおやじにいわれたとおり、この刀を隠してしまったのだ。それだのに……それだのに、どうしてこの刀がきょう、向こうの座敷の押入の中にあったのだ」  なるほど、話をきくと妙だ。直記の語るところによると、仙石鉄之進という人は酒乱が昂じて来ると、渇したものが水を求めるように、この村正を求めるのだそうだ。押入の中へ日本刀を持ち出したやつは、それを知っているにちがいない。つまり、この村正によって、鉄之進を誘惑し、かれによってこの古神家に大惨劇の起こることを期待しているにちがいない——と、直記はこういうのである。 「ふふん、そして君はいったいこの刀をどこへ隠しておいたのだね」 「仏間にある仏壇の|抽《ひき》|斗《だし》の奥へ隠しておいたのだ」 「それを知っているのは君だけかい」 「いいや、八千代も知っている。八千代とふたりで相談して、そこへ隠すことにきめたのだ」  私たちはそこで探りあうように顔を見合わせていたが、やがて私は重っ苦しく|咽《の》|喉《ど》の|痰《たん》を切った。 「まさか……八千代さんが……それに仏壇の抽斗といやアそれほどうまい隠し場所じゃない。誰かが偶然ひらいてみて……」 「いや、まあ、聞け、屋代。おれだってまさか八千代が正気で、この刀を持ち出したとは思わない。しかし……ほら、昨日もいったとおり、八千代には夜歩く病気がある。ひょっとすると、自分では何も知らないで夢中で刀を持ち出したのじゃ……」 「しかし……それだって……変だぜ。いったい夢というやつは、潜在意識下に押しこめられている願望のあらわれだということになっている。とすれば、夢中遊行時の行動だって、|日《ひ》|頃《ごろ》抑制された願望のあらわれだということになるじゃないか。八千代さんはなにも……」 「ところが、それがあるんだ。八千代はおやじを憎んでいる。それこそ、憎んで憎んで八つ裂きにしてもあきたらぬくらい憎んでいる。いや、おやじのみならず、現在おのれの生母のお柳さまさえ、|蛇《だ》|蝎《かつ》の如く憎んでいるのだ。だからあいつはこの刀で、おやじにお柳さまを殺させようとしたのじゃ……」 「止したまえ。止したまえ。そんな恐ろしい想像は止したまえ」  私は思わずゾッと鳥肌の立つのをかんじた。あわてて直記の言葉をさえぎった。それから出来るだけ落ち着いて、こう言葉をつぎ足した。 「そんな想像はこの際、何の役にも立たないぜ。八千代さんがそんなことをしたとしても、夢中遊行時の行動だとすれば、彼女は何も知らないわけだ、追及するにも追及の方法はあるまい、それよりも、善後策を講じるのが第一だ、二度ときょうみたいなことが起こらないようにね」 「それだよ、実は君にここへ来てもらったのもそのためだ。おれはもう一度、この刀を他人の手のとどかないところへかくそうと思っているのだ。それにはぜひ君の手をかりねばならぬ」 「ぼくの手を……?」 「うん」  直記はしばらく考えていたが、 「君、すまないが、ちょっと階下の食堂をのぞいて来てくれないか。守衛や八千代がまだそこにいるかいないか」  私はちょっと直記の真意をはかりかねたが、グズグズしているとまた一喝をくう。そこですぐに階下へおりてみたが、守衛も八千代も部屋へさがったと見えて、食堂には誰もいなかった。かえって来てそのことを報告すると、直記はすぐ刀をさげて立ち上がった。 「よし、それじゃいまのうちだ」  私たちは足音をしのばせて階下へおりていった。  蜂屋の部屋のまえを通るとき、何気なくドアを見ると、相変わらず灯の色がもれていたが、中はしいんと静まりかえっていた。蜂屋は電気をつけたまま寝入ってしまったと見える。階下の食堂の隣は、直記の書斎になっている。そしてその書斎には、壁にはめ込んだ大きな金庫があった。  直記は|鍵《かぎ》を鳴らして錠を開くと、つぎに三つある文字盤を順繰りに|廻《まわ》していた。つまりこの金庫は、合鍵と文字盤と、二重に錠がおりるようになっているのである。やがて文字盤の符号があうと、ガタンと音がして金庫の扉がひらいた。  直記は金庫の中へ日本刀を押しこむと、すぐ扉をしめて錠をおろした。それから私のほうをふりかえって、 「屋代、このダイアルのほうは君にまかせる。この金庫は仮名三字の符号になっているんだ。何んでもいい、三字の言葉を思い出して、ダイアルをまわしておいてくれ」  直記はそういって、ダイアルの符号のかけかたを教えてくれた。このダイアルの周囲には、どれにもいろは四十八文字が彫ってあって、それによって言葉をつづるようになっているのである。 「わかったね」 「わかった。しかし……」 「いいからおれのいうとおりにしてくれ。おれは向こうへいっている」  直記は金庫の|傍《そば》をはなれて窓の方へいった。私は仕方なしに、思いついた三字の言葉を、右から順につづっていった。そしていま|綴《つづ》った言葉がわからないようにグルグルと|出《で》|鱈《たら》|目《め》にダイアルを廻していると、 「出来たかね」  と、直記がそばへ寄って来た。 「うん、出来た」 「よし、有難う。屋代、わかるね。こうしておけばこの金庫は、絶対にひとりの力ではあかないわけだ。おれは合鍵を持っているが符号を知らない。君は符号を知っているが合鍵は持っていない。だから、二人寄らなければこの金庫はひらかないのだ。屋代、いま仕掛けた金庫の符号を、君は絶対におれにしゃべってはいかん。メモにとるのもひかえてくれ。三字の符号——、それはただ君の頭にだけ刻みこんでおくんだ。わかったかい」 「わかったよ、仙石、しかし、君は何んだってこんな用心をするんだ。おれに責任を分担させなくたって、君一人でやったって、いいじゃないか」 「いや、そんなことはどうでもいいんだ。おれはやっとこれで安心した。今後この刀にどんなことがあったところでおれは責任からまぬがれることが出来るんだ。おれひとりの力じゃ、どんなことをしたって、この金庫はひらきっこないんだからね」  直記はそこで、ほっと重荷をおろしたように、額の汗をぬぐっていたが、私にはなぜかれがかくもバカバカしい用心をするのかさっぱりわけがわからなかった。いささか直記も気が変になっていたにちがいない。     第二章 大惨劇      大惨劇  直記はたしかにその晩、気が変になっていたにちがいない。その証拠には、それから間もなく、二階のかれの部屋へとってかえすと、今夜はどうしても、この部屋で寝てくれといってきかないのだ。 「ね、後生だからおれのいうとおりにしてくれ。いくらわらわれても仕方がないが、今夜おれは、何んだか胸騒ぎがしてならないんだ」  日頃|傲《ごう》|岸《がん》な直記のやつが、妙に神経質になっているのは笑止のいたりだったが、また、それだけに私も、誘われるように恐怖をおぼえた。 「そりゃア……どこで寝るのも同じことだが、この部屋にはベッドがひとつしかないじゃないか」 「だからさ、これをこうして……」  と、直記は大きなソファをドアのうちがわに引っぱって来ると、 「このうえで寝てくれりゃいいさ。毛布ならここに余分がある、それに今夜は幸い暖かだし……」  私は|呆《あき》れて直記のやることに眼を|瞠《みは》った。この家では、ドアは全部、室内のほうへひらくようになっている。だからドアにぴったりくっつけてソファをおくと、金輪際外からドアをひらくことは出来ないのだ。 「仙石、どうしたんだ。君は誰か外から忍んで来るやつがあるとでも思っているのかい」 「いや……いや、そういうわけじゃないが、寝ながら話をするには、そこにソファがあったほうが一番好都合だからさ」  私は直記の真意をはかりかねたが、こうなったらもう仕方がない。相手のいうとおりに、従うよりほかにみちはない。私は上衣だけぬぐと、直記のかしてくれた毛布にくるまって、ごろりとソファに横になった。直記はパジャマに着替えてベッドにもぐりこんだが、寝ながら話をするには好都合だといったにも|拘《かかわ》らず、かれはほとんど口を|利《き》かなかった。ただむやみやたらと煙草をふかすばかりだった。 「おい、もう寝ようじゃないか」 「うん、何時ごろかしら」 「そろそろ十一時が来る」  私の腕時計は十一時十分まえを指していた。 「そうか、じゃスイッチをひねってくれ」  スイッチは私の頭上の壁についている。これをひねると部屋のなかはまっくらになった。その暗がりの中で直記がもぞもぞと寝返りを打つ気配がきこえた。  寝ようとはいったものの、しかし、私だってなかなか眠れなかったのである。眼をとじると、ありありとうかんで来るのは、池の端を逃げまわっている蜂屋の姿、そいつがころんで、サアーッとそのうえから振りおろされた|白《はく》|刃《じん》のひらめき、さらにまた|艶《えん》|冶《や》たるお柳さまのみめかたち、蜂屋と守衛のいがみあい、そして最後に私の|瞼《まぶた》に焼きついてはなれないのは、さっき階段のうえで出会った、八千代さんの取り乱した姿だ。むっちりとした乳房のふくらみ。それにまた、あのなまなましい|蚯蚓《み み ず》|脹《ば》れ……私は全身の血の狂い出すのをおさえることが出来なかった。  あのとき蜂屋と八千代さんのあいだに、どんなことがあったのだろう。むろん、蜂屋のやつが、暴力をふるって挑みかかったのはわかっている。しかし、それに対して八千代さんはどう受けたか。ひょっとすると蜂屋のやつに……まさか……まさかあの短時間のうちに……畜生、畜生……蜂屋のやつ! 「屋代、寝られないのか」  ベッドのほうから、直記がもそりとした調子で声をかけた。 「ああ、いや、もう寝よう」  直記はそれをきっかけに、何か話をしたいらしかったが面倒臭いので、私はごろりと、ドアのほうへ寝返りをうった。直記もそれきり口を利かなかった。  私はほんとうに寝ようと思ったので、出来るだけ妄想をおっぱらうようにつとめた。そして、どうやらそれに成功して、うとうとしはじめたときである。  ふいにベッドをきしらせて、直記のとび起きる気配をかんじた。と、同時に私もソファのうえに、起きなおっていた。 「屋代、起きているのか」 「うん、誰だか二階へあがって来るぜ」  じっと耳をすましていると、たしかに軽いスリッパの音が、ひたひたと階段をあがって来るのである。いま、この二階に寝泊まりしているものは、われわれ二人のほかに、蜂屋よりいない|筈《はず》だが、その足音はたしかに蜂屋ではない。軽い、女のような足音。しかもあたりを|憚《はばか》るような歩きぶりである。その足音は階段をのぼると、蜂屋の部屋のあたりでぴったりとまった。ひょっとすると、八千代さんではあるまいか……そう考えると、私は急に、何んともいえぬ不快なかたまりが胸もとへこみあげて来た。 「おい、ちょっといってみよう」  直記がしゃがれ声で|囁《ささや》いた。むろん、私にもいなやはない。そこでそっとソファをずらせると、ドアをひらいて廊下へ出たが、曲がり角まで来ると、蜂屋の部屋のまえに、女がひとり立っているのが見えた。 「誰だ」  直記が声をかけると、 「あら、|旦《だん》|那《な》さま」  と、びっくりしたように答えて、うしろ手にドアをしめたのは、お藤といって、洋館のほうの係りの、ちょっと渋皮のむけた女中であった。 「なあんだ、お藤か」  直記も拍子抜けしたような声で、 「おまえいまごろ、こんなところで何をしているんだ」 「はあ、あの、いま、こちらのお客さまから電話がかかって、水を持って来てくれとおっしゃるものですから……」  この家では各室から、女中部屋へ電話がかかるようになっているのである。 「ああ、それで水を持って来てやったのか。蜂屋はどうしてる」 「はあ、あの、うとうとしていらっしゃるようなので、|枕《まくら》もとのテーブルの上へお盆ごとおいてまいりました」 「そうか。それじゃおまえも早くさがって寝ろ。若い娘がみだりにこんなところをうろうろしているもんじゃない」 「はあ、では……」  お藤はいそぎあしに階段をおりていったが、そのあとを見送っておいて部屋へかえって来た私たちは、それですっかり眼がさめてしまった。電気をつけて腕時計を見ると十二時十分過ぎである。  私たちは電気を消してもう一度眠ろうとしたが、今度はどうしても|瞼《まぶた》があわない。直記も同じと見えて、ベッドのうえで|輾《てん》|転《てん》|反《はん》|側《そく》している。それでも一時間あまり、私は必死となって、眠ろうとつとめたが、あせればあせるほど頭が|冴《さ》えて来るのと、急に煙草がのみたくなったのとでとうとう|諦《あきら》めてソファのうえに起き直った。 「屋代、おまえも眠れないのかい」 「うん、煙草が吸いたくなってね。もう何時ごろかしら」 「待て待て」  直記はライターをつけて枕もとの時計を見ていたが、 「ちょうど一時だ」 「どうだ、起きて少し頭を冷やそうじゃないか。お互いに妙に|昂《こう》|奮《ふん》しているんだよ、とてもこのままじゃ眠れやしない」 「うん、それもよかろう」  直記はベッドからおりると窓を開いた。外は美しい月夜である。気がつくときょうは満月であった。私たちは窓ぎわに|椅《い》|子《す》をひきよせて、無言のまま煙草をくゆらせていた。  この窓は屋敷の後方へ向かってひらいているので、向こうに|湧《ゆう》|水《すい》池を抱いた森が見える。そしてその森のこちらがわに小さな洋館がちらほらと、木の間がくれに見えている。私はふと、今日昼間蜂屋からきいた話を思い出したので、少しからだを乗り出したが、そのとたん、思わずあっと低い叫びをあげた。 「ど、どうしたんだ」 「誰かあんなところを歩いている!」 「なに」  直記も驚いたようにからだを乗り出したが、私の眼をとらえたその人影は、すぐ木の間がくれに見えなくなった。 「誰もいやあしないじゃないか」 「待っていたまえ。また出て来るかも知れんよ。あっ、ほら、あそこへやって来た」  いったん、木の間にかくれた影は、すぐまた月光のなかにとび出して来た。そして|飄々《ひょうひょう》と、雲のうえを歩むような足どりでこちらの方へちかづいて来る。その姿が窓から斜向こうにさしかかったとき、私は思わず息を|弾《はず》ませた。 「八千代さんだね」 「ふむ、病気が出たのだ。夜歩く……」  直記の声はおしつぶしたようにしゃがれている。ぎゅっと私の手を握った掌が、気味悪いほど汗にぬれて、ブルブルと|痙《けい》|攣《れん》するようにふるえている。  八千代さんは相変わらず、飄々と雲のうえを踏むような足どりで歩いていく。パジャマだろう、真っ白な|衣裳《いしょう》を身にまとうて、髪を肩のうえに垂らしている。少しうえ向き加減に|顎《あご》をそらしたその全身に、白銀のような月光が降りそそいでいる。 「八千代さん、どこへいっていたのだろう。向こうの洋館から出て来たようだが……」  そのとたん、直記はピシャリと音を立てて窓をしめた。 「屋代、もう寝よう」  暗がりの中だったけれど、直記の不機嫌がはっきりわかった。 「どうせ夢遊病者のことだ。どこへ行くって当てがあるもんか。しかし、屋代、今夜のことは誰にもいわないでくれ。八千代のやつが可哀そうだから」  直記はベッドへもぐりこんで、それきり口を|利《き》かなくなった。それから間もなく、今度はほんとうに、私も眠ってしまったのである。もっとも夢に枯野をかけめぐるような、寝苦しい眠りではあったけれど……  その翌朝、眼がさめたのはもう十時過ぎのことだった。直記は私よりまえに起きていたと見えて、開け放った窓のそばに椅子を持ち出して煙草をふかしていた。 「やあ、君はもう起きていたのか」 「うん、おまえはよく寝ていたな。外へ出ようと思ったんだが、おまえを起こすのも可哀そうだと思って、今まで待っていた。おい、そろそろ起きようじゃないか」  私が起きなければ、直記は部屋から出ることが出来ないのである。  階下へおりてバスを使うと、やっと人心地ついた。食堂へ出ると十一時。むろん直記と私のほかには誰もいなかった。 「八っちゃんはどうしたね」  給仕に出たお藤に|訊《たず》ねると、 「お嬢さんは、何んだか気分が悪いとおっしゃって朝から出ていらっしゃいません」 「|守《もり》|衛《え》さんや|蜂《はち》|屋《や》は……」 「それが妙なんですよ。おふたりとも、今朝から姿が見えませんの」  お藤は不思議そうに|眉《まゆ》をひそめている。 「姿が見えない? みんな部屋でふて寝をしているんじゃないか」 「いいえ、そんなことはございません。|若《わか》|旦《だん》|那《な》も蜂屋さんも、お部屋にいらっしゃいません」  お藤がそれにつづいて何かいおうとしたときである。突然、庭のほうからただならぬ悲鳴がきこえて来た。私たちがぎょっとして、窓のそばへ走っていくと、悲鳴の主は|四《よ》|方《も》|太《た》だった。四方太はまるで、お|化《ばけ》にでも追っかけられるような|恰《かっ》|好《こう》で、こけつまろびつ、庭を横切っていく。 「おじさん、どうしたんだ」  直記が声をかけると、四方太はこちらをふりかえり、何かいおうとするらしかったが、顎がふるえて言葉が出ない。ガタガタふるえながら、しきりに庭の奥を指さしている。  私たちは急いで、食堂から庭へとび出した。四方太の指さしているのは林の向うの洋館である。それに気がつくと、直記はちょっとためらうようであったが、すぐ意を決したように走り出した。私もむろんそのあとからついていった。  昨日、蜂屋もいったように、なるほどその洋館には窓という窓、ことごとく外から眼かくし板がうちつけてある。私たちはその洋館の入口まで来たが、そこで思わず、ゾーッとして立ちすくんだのである。  開けっぱなしになった洋館の入口から玄関へかけて、真っ赤な足跡がついている。それはスリッパの跡らしく、みんな外へ向かってついているのだ。 「とにかく、なかへ入ってみようか」  中へ入ると廊下にも、点々として赤い足跡がついている。それを伝って行くと、廊下の右側に小ぢんまりとした寝室があった。寝室にはベッドがひとつ、そしてそのベッドの毛布の下から、靴をはいた男の足が二本ニューッと出ており、ベッドの下は|物《もの》|凄《すご》い|血《ち》|溜《だ》まり。しかも、その血溜まりを踏みあらしたと見えて部屋中いたるところに、真っ赤なスリッパの跡がついている。  直記も私も、しばらく凍りついたように立ちすくんでいたが、やがて、直記が恐る恐るベッドのそばへちかづいていった。  そして、じっとりと血のにじんだ毛布のはしに手をかけると、そろそろそれをめくっていったが、そのとたん、私は何んともいえぬ恐ろしさに、みぞおちのあたりが、ぐうんと重くなるのをおぼえ、いまにも|嘔《おう》|吐《と》を催しそうになった。  ベッドのうえに大の字になっているのはたしか佝僂の姿である。しかし、それが、蜂屋であったか、守衛であったか、誰にもすぐには判断がつきかねた。  |何《な》|故《ぜ》なれば、その|屍《し》|骸《がい》には首がなかったのである。      壁の文字  諸君もきっと新聞やなにかで、首無し死体の記事を読まれたことがあるにちがいない。しかし実際にぶつかった首無し死体というものが、どんなに恐ろしいものであるか、それは諸君の夢想だに出来ないことだろう。活字で表現された首無し死体など、実在のものの持つ恐ろしさ、おぞましさ、いやらしさの百分の一、千分の一、いや、万分の一も読者につたえることは出来ないのだ。  私はよくあのとき、気が遠くならなかったものだと思う。これでみると人間の神経なんて、|脆《もろ》そうでいて案外|強靭《きょうじん》なものかも知れない。もっともこれはそのときの条件にもよる。二人で酒を飲んでいて、一人がさきにがっくりいくと、先を越されたあとの一人は、どんなに飲んでも酔えなくなるものだが、その時の、私がそれだった。直記に先を越されたものだから、気絶なんてゼイタクな|真《ま》|似《ね》はしていられなかったのである。 「仙石、しっかりしろ。君が参っちゃおしまいじゃないか」  私はいやというほど直記の背中をどやしつけてやった。失神の一歩手前にあった直記は、それでやっとシャッキリした。 「いや、ああ、有難う。大変だ。とにかく大変なことになった。どうしよう。どうしよう、屋代、どうしたらいいのだろう」  仙石という男は露悪家で、悪党がりで、故意に人の心をきずつけて喜んでいる男だが、実際はいたって気の小さな|臆病《おくびよう》者なのである。 「どうしようって、とにかく警察へ|報《し》らせなきゃ……」 「警察? 警察? 警察? 冗談じゃない、警察なんてまっぴらだ。警察はいけないよ。そんなことをすると一家の恥が明るみへ出てしまう。屋代、それは冗談だろう。警察なんて、報らせなくてもいいだろう」 「馬鹿をいっちゃいかん、かりそめにも殺人事件だ。しかも、これはただの事件じゃないぜ。犯人が首を持っていったんだ、このまま伏せておくなんてことが出来るもんか」 「犯人が首を持っていった……? 屋代、犯人はなんだって首を持っていった?」 「ぼくもいまそれを考えているところだが、首を持っていくというのは、ふつう被害者の人物判定を困難にするためだろう。だから……」 「しかし、屋代、この場合、そんなこと無意味じゃないか。首がなくったってこの体……蜂屋は顔より体のほうに大きな特徴を持っていやアがるんだ」  直記はかわいた声をあげてわらった。 「仙石、しかし、これは果たして蜂屋だろうか」 「え? なに? な、なにをいうんだ君は……この体を見たらそんなこと、いえる筋がないじゃないか」 「しかし、この家にはこれと同じ体つきをした人物が、もう一人いる|筈《はず》じゃないか」  直記は驚いて床からとびあがった。 「な、なにをいうのだ! 君は|守《もり》|衛《え》のことをいってるのかい。バ、馬鹿な! おやじは何も守衛を殺すわけがないじゃないか」  今度は私のとびあがる番だった。私は|唖《あ》|然《ぜん》として直記の顔を見直した。直記ははっとした面持で、|弾《はじ》きかえすように私の顔をにらんでいる。やっと私は|咽《の》|喉《ど》にからむ|痰《たん》を切った。 「仙石、めったなことをいうもんじゃない。おれだからいいようなものの……しかし、君はこれをお父さんの仕業だと思っているのかい」  仙石はまぶしそうに私の視線をさけながら、ゴトゴト部屋のなかを歩きだした。 「そうだ。君のいうとおりだ。こりゃ何もおやじの仕業ときまっているわけじゃない。おれはどうかしているんだ。昨夜眠らなかったものだから、神経が変になっているんだ。しかし、おやじでないとすると誰が……首を|斬《き》り落としていくなんて、ふつうの人間の出来ることじゃない」 「君のお父さんなら出来るというのかい」  直記はまた弾かれたように私のほうを振り返ったが、やがて、いらいらした調子で、 「屋代、まあ、考えてみろ。われわれの|年《とし》|頃《ごろ》の人間は、文化というやつに去勢されているから、とても刀を振りまわすような度胸はない。おれなんざ|白《はく》|刃《じん》を見ただけでも血管がしびれるような気がするんだ。おれが人殺しをする場合には、きっと刃物以外の方法をえらぶだろう。ところがおやじはちがうんだ。おやじは今年六十五だが、おやじの生まれた明治二十年前後の日本は、まだまだ殺伐な時代だったろう。それにおやじのおやじというやつがいる。こいつは文字どおり維新の白刃の下をくぐって来ている。人を斬るぐらい|屁《へ》とも思ってやアしねえ。おやじはこういう|爺《じい》さんに教育されて成人したんだ。おれたちとは神経がちがう。だから、ここに斬り殺された人間があるとなると、一番におやじを連想するのも無理じゃあるめえ」  直記はたしかに神経が変になっているんだ。ゴトゴト部屋のなかを歩きまわりながら、のべつやたらに|喋舌《し ゃ べ》っている。まるで話の切目がおそろしいというふうに。私は私でかれのいらいら歩きまわる足音と|饒舌《じょうぜつ》をきいていると、自分まで気が変になりそうだった。 「|止《よ》してくれ、仙石、そのゴトゴト歩きまわるのだけは止してくれ。第一あまり歩きまわると、証拠を消してしまうおそれがあるぜ。警官が来るまで現場は出来るだけ、そのままの状態で保存しておかなきゃいけないんだ」 「警官? おい|寅《とら》さん、それじゃ君はどうしても警察へ報らせるというのかい」 「まあ、お聞き。仙石、これが君と僕だけなら、あるいは君のお望みにまかせてもいいかも知れん。しかし、|四《よ》|方《も》|太《た》という人がいる」 「四方太!」  仙石は|呻《うめ》くような声をあげた。 「あの人はいまごろ放送局みたいに、この惨劇をふれまわっているにちがいないぜ。しかも、それを聴いた者のなかには雇人というやつがいる。雇人は他人だからね」  直記はまた呻き声をあげた。 「それじゃ、どうしても駄目かね」 「そうだ。しかも一刻も早いがいい。しかし、そのまえに一応決定しておこうじゃないか」 「決定? 何を決定するんだ」 「まず第一にこの死体の|身《み》|許《もと》さ」 「君はこれをまだ守衛だと、思っているのかい。しかし、この洋服は、蜂屋のもんだぜ」 「着物なんかどうにでもなる。あとから着せかえることさえ出来るんだ」 「ふうむ、さすがに探偵小説家だけあってなかなか疑いぶかいんだね。よし。しかし、どうして決定することが出来るんだ」 「それをぼくも考えているんだが、間接的な方法としては家の中を捜すことだね。これが蜂屋なら守衛さんがどこかにいる筈だし、これが守衛さんなら、蜂屋がどこかに生きている筈だ。しかし、もっと直接的な方法としては、この死体を裸にして調べるんだね」 「裸にしたってわかりゃしねえ。おれには佝僂の区別なんかつきゃしないよ。君、分るかい」 「いや、僕にだって分りゃしないが、しかし蜂屋なら、動かすことの出来ない、れっきとした特徴がある筈だ。君は忘れたのかい。蜂屋は去年キャバレー『花』で、八千代さんに|狙《そ》|撃《げき》されている。その|傷《きず》|痕《あと》が、|太《ふと》|股《もも》にのこっている筈だ」  直記はまたギラギラする眼で私をにらんだ。 「なるほど、やっぱり探偵小説家だけのことはあるね。書くものはまずいがつかむところだけはつかんでいやアがる。いや、お止しお止し、|憤《おこ》るのはお止し。悪意でいったんじゃないんだ。感服してるんじゃないか。なるほど、その傷痕の有無によって蜂屋か守衛か決定する。それが第一だね。で、つぎは?」  私はこみあげて来る怒りをやっとおさえた。 「ふむ、第二は八千代さんだ。八千代さんはなんだって昨夜ここへやって来たのか……」 「八千代? あれはしかし、ここへ来たわけじゃなかったろう。君は昨夜のことをいっているんだね。そう、八千代は昨夜また病気を起こしたらしい。しかし、まさかここへ……」 「仙石、君はあのスリッパの跡に気がつかないのか。八千代さんは昨夜たしかにスリッパをはいていたね……」 「君は……君は……それじゃこれは八千代の仕事だというのかい」 「馬鹿な、誰がそんなことをいうもんか。女の細腕でこんな恐ろしいことが出来る筈がないじゃないか。それにあの時八千代さんは、手に何も持っていなかった。しかもここには兇器らしいものはない」 「兇器!」  突然、直記がとびあがった。 「そうだ。おれはよっぽどどうかしている。兇器! 兇器村正! あの村正は金庫の中にある。有難い! するとおやじの仕業じゃないな。よし、寅さん、とにかくこの死体を調べてみようじゃないか」  私たちは死体の位置を動かさぬように気を配りながら、そっとズボンを脱がせてみた。蜂屋の狙撃されたのは、右の太股だときいている、傷痕はたしかにそこにあった。 「よし、これできまった。被害者は蜂屋小市!」  もとどおり死体にズボンをはかせると、私たちは|隈《くま》なく室内を調べたが兇器らしいものはなんにもなかった。その代わりちょっと妙なものが私の眼をとらえたのである。 「おや、こんなところに変な字が書いてあるぜ」  そこはベッドのすぐ右側で、壁のうえに|釘《くぎ》がひっかいたような|疵《きず》が出来ているのである。右からはじまって、左のほうへ斜うえにつづいているその疵は、よくよく見ると横文字らしかった。多分ベッドに寝ている人物が、つれづれのあまり書きなぐったのだろう。ちょうどそういう位置にあたっている。 「何だい、これは……横文字らしいね。何と読むんだろう」  ところがそのときの直記の|素《そ》|振《ぶ》りというのが、たいへん妙だったのである。 「な、な、なんだい、そんなもの。いいじゃないか。それより兇器を捜さなきゃ……」  ひどく|狼《ろう》|狽《ばい》した様子である。 「まあ、待て。一見|些《さ》|細《さい》なことにだってどんな重大な意味があるかわからないものだ。ええ……と、ああ、そうか。さては蜂屋め、昨夜このベッドで八千代さんを待っていたんだな。ところが、いつまで待っても八千代さんが来ないのでこういう文字を書いたんだろう」 「な、な、なんだって。いったい何んと書いてあるんだ」  直記はびっくりしたように私のそばへよって来て、壁のうえを|覗《のぞ》きこんだ。 [#ここから3字下げ] Yachiyo [#ここで字下げ終わり]  壁の文字はそう読めるのである。 「ふうむ」  直記は鯨が|汐《しお》を吹くように、長い|溜《ため》|息《いき》を吐き出すと、 「なるほど、すると蜂屋のやつ、昨夜ここで八千代と|逢《あい》|曳《びき》するつもりだったんだね」 「そうだろう。多分、八千代さんはそれをすっぽかした。しかし、そのことが気になっていたものだから、真夜中になってふらふらとここへやって来たのだろう」 「なるほど、それで|辻《つじ》|褄《つま》があう」  直記はやっと気が落ち着いたらしい。  私たちはそれから建物のなかを隈なく捜してみたが、兇器はおろか、これはと思うようなものは何一つ発見することは出来なかった。 「ようし、これでこっちのほうは片付いたとして、つぎはどうするんだ」 「八千代さんのスリッパを調べてみるんだね」 「よし、じゃ、いこう」  暗い洋館から外へ出ると、パッと照りつける日光に、私はめくるめくような感じだった。胸がムカムカとして|嘔《おう》|吐《と》を催しそうであった。  林を抜けて向こうを見ると、|母《おも》|屋《や》の縁側に鉄之進とお柳さま、それに四方太の三人が出てこちらを見ていた。鉄之進も寝ていたところを|叩《たた》き起こされたらしく、どてらの前を|臍《へそ》まで見えるほどはだけている。御自慢の|髭《ひげ》がぶるぶるふるえているところを見ると、この人もよっぽど|昂《こう》|奮《ふん》しているらしい。それにくらべるとお柳さまはえらいものだ、冷然としてあらぬかたを眺めているのである。  鉄之進が何かいうと、庭先のつくばいに手をついていた源造が、ばらばらとこっちへ走って来た。 「源造、誰もはなれへいっちゃいかんぞ。おやじにはあとから行くといっとけ」  直記はそういい捨てると、鉄之進のほうへは見向きもしないで、さっさと洋館のほうへ入っていった。 「お藤、お藤!」  呼ぶとお藤が紙のような真っ白な顔をして、女中部屋からとび出して来たが、そのとき、私がちょっと妙に思ったのは、お藤の眼がぬれているように見えたからである。若い女のことだから、兇行をきいておびえるのも無理はない。しかし、何んだって泣かねばならなかったのだろう。 「お藤、八っちゃんは……?」 「はあ、あの、まだお眼覚めではございません」 「守衛さんは?」 「それがどこにもいらっしゃらないので……御前様のおいいつけで、ずいぶん捜してみたんですけれど……」  直記は不思議そうに私をふりかえった。 「屋代、守衛はいったいどうしたんだろう。あの体だから滅多に外へ出ることはないんだが……」 「妙だね」 「まあ、いいや、お藤、もっと捜して御覧。屋代、いこう」  八千代さんの寝室は階下の一番奥にある。ノックしたが返事がないので、|把《とっ》|手《て》をひねると、なんなくドアはひらいた。  私はちょっとためらったが、直記がかまわず入っていくので、仕方なしにあとからついて入った。八千代さんはいったん眼ざめて、それからまた眠りに落ちたにちがいない。窓が半分ひらいていて、薄桃色のカーテンがひらひらしている。八千代さんは微風に髪をなぶらせながら、いかにも気持ちよさそうに眠っている。こうして寝ているところを見ると、あの無軌道さや、やんちゃ振りや、露悪趣味は長い|睫《まつげ》の下に封じこめられて、童女のようにきよらかに見える。  私たちは彼女の眠りをさまたげないように、そっとベッドのそばによると、脱ぎすててあるスリッパをとりあげたが、すぐそれをもとどおりにおいて部屋を出た。  スリッパの裏はどす黒い血で染まっていた。 「よし、今度は金庫のなかだ」 「しかし、あれは……仙石、大丈夫だろうじゃないか。あんなに厳重にドアをしめておいたのだから」 「まあ念のためだ。調べておこう。ちょっと待っていてくれたまえ」  直記は二階へあがっていったが、すぐ|鍵《かぎ》を持っておりて来た。 「誰もこの鍵にさわったものはないようだ。おれは昨夜この鍵を机の|抽《ひき》|斗《だし》のいちばん底におくと、うえから歯磨粉で、Sという字を書いておいたんだ。その文字は昨夜とちっとも変わっていなかった」  食堂のとなりの書斎へ入っていくと、 「寅さん、君の|符牒《ふちょう》は?」  私はちょっとためらったのち、顔をあからめて、|口《くち》|籠《ごも》った。 「ヤ、チ、ヨ」  直記はジロリと私の顔を見ると、意地の悪いわらいをうかべながら、自分でぐるぐるダイアルを|廻《まわ》し、それから鍵を使って錠をひらいた。そしてちょっと息をうちへ吸いこむと、勢いよくドアをひらいた。村正はちゃんと金庫の中にある。 「それ、見ろ、やっぱりあるじゃないか。はっはっは、君はよっぽど神経がどうかしているんだ。この金庫がむやみに開けられる筈がない。……」  直記はそれでも気になるのか、村正をとりあげると、二、三寸|鯉《こい》|口《ぐち》を切ったが、そのとたん、悲鳴にも似たような叫び声をあげたのである。 「ど、ど、どうしたんだ!」  私が驚いて駆け寄ったとき、直記の手から|鞘《さや》がすべって、抜身だけが右手に残った。そして、その抜身にはなんと血がべっとりと。……      惚れ薬  私は人を|斬《き》り殺したこともなければ、人を斬り殺した刀を見たこともない。しかし、いま直記が右手にぶらさげてる刀についている、あの|夥《おびただ》しい血を見れば、この村正こそ、蜂屋を殺し、蜂屋の首を斬りおとした兇器であるにちがいないと断定せざるをえなかった。  だが、どうしてそんなことが可能なのだろう。金庫は厳重にしまっていた。|鍵《かぎ》は直記が持っていたし、符号は私以外に知っているものは絶対にいない。直記ひとりでも私ひとりでもこの金庫のドアをひらくことは出来なかったのだ。いわんや余人においておや!  私は急におそろしさがこみあげて来た。あの恐ろしい、ぞっとするような首なし死体を発見したときよりも、もっと深刻な恐怖がじりじりと背筋を|這《は》いあがって来るのをおぼえた。何かしら大声でわめき立てながら、そこら中駆けまわりたい衝動をおさえるのに、困難をかんじたくらいだった。  この事件はなにもかも狂っている!  佝僂を殺して首を持ち去ったり、(いったい、何んの必要があって首を持っていったのだ、蜂屋の体にはああいうれっきとした証拠の|傷《きず》|痕《あと》があるというのに)二重の用心ぶかさで閉ざされた金庫のなかの村正がいつの間にやら兇器として使用されていたり、……私は何かしらそこに神秘な力、超自然な作用が働いているとしか思えなくなり、そのことがぞっと私を総毛立たせるのだ。  直記もしばらく凍りついたように立ちすくんでいた。|喰《く》いいるような|眼《まな》|差《ざ》しで、べっとりと血にそまった刀身をながめていたが、ふいに、世にも恐ろしいものから|遁《のが》れようとするかのように刀を投げ出した。 「やっぱりおやじだ」  投げ出された村正は、ぐさっときっさきを床に突っ立てると、二、三度ぶらぶらとゆれていたが、やがてぴったり動かなくなった。私にはなにかしらそれが生あるもののように思えて、ふたたび三度、背筋がジーンと冷たくなるのをおぼえた。 「馬鹿なことをいっちゃいかん」  私は舌のさきで唇をしめしながら、やっと直記をたしなめた。 「お父さんにしろ誰にしろ、どうしてこの金庫をあけることが出来るんだ。君はさっき誰もその鍵にさわったものはないといったじゃないか。それともこの金庫には、ほかに合鍵があるのかい」 「いや、そんなものはない。もとは二つあったんだが、一つのほうは僕が自分の手で|叩《たた》きつぶしたんだ。だからこの金庫の鍵といえば、そこにあるのが一つきりなんだ」 「それじゃいよいよ誰にもこの金庫はあけられない|筈《はず》だ。よしんば誰かがこっそり合鍵をつくっていたにしろ、それだけでこの金庫はあかないことは君もよく知っている筈じゃないか。|符牒《ふちょう》というものがある。僕は絶対に誰にも符牒をしゃべりゃしなかった。だから、絶対に、絶対に、|何《なん》|人《ぴと》といえどもこの金庫をひらくことは出来ない筈なのだ」 「だが、現在あの村正が兇器として使われている。いったい、これをどう説明するのだ」 「わからない。ぼくにもまだわからない。しかし、何んとかこれには合理的な説明がつく筈なんだ。魔法使いじゃあるまいし、ドアをしめたまま中のものを出したり入れたり出来るもんか。だから、何かそこに合理的な説明がつく筈なんだ。ぼくたちはいまむやみに|昂《こう》|奮《ふん》しているものだからそれから目隠しをされているんだよ。つまり盲点のなかに入っているんだ。だから、いまそうあせってこの事を考えるのはよそう。あせればあせるほど袋小路に突き当たるばかりだ。そしてそれこそ敵の思う|壷《つぼ》なのだ」 「敵……? 敵たア誰だい」 「自分自身の不明のことさ」 「おい、そんなソフィスティケートないいかたは止せ。それよりもさしあたりわれわれは、何をすればいいんだ」 「そうさね。まずこの刀はもう一度金庫のなかへ入れておこう。こいつは大事な証拠だからね。それから警察へ報告するのだ」  時計を見るともう十二時を過ぎている。 「こいつはいけない。われわれが事件を発見してから既に一時間以上もたってるぜ。ぐずぐずしてると警察から、いたくない|肚《はら》を探られるばかりだ。とにかく、向こうへいって皆さんに、よく事情を話そうじゃないか」  刀をもう一度金庫へおさめると、鍵をかけて今度は直記が自分でダイヤルを|廻《まわ》した。もうどんな用心も無駄だと思ったのかも知れない。  それから|母《おも》|屋《や》の日本間へいくと、鉄之進は大あぐらをかいて、|手酌《てじゃく》でぐいぐいと冷酒を|呷《あお》っていた。そばではお柳さまが、人形の様に冷たい顔をして毛糸の編物をしている。この古風な、江戸時代の|御《ご》|後《こう》|室《しつ》様といったようななりをしたお柳さまが、しかもこんな場合、平然として編物をしているのは、何んとなく矛盾をかんじさせた。  鉄之進はわれわれの姿を見ると、ギロリとした眼をおびえたように見張って、しばらくこちらの顔色をうかがっていたが、やがてしゃがれたような声でたずねた。 「直記、殺されたのはどっちだい。蜂屋かい、守衛さんかい」 「蜂屋でしたよ、お父さん」  直記がそっけない声でこたえた。 「直記さん、どうしてそれがわかって? 死体には首がないというのに」  お柳さまが横から口をはさんだ。まるで今夜の献立てでも相談するような、落ち着きはらった静かな声だ。こりゃひととおりの女ではない。……私はそのとき、そう思わざるを得なかった。 「ええ、蜂屋の体には特徴のある|目印《めじるし》があるんです。あの死体にはたしかにそれがありましたから」 「まあ、目印ってなあに?」 「いや、それはあとでお話ししますがね、お父さん、屋代のいうのに、どうしてもこれは警察へとどけなければいけないというんですが……」 「そりゃ、むろんのことだよ。殺人事件だからな。ときにこちら屋代さんというのかな」 「ええ、そう、まだ紹介していませんでしたな。こちら屋代|寅《とら》|太《た》君といって探偵小説家、同郷のものですよ」  探偵小説家——と、きいて鉄之進もお柳さまも、不思議そうな眼をして私の顔を見た。何か奇妙な動物でも見るような眼つきだった。私はただ黙って頭をさげておいた。 「それじゃ、早速、源造にいって、交番へ走らせましょう」  直記が縁側から源造の名を呼ぶと、すぐ源造がはしって来た。それに用事をいいふくめておいて、もとの座へもどって来ると、直記は探るように父の顔を見ながら、 「お父さん、あなたは昨夜よく眠れましたか」  と、いくらか|口《くち》|籠《ごも》りながら切り出した。  鉄之進は大きく見張った眼で、まじまじと息子の顔を見ながら、 「よく眠れたかって……? わしが……? それはどういうわけじゃな」 「いや、どういうわけってありませんが……」 「直記さん、少しお父さんに忠告しなきゃ駄目よ。お父さん、ちかごろまたお酒が過ぎるようよ。昨夜も十二時ごろまで飲みつづけで……飲むだけならいいんだけど、あとの世話がやけてかなやアしない」  お柳さまはそういう言葉を、顔もあげずにいうのである。まるで編物に話しかけるように。 「へえ……、昨夜また飲んだんですか。小母さん、そしてあなたは昨夜ずうっと、お父さんといっしょでしたか」  お柳さまは顔をあげると、ちらっと素早い眼つきで、直記と私の顔を見たが、すぐまたその眼を編物に落とすと、 「いいえ、十二時まではつきあっていたけれど、いつまでたってもきりがないから、十二時になるとさっさと自分の部屋へかえって寝たわ。お父さんは酔いつぶれて、そのままごろ寝をしたようよ。だけど、直記さん、どうして?」  どうして?……と、たずねると、お柳さまの耳たぼがボーッと|紅《あか》くなった。それに気がつくと、私はなんとなくいやアな、いやらしい感じになったものである。  お柳さまはまえにもいったように人形のように美しい。京人形のように万事が小作りで繊細である。京人形のように冷たく取りすましている。それでいて、こういう女にかぎって、愛欲の姿態にかけてはしたたかものが多いものだがお柳さまもそういう感じだ。  お柳さまにくらべると鉄之進はずいぶん大きい。六十五とは見えぬほどみずみずしい肉体と重量感を持っている。腕も腰もどっしり太く、浅黒い皮膚なども、|蛙《かえる》の肌のようにヌラヌラ|濡《ぬ》れているかんじである。年寄りのあまりみずみずしいのはいやらしいものだが、鉄之進はいやらしさを通り越して、何んだか不潔なかんじさえする。こういう二人の夜の構図を連想すると、私はなんとなく、胸がムカムカするかんじだった。  直記はしかし|馴《な》れているから、そういう意味では平気なようだ。 「それではお父さんは昨夜ひとりだったのですね」  鉄之進はまた大きく眼をみはって、息子の顔をにらみすえた。酒の酔いがギラギラと熱っぽく噴いて、そういう眼付きを見ていると、直記の酔ったときにそっくりだと思わざるを得なかった。 「直記、それはどういう意味だ。わしがひとり寝ようと寝まいと……」 「お父さん、蜂屋をやったのは、例の村正なんですよ。今朝見ると村正がべっとりと血にそまって……」  瞬間、鉄之進の|瞳《め》が大きく動揺した。歯をくいしばり、肩で大きく息をしながら、しばらく食い入るように直記の顔を見すえていたが、やがてがぶりとコップの酒を|呷《あお》ると、 「わしは知らん。第一、わしはあの村正がどこにあるのか知らんのだ。直記、おまえはあれを、わしの眼のとどかぬところへかくしてくれた|筈《はず》じゃないか」 「そうです。お父さんばかりじゃない、誰だって手をふれることの出来ないところへしまっておいた筈だのに……」 「それだのに村正が血にそまっているのか。あの村正が……」  鉄之進はまたコップをわしづかみにしてがぶりと酒を呷ったが、そこへ間の抜けたかおをして入って来たのは|四《よ》|方《も》|太《た》だった。 「お柳さんや、どうもおかしい。どこを捜しても|守《もり》|衛《え》の姿が見えんのじゃが……」  私たちはぎょっとして顔を見合わせた。お柳さまはあいかわらず冷たく取りすまして、 「そんな筈ないでしょう。あのひとは何年も家を出たことはないのだから……」 「ところがな。やっぱり家を出たらしいんじゃて。部屋を調べたところがオーヴァがない、帽子がない、靴がない、ステッキがない。それにスーツケースがない」 「スーツケースがない?……」  直記はぎょっとしたように立ちあがった。 「仙石、守衛さんにはどこか訪ねていくようなところがあるのかい。友達だとか|親《しん》|戚《せき》だとか……」 「友達? あんな奴に友達なんかある筈がないじゃないか。親戚なんて一人もない。訪ねていくとすれば、お喜多婆アのところしかないが……」 「お喜多さんというのは誰だい」 「守衛の乳母だよ」 「その人はどこにいるんだ」 「|作州《さくしゅう》の奥さ。去年までこっちにいたんだが、あまり守衛に忠義だてして、うるさくて仕様がないものだから故郷へ追っぱらったのだ。まさか、あんな遠いところまでいく筈はないが……」 「いよいよ、どこを捜してもいないとすれば、お喜多のところへ電報でもうって、ききあわせてみるんだね」  鉄之進がコップをおいていった。話題が自分をそれたので、いくらかほっとしたらしい。 「ええ、そうしましょう。寅さん、来たまえ、守衛の部屋を調べてみよう」 「守衛さんがねえ。不思議ねえ」  お柳さまが編物をしながら、あいかわらず顔もあげずに|呟《つぶや》いた。  守衛の部屋は洋館の、八千代さんの部屋とは反対がわのところにある。部屋のまえにはお藤がおどおどした顔で立っていた。 「おれはまだ一度もこの部屋へ入ったことがないんだ。守衛というやつが変なやつでね。妙に秘密癖を持っていやアがるんだ。昔は乳母のお喜多以外には、絶対に部屋へ入れなかった。だからお喜多をおっぱらったときにゃおこりゃアがってね。ちかごろじゃ仕方がないから、お藤に掃除をさせるんだが、掃除をしているあいだじゅう、|傍《そば》に立って張り番をしているそうだよ」  だが、その部屋も別にかわったところはなく、ふつう金持ちの独身者が住んでいる部屋と、なんらえらぶところはない。 「お藤、スーツケースというのはいつもどこにおいてあったのだい」 「はい、|洋《よう》|箪《だん》|笥《す》の横でございます。ほら、そこに跡がついておりましょう。それに|櫛《くし》だのブラシだの、ポマードだの身のまわりのこまごましたものが見えなくなっております」 「ふうむ、それじゃいよいよ旅行に出たにちがいないな。おりもおり、何んだってあんな体で……」 「姿をかくすにはかくすだけの理由があったんだね」 「屋代、それじゃ君はあの男が……」  私はそれに答えなかった。しかし、そのときありありと私の眼にうかびあがったのは、昨日、|物《もの》|凄《すご》い勢いで、蜂屋に花瓶を投げつけたときの守衛の表情だった。憎悪と|嫉《しっ》|妬《と》にくるった、あのドスぐろく|歪《ゆが》んだ顔……。 「まさか、守衛が……なるほどあいつは陰険なやつだ。ネチネチと女のくさったようにしじゅう何か胸にたくらんでいる男だ。しかし、まさかあいつに、あんな大それた事をしでかす度胸はあるまい」 「それはわからないよ、仙石、不具者の激情というやつは常人には理解出来ないところだからね。爆発すると普通の人間より恐ろしい」  部屋を出ようとして振り返った直記は、ふとまた立ちどまってお藤を呼んだ。 「お藤、箪笥のうえにある袋戸棚には何が入っているんだい」 「さあ、何んでございますか。|若《わか》|旦《だん》|那《な》はそれにさわることをひどくお嫌いになります。いつかもわたくし、何んの気もなくそれに手をふれて、小っぴどくお|叱《しか》りをうけたことがございます」  私たちは思わず顔を見合わせた。それは小さなマホガニー製の戸棚で、|観《かん》|音《のん》びらきの扉には、ぴったりと錠がおりている。 「お藤、おまえ向こうへいっていていいよ。用事があったら呼ぶから」 「はい」  お藤はすぐに立ち去った。 「おい、仙石、どうしようというのだ」 「あの戸棚をあけてみるんだ」 「止せ止せ、むやみにひとの、秘密をのぞくもんじゃないよ」 「構うもんか。あいつが犯人だとしたら、どうせ、何もかも洗いざらい調べられるんだ」  戸棚には錠がかかっていたが、ナイフを使ってこじまわしていると、間もなく開いた。中には薬局にならんでいるような広口瓶がいっぱいならんでいる。 「なんだ、こりゃア薬じゃないか。仙石、守衛さんはどこか体が悪かったのかい」 「知らないね。薬を常用してるたア思わなかった。いったい、何んの薬だろう」  瓶の中には白いのや黒いのや、いろんな粉末が入っていた。粉末はほかに錠剤や丸薬もあった。何かの黒焼きらしいのもあった。そして瓶にはいちいち名前を書いたレッテルが|貼《は》ってあったが、それはいままで一度もきいたことのないような、片仮名の名前ばかりだった。  ところが、それらの瓶をひとつひとつ見ていくうちに、突然直記が大声をあげてゲラゲラ笑い出したのである。場合が場合だったので、私が驚いて顔を見直すと、直記はいきなり手に持っていた瓶を、私のほうへつきだした。 「見ろ、これを!」  その瓶に貼ってあるレッテルを見ると、なんとこれが、 「いもりの黒焼」 「わかったよ、寅さん、守衛の奴は性的に不能者なんだ。いや、不能者というほどでなくとも虚弱者なんだ。ときどきあいつのところへどこかから小包みがとどいたが、そういう小包みが来ると守衛め、いつもひどくビクビクして、あわててかくしていやアがった。ここにある薬はみんな、東西の|媚《び》|薬《やく》、性欲|昂《こう》|進《しん》|剤《ざい》なんだ」      あいびき  この事件では、何もかもが調子がくるっている。  登場人物のすべてが、まるで刷りそこなった粗悪な三色版のように、色彩が輪郭からはみ出していて、妙に狂気じみた感じなのだが、とりわけ、いやらしいのは守衛という男だ。  かれの部屋の小箪笥から、さまざまな東西の媚薬、性欲昂進剤を発見したとき、私はなんともいえぬほど、浅間しいような、哀れなような気がしたものだが、それと同時にまた一方、ぞっとするような不気味さをかんじたことも事実である。  ずらりと並んだおびただしい媚薬のなかに、守衛という男の、救いがたい|焦燥《しょうそう》と悪念がかんじられる。 「おい、もう外へ出よう。こんなもの、見ちゃ悪いよ」 「悪い? どうして?」 「どうしてって、……同じ秘密でも、これは人間として、若い男として、いちばんひとに知られたくない秘密じゃないか。おれ、なんだか気持ちが悪くなったよ」 「気持ちが悪い?」  直記は不思議そうに私の顔を見直したが、かれ自身、この発見にはやはり驚いたのにちがいないのだ。いつものような憎まれ口もとび出さなかった。 「守衛がなあ、こんな薬をなあ……」  と、いつになく沈んだ調子で、 「こればっかりは、おシャカ様でも御存じあるめえ。ふん、可哀そうに」  吐き出すように|呟《つぶや》くと、バタンと小箪笥の戸をしめて、 「おい、外へ出よう」  と、みずからさきに立って廊下へ出たが、そこでわれわれはぎょっとばかりに立ちどまった。ドアの外には八千代さんが立っている。八千代さんはいま眼がさめたのにちがいない。パジャマのうえに、薄桃色のケープをまとい、くしけずらない髪の毛をふっさりと肩の上に垂らしている。そして、あのスリッパを平気でつっかけているのである。直記と私は思わず顔を見合わせた。 「八っちゃん、おまえ……」  と、直記は魚の骨でも|咽《の》|喉《ど》にひっかかったような声で、 「いま、眼がさめたのかい」  と、|訊《たず》ねた。 「ええ、……あたし……すっかり寝坊しちゃって……」  八千代さんは、まだ夢のあとを追うているような、定かならぬ眼の色をして、たゆとうように呟いたが、いま私たちの出て来たドアのほうを見ると、 「直記さん、あなた、いまこの部屋でなにをしていたの」  と、急に怪しむような眼つきになった。 「ううん、いや……ちょっと調べることがあってね」 「調べること……? 直記さん、兄さんがどうかしたの」 「八っちゃん、おまえ、お藤に何かききゃアしなかったかい」 「いいえ。お藤、どうかしてるわ。眼を泣きはらして……直記さん、昨夜、何かあったの」  八千代さんは急に不安そうな顔色になった。直記と私はまた、彼女のはいているスリッパに眼をおとした。 「うん、たいへんなことが起こったのだ。それについて、いまにお巡りさんが来ることになっているんだ」 「お巡りさん!」  八千代さんの眼のなかに、さっと|怯《おび》えの色がかすめて走った。 「直記さん!」 「いや、とにかく、警官が来るまでに打合わせをしておかなきゃならん。八っちゃん、おまえ大急ぎで着替えをしておいで。ぼくたち食堂で待っている」  八千代さんは十分もたたぬうちに、アフタヌーンに着更えて食堂へ現われたが、見るとその顔は、紙のように真っ白になっていた。 「直記さん」  彼女はドアのところで立ち止まると、怯えたような眼のいろで、私たちの顔を見くらべながら、 「あたし……昨夜……また……病気を起こしたの?」  直記も私もこたえなかった。しかし、こたえないでいることが、何よりも強く彼女の言葉を肯定しているのだ。八千代さんの怯えのいろはいよいよ濃くなった。 「でも……あのスリッパはどうしたの?……何かしら……黒いものがべっとりついて……あれ、血じゃなくって……?」  八千代さんは猫のような足音のない歩きかたで、私たちのほうへ近づいて来ると、一歩一歩、しゃがれた声で、|囁《ささや》くようにそういった。 「八っちゃん、おまえ、あれに気がついたのかい」 「ええ、いま、靴にはきかえようとして……直記さん、いったい、何事が起こったの、いったい私が……何をしたの」 「八っちゃん、おまえ、昨夜、蜂屋とはなれの洋館であう約束をしていたのかい」 「蜂屋と……?」  八千代さんはまた大きく眼を見張った。 「蜂屋と……? 洋館で……? いいえ、とんでもない……」 「八っちゃん、これは見栄や外聞をとりつくろっている場合じゃないんだよ、約束があったのならあったと、ハッキリいっておくれ。おまえ昨夜洋館の一室で、蜂屋とあう約束をしていたのじゃないのかい」  八千代さんはさぐるように直記の顔を見ながら、 「だから、ハッキリいってるじゃないの。蜂屋とあう約束をしていたなんて、そんなこと絶対にないわ。だけど、蜂屋がどうかしたの。はなれの洋館で何かあったの」 「蜂屋が殺されているんだ。はなれの洋館の一室で……」 「そして犯人は、蜂屋の首を持っていったんですよ」  ショックもあまり大きいと、かえってなんの反応も示さないものだ。八千代さんはしばらくバカみたいに、ポカンと口をひらいて私たちの顔を見ていたが、急に二、三歩よろめくと、ドシンと音を立てて|椅《い》|子《す》のなかに腰をおとした。 「蜂屋が殺されたんですって?」  私たちは無言のままうなずいた。 「そして、犯人が首を持っていったんですって?」  私たちはまたうなずいた。  八千代さんはしばらく、かみつきそうな顔をして、私たちの顔を見くらべていたが急に気がついたように、 「そして……そして、兄さんはどうして?」  と、息をはずませた。 「それが不思議なんだ。守衛さんのすがたが今朝から見えないんだよ。誰もあの人を見たものはいないんだよ」  八千代さんの顔には、急に不安そうな色がひろがった。ハンカチを|揉《も》みくちゃにしながら、 「ねえ、あなた、いま、犯人が首を持っていったとおっしゃったわねえ。死体には首がないのねえ。そうすると、それ、ひょっとすると兄さんじゃないのかしら」 「ううん、そのことはわれわれも一応は考えたさ。だから死体をしらべて見たのだ。そしたら、やっぱり蜂屋だったよ」 「どうして? あなた、蜂屋のからだに何か|目印《めじるし》があるの知っていらっしゃるの?」 「知ってるさ。その目印、君がつけたんじゃないか。ほら去年、キャバレー『花』で……あのとき撃たれた|傷《きず》|痕《あと》が、ちゃんと|太《ふと》|股《もも》のところにのこっているんだ」 「あっ!」  と、叫んで、八千代さんは口に手をあてた。そして、ぼんやり宙に眼をやりながら、しばらく無言でひかえていたが、やがて、ひとりごとのように|呟《つぶや》いた。 「それじゃ、間違いはないわねえ。殺されたのはたしかに蜂屋なのねえ」 「そうですよ。その点についちゃ疑問の余地はありませんよ。しかし、八千代さん」  と、私が横から口を出した。 「あなたはどうして、殺されたのは守衛さんではないかと考えられたのですか」  八千代さんはそれをきくと、ちらと素早い視線で私をながめた。それから|憤《おこ》ったような固い顔になると、わざと私を無視するように、きっと直記のほうへ向きなおって、 「直記さん、あたしさっき、蜂屋とはなれの洋館で、あう約束などしたおぼえはないと断言したわね。それ、むろん|嘘《うそ》じゃないのよ。だけど……」 「だけど……?」  と、私はからだを乗り出した。しかし、八千代さんは依然として、私を無視するように、直記のほうを向いたまま、 「だけど、あたし、ゆうべはなれの洋館であう約束をしてあった人があるのよ。しかし、それ蜂屋さんではなく兄さんなの」  直記の|眉《まゆ》が急に大きくつりあがった。怒りとも|嫉《しっ》|妬《と》ともつかぬ稲妻が、さっと|眉《み》|間《けん》をつらぬいて走った。  八千代さんはしかし平気で、抑揚のない声で語りつづける。 「むろん、あたし、そんな約束守る気なんて毛頭なかったわ。兄さんと密会するなんて、考えただけでもいやらしい、ゾッとするわ。だけど、ちかごろあの人、よっぽどどうかしてンのよ。蜂屋さんが来てからかしら、人がかわったように荒っぽくなったわ。せんにはしじゅうビクビクとしてあたしの顔色ばかりうかがっていたのが、ちかごろとても高飛車になって……|癪《しゃく》よ、少し……」 「いったい、いつ、そんな約束をしたのだい。守衛のやつとあうなんて……」  直記はなにか、きたないものでも吐き出すような調子だった。 「昨日の事よ。ほら、蜂屋さんと|喧《けん》|嘩《か》をしたでしょう。そのすぐあとよ。いうことをきかなければ蜂屋のやつを殺してしまうって……」  私たちはドキリとして眼を見交わした。しかし、八千代さんは相変わらず平然としてひびきのない声でしゃべりつづける。 「むろん、あたし、そんなこと真にうけやアしなかったわ。いかに人がかわったってあの人に人殺しなんか出来るはずはないと思ってたのよ。駄々っ児ね、あの人は……だけどあまりしつこいものだから、あたしうるさくなって、いいかげんに約束をしてしまったの。はじめから守る気なんかない約束を……」 「で、何時にあう約束だったんだ」 「十二時。かっきり十二時に洋館へしのんで来いというの。ほら、昨夜、夕食のあとで兄さんだけが食堂へのこっていたでしょう。そこへあたしがおりていったとき、しつこくそのことについて念をおすのよ。もし約束を守らなければ、蜂屋のやつを殺してしまうって……そういえば、あの時の兄さんの眼付き、ふだんとはだいぶちがっていたわ。でも、あたし、そのときには別に気にもとめずに、うんうんて、いいかげんに返事をして別れてしまった。そして、それきり寝てしまったのよ」 「しかし、そのことがあなたにとって、とても気になっていたので、真夜中ごろ、病気を起こして、フラフラとはなれへ出向いていかれたのですね」  八千代さんは|弾《はじ》かれたように私のほうへ振りかえった。そして、|凄《すご》い眼付きでまともから私をにらみながら、 「あたし……ほんとにいったのかしら……ちっともおぼえちゃいないんだけど……でも、今朝はとても頭がいたくって……ええ、いつものあの病気を起こしたときと同じだったわ。だから、ひょっとするとまた病気が起こったのではないかと眼がさめたとき、とても心配で……でも、直記さん、あたし、ほんとに洋館へ出向いていったの?」 「うん、そのことについちゃ間違いないんだ。げんにわれわれ、屋代とぼくとは、君が歩いているところを見たんだよ。それに蜂屋が殺された現場には、|血《ち》|溜《だ》まりのなかにベタベタとスリッパの跡がいちめんについているんだ」 「まあ……」  八千代は息をのんだ。血の気をうしなった顔は、質の悪い西洋紙のように黄ばんでカサカサしている。 「じゃ……あたし、やっぱり出向いていったのね。そして、そして血のなかを歩きまわって来たのね。まあ、恐ろしい、自分ではちっとも知らないのに。……ねえ、直記さん、あなた、信じてくれるでしょう。あたしの病気のことを……あたし、ちっとも知らないのよ」 「うん、そりゃ……病気だから仕方がないさ。お巡りさんが来たらそのとおり申し立てるんだね」  直記がくらい顔をしていった。なんとなく沈んだ声だった。 「ところで、八千代さん」  と、そこでまた私が横から口をはさんだ。 「あなたが守衛さんとあいびきをする約束ですがね。そのことを蜂屋は知っていたかしら」  それに対して八千代さんは言下にこうこたえた。 「いいえ、そんなことはありませんわ。あたしそんなバカなこと……しゃべったおぼえはないし、兄さんだってまさかそんなこと……」 「八っちゃん、おまえ昨夜蜂屋の部屋へ、食事を持っていってやったね。あのとき、蜂屋はおまえに何をしたのだ」  八千代さんはそれに対して恐ろしく眉をつりあげた。そしてまるできたない物でも吐きすてるようにこういった。 「あいつはけだものよ。いやらしいけだものよ。ちょっとでも|隙《すき》があったらとびかかろうとしているのよ。あたし思いきりひっぱたいてやったわ。……蜂屋が殺されたっていい気味だわ。だけど、だけど、あたし、何んだか信じられない。あいつが殺されるなんて、ねえ、それはほんとうなの、そして……そして兄さんはどうしたの……」  八千代さんの言葉つきは、しだいに前後の脈絡をうしなって来る。|瞳《め》から妙に光がなくなって、唇は紫いろにくちて来たかと思うと、椅子の両腕をにぎりしめたまま、いつか彼女は気をうしなっていた。……      お喜多婆ア  もよりの交番からお巡りさんが駆けつけて来たのは、それから間もなくのことだった。しかし、なにぶんにも交通不便な土地がらだけに、警視庁や検事局から、係官の顔がそろったのは、それからだいぶおくれて、そろそろ日も暮れかけようとするころだった。  警察官のほかに、新聞記者もおおぜい押しかけて来て、古神家の邸内は、にわかに人の出入りで騒々しくなった。  私たちはむろん、ひとりひとり係官のまえに呼び出されて、厳重な取り調べをうけた。私はむろん、知っている限りのことを申し立てたが、このような|変《へん》|挺《てこ》な事件を、常識的な警察の人々に、納得のいくように、説明することはむずかしい。  この事件を正確につたえるためには、古神家にわだかまる、あの異様な雰囲気からして理解してもらう必要があるのだが、それがなかなか、一朝一夕に説明しにくいところである。  捜査課長の沢田警視——この人が事件を担当することになるらしいのだが——も、果たして、多くの疑惑をわれわれに対して抱いたようだ。 「そうすると、なんですね。あなただけがこの一家に対して、第三者の立場にある。……と、そういうわけですね」  沢田警視という人は、上背はないが、がっちりとした体格の、|髭《ひげ》の|剃《そり》|跡《あと》のおそろしく濃い人であった。しかし、警視などという人柄から連想される、こけおどしのおっかなさなどは|微《み》|塵《じん》もなくて、口のききかたなどもいたってていねいな人物だった。 「ええ、まあ、そういえばそうです。仙石直記とは学校以来の|識《し》り合いですが、ほかの人たちは、昨日会ったのがはじめてなんです。もっとも蜂屋はべつですが」 「蜂屋氏とは御懇意でしたか」 「べつに懇意というわけでもありません。作家と画家として識り合っているという程度ですね。会合などでときどき会いますから、あえばまあ口を|利《き》くというくらいの間柄なんです」 「なるほど、そうすると蜂屋氏に対してもあなたは第三者の立場にいるということが出来るわけですが、それでどうでしょう。あなたの眼から見た犯人は……やっぱり姿をくらました|守《もり》|衛《え》という人物でしょうか」 「さあ。……」 「守衛という人は昨日の昼間、蜂屋氏と|大《おお》|喧《げん》|嘩《か》をしたそうですね。それに八千代さんを中に、猛烈な|鞘《さや》|当《あ》てを演じていたというじゃありませんか」 「そんなこと、誰がいったんですか」 「仙石直記さんですよ。いや、そのまえに召使いからきいていたんで、直記氏に事実かどうかただしてみたというわけです。で、犯人は守衛氏、動機は|嫉《しっ》|妬《と》と、そういうことになると思うんですが、どうですか、あなたのお考えでは……」 「さあ……」  私はまた言葉をにごした。沢田警視はじっと私の顔を|視《み》|詰《つ》めていたが、やがておだやかな微笑を眼のなかにたたえると、 「ああ、あなたはこの説に反対なんですね。いえ、いえ、おかくしになってもいけません。ちゃんとお顔に現われている。ねえ、屋代さん、あなたはあなたで、何かお考えがあるのでしょう。もし、それならば、ひとつ腹蔵なく打ちあけてくれませんか」  私はしばらく黙っていたが、やがて、思いきってつぎのようなことをいった。 「いや、私はまるでその説に反対というわけでもありません。ひょっとすると守衛さんが犯人かも知れない。しかし、犯人が誰であろうと、この事件はあなたがたがお考えになっていられるほど、単純なものではないと思うんです」 「と、いうのは……?」  沢田警視はあいかわらず、おだやかな微笑を眼のなかにたたえながら、あとを促すように言葉をはさんだ。 「と、いうのは……ええ、それにはいろいろ理由がありますが、一番近い証拠は死体に首のないことです。守衛さんが激情のあまり蜂屋を殺したとすれば、なんだって首を|斬《き》り落としていったのでしょう」 「なるほど」 「首を斬りおとして持っていく。それはずいぶん厄介な仕事でしょう。その厄介もいとわずに、犯人がそんな事をやったとすれば、そこにそれだけの理由がなければならぬ|筈《はず》でしょう。とても一時の激情、発作的な殺人行為とは思えないじゃありませんか」 「そうおっしゃればそうですが、ほかにまだ理由がありますか」 「こんなことを申し上げると、作家の空想だとわらわれるかも知れません。故意に事件を複雑に見ようとする、作家的な見方だと|軽《けい》|蔑《べつ》されるかも知れません。しかし、ぼくにはどうしても、この事件が一時の激情から起こった発作的な犯行とは思えないんです。この事件の動機は昨日今日、ふいに持ち上がった問題じゃないと思われるんです。第一蜂屋がこの家へやって来た……と、いうことからして、ぼくにはどうも、変に思われて仕方がないんです。守衛さんという佝僂のいるところへ、同じような体の蜂屋がやって来る。それからしておかしいじゃありませんか」 「すると、あなたはこの事件のかげには非常にあたまのいい計画者がいる。そしてこれは念入りに計画された事件だとおっしゃるのですか」 「そうです。そうです。現に八千代さんのところへ舞いこんだ、脅迫状めいた手紙のこともあるし。……」 「えっ、脅迫状めいた手紙?」  沢田警視がにわかに体を乗り出したので、しまったと私は心のなかで舌打ちした。直記もこのことに関しては、まだ打ちあけてはいなかったらしい。しかし、なに、構うものか。どうせ、いずれは、打ちあけずにはいられぬことなのだ。  そこで私が、先日直記からきいた、八千代さんにからまる|因縁話《いんねんばなし》、それからひいて昨年八千代さんのところへ舞いこんだ三通の手紙のことを打ちあけると、沢田警視は非常に興を催したらしく、しきりに|顎《あご》を|撫《な》でていたが、 「なるほど、なるほど、そいつは妙な話ですな。わかりました。そんなことがあるから、あなたはこの屋敷へ招待されて来たんですね」 「ええ、まあ、そうなんです。なまじぼくが探偵小説など書いているものだから、直記がぼくを買いかぶったんです。探偵作家には主人公の探偵と同様、探偵的素質があると買いかぶられたわけですね」  沢田警視は濃い|髭《ひげ》のあとを撫でながら、おだやかにわらっていたが、 「いや、いまのお話はたいへん参考になります。なるほど、そういうことがあったとすれば、激情的犯行とはうけとれなくなるわけですね。しかし、……」  と、沢田警視は|眉《まゆ》をひそめて、 「いまのお話を承っていると、計画者が誰にしろ、何事かを企んでいるのは、古神家あるいは仙石家に対してであるように思われる。それだのに、げんに殺されているのは、両家に対して、あまり深い関係もありそうに思えない蜂屋小市氏ですね。これは多少妙じゃありませんか」 「そうなんです。ぼくもそれを変に思っているんです。だから、ひょっとするとこれは……?」 「ひょっとすると、これは……?」 「いや、こんなことをいうと、また作家的空想だとわらわれるかも知れません。しかし、ぼくにはなんだかこの事件は……即ち蜂屋殺しはこれだけですんだのではない。ひょっとすると、これはつぎに起こる何かしら、恐ろしい事件の前奏曲ではないか……と、そんな気がしてならないんです」  私はいつか自分の言葉につりこまれていた。沢田警視のまえでこう述べ立てるとき、われ知らず、強い|戦《せん》|慄《りつ》が背筋をつらぬいて走るのを禁じえなかった。  私に対する第一回の聴き取りはこんなところでおわった。  そのあいだにほかの係官は現場であるところのはなれの洋館を、|隈《くま》なく調査し死体は解剖のため運び出されたが、それらの結果を私が知ったのはその翌日のことで、それは主として新聞の報道から得た知識であった。  それによると、蜂屋の殺されたのは、だいたい、真夜中の十二時前後ということになっている。それは死後硬直や|死《し》|斑《はん》の状態にもよるが、胃の|腑《ふ》の内容物からもそう判断された。あの晩、八千代さんが蜂屋に食事を持っていってやったのは十時ごろのことであった。蜂屋はそれを半分食ったらしく、あとの半分は皿のまま部屋のなかにのこっていた。ところが、同じ食物が、二時間ほど消化された状態で蜂屋の胃のなかに残っていたそうである。  蜂屋の殺されたのが十二時前後とすると、犯人以外にかれを一番最後に見たのは女中のお藤ということになる。  彼女が蜂屋のもとめで水を持っていったのは、ちょうど十二時ごろであった。そのときのことについて、お藤はこんなふうにいっている。 「お客さまから電話で、水を持って来るようにといって来られたので、それを持ってまいりますと、あのかた、うとうとと眠っていらっしゃるようでございました。ええ、そのときはたしかに生きていらっしゃいました。かすかに寝息を立てていらっしゃいましたから。そこで|枕《まくら》もとのテーブルに、盆ごとおいて、そっと部屋を出たところで、直記さんや屋代さんにお会いしましたので……」  彼女の持っていった水瓶は、盆ごとテーブルのうえに発見されたが、不思議なことには蜂屋は一滴も水を飲んでいなかったそうである。それはさておき、蜂屋はお藤が出ていった直後、部屋を出て、はなれの洋館へいき、そこで誰かに殺されたのであろう。  しかし、そうなると|辻《つじ》|褄《つま》のあわないのはあの村正の血である。われわれが村正を金庫のなかへしまったのは十時半ごろのことであった。したがって、あの村正をまっかに染めている血は、蜂屋のものでないということになる。と、すると、あの血はいったい誰のものであろう。鑑識課でしらべたところによると、蜂屋の血液型と、まったく同じだということだが……。  それはさておき、ここに一番弱ったのはかくいう私である。私は古神家の邸内に、それほど長く|逗留《とうりゅう》するつもりはなかった。直記が|軽《けい》|蔑《べつ》するとおり、私は三文作家である。しかし戦後の雑誌|氾《はん》|濫《らん》時代で、私のような三文作家も三文作家なりに、それ相当の注文があるのだ。もし、この家へ長く逗留しなければならぬとしたら、相当の準備をして来たかった。私がそのことを沢田主任に申し出ると、 「いいでしょう。それじゃ一度帰宅して、用意をして来られたら……」  と、ごくあっさりと許可がおりた。  そこでその晩、雑司ガ谷の古寺へかえると、あちこち雑誌社とも連絡をとっておいて、翌日昼過ぎ小金井へやって来ると、ちょうどそこへ解剖をおわった蜂屋のからだもかえっていた。  蜂屋という男は、|親《しん》|戚《せき》をひとりも持たない男だったので二、三の友人、それに直記や私や八千代さんが集まって、その日のうちに火葬場へ持っていき、夜はかたちばかりのお|通《つ》|夜《や》をしてやった。  ところが、そのあとになってたいへんなことが起こったのだ。  蜂屋の葬式がすんでから二日目のことである。作州の奥にいる守衛の乳母のお喜多という婆アさんが、直記の打った電報に驚いて、はるばる上京して来たのである。  お喜多というのは、六十五、六の見るからにいっこくそうな老婆だったが、さすが長年古神家に仕えていただけに、|田舎《い な か》者らしい醜さはなく、器量も服装も|垢《あか》|抜《ぬ》けがして小ザッパリとしていた。  彼女は鉄之進やお柳さまのまえで、直記からいちぶしじゅうの話をきくと、やがて静かにこう反問した。 「すると、守衛さまが蜂屋という男を殺して、姿をかくしたとおっしゃるのですね」  言葉つきはしごくおだやかであったが、その底には、何かしら、水のように冷たい反抗が秘められている。 「うん、まあ、いまのところそういう見込みで、警察でも守衛さんの行方をさがしているんだが、お喜多、ほんとうに守衛さんはおまえのほうへいかなかったのかい」  お喜多は直接それにこたえずに、冷たい眼でまじまじと一同の顔を見渡していたが、やがて、ゾッとするような声でこういった。 「これは何かの間違いです。守衛さんは人殺しをするような人ではありません。いいえ、あの人こそ殺されたのです。そして、守衛さんを殺したのは、あなたと、あなたと、あなたと、あなたです」  お喜多はそういって鉄之進、お柳さま、直記、八千代さんを順ぐりに指さしていった。私はその|刹《せつ》|那《な》、|肚《はら》の底からゾッとするような恐ろしさがこみあげて来るのをかんじた。  さすがに一同もどきっとしたように、一瞬、言葉がなくひかえていたが、やがて直記がどくどくしい声をあげてわらった。 「馬鹿なことをいっちゃいかん。だから、さっきもいっておいたじゃないか。その死体の|太《ふと》|股《もも》には、ピストルで撃たれた|傷《きず》|痕《あと》があったという事を……だから、あの死体は蜂屋小市という画家に……」 「いいえ、それだからこそ、その死体は、守衛さまだと申し上げるのです」  お喜多婆アは、眉ひとすじ動かさず、一句一句に力をこめて、 「守衛さまは去年の夏、ピストルをおもちゃにしていて、あやまって自分の太股をうったことがあるのです。ええ、右の太股でした。ああ、わたくしがひとめその死体を見ていたら、たとえ首がなくとも、守衛さまだということを見破っていたのに……」      ピストルの行方  お喜多婆アの一言は、われわれのあいだに爆弾を投じたも同様の効果をもたらした。あまりはげしいこのショックに、私は全身の筋肉という筋肉が、いたいほど硬直しているのに気がついた。  お喜多婆アは底意地の悪そうな眼で、ジロリジロリと一同を|睨《ね》めまわしながら、 「蜂屋という画工さんの太股に、ピストルで撃たれた痕があったかどうか、私は知らない。しかし、もしほんとうにそんな傷があったとしたら、なんという奇妙なことでございましょう。おなじ佝僂におなじ傷痕……おお、これにはきっと、なにか深いわけがあるにちがいない。そうじゃ、そうじゃ、これにはきっと、何か恐ろしい|悪《わる》|企《だく》みがあるにちがいない。そして、その悪企みの張本人というのは……」  お喜多婆アはここでまた、細い、骨ばった指をあげて、鉄之進、お柳さま、それから直記、八千代さんと順ぐりに指さしながら、 「そして、その張本人というのは、あなたと、あなたと、おまえと、それからおまえさんじゃ」  二度までこうして、お喜多婆アの痛烈な|面《めん》|罵《ば》にあいながら、しかし、誰一人として抗弁しようとするものはなかった。  お喜多の暴露した事実があまりに意外であったせいもあるが、もうひとつには、お喜多のはげしい|気《き》|魄《はく》にのまれて誰もかれも、抗弁する勇気をうしなってしまったらしいのだ。  鉄之進はあっけにとられたように眼をまるくしていた。老人にしては厚みのある胸が、はだけた襟の下で、はげしい息遣いをしている。直記はつとめて平静をよそおおうとしているが、それにも|拘《かかわ》らず唇が、|痙《けい》|攣《れん》するようにふるえている。八千代さんは土色になっている。  放心したような眼は、光をうしなって、乳色ににごっている。  いつもあんなにとりすましたお柳さまでさえが、このときばかりはきっと|眉《まゆ》|根《ね》に|皺《しわ》をよせてはげしく唇をかんでいた。 「お喜多さん」  私はやっとショックから|恢《かい》|復《ふく》した。|咽《の》|喉《ど》にからまる|痰《たん》を切りながら、 「それはほんとうですか。|守《もり》|衛《え》さんの|太《ふと》|股《もも》に、ピストルで撃たれた|傷《きず》|痕《あと》があったというのはほんとうですか」  私が|膝《ひざ》を乗り出すと、お喜多婆アはひややかな眼でジロリと私を見返した。 「あんたはいったいどういう方じゃな、この古神家とどういう関係がおありかな」 「ぼくは仙石の友達なんです。直記君と学校時代からの友人なんです」  お喜多婆アはフフンと、あざわらうような皺を、鼻の頭にきざむと、意地の悪い眼でしばらくまじまじと私の顔を見ていたが、やがてゾッとするような声でこういった。 「直記さんの友達といわれるのかな。それじゃあんたもどうせろくな人間ではあるまい。おまえさんもやっぱり悪人じゃろう。今度のこの一件のお仲間じゃろう?」  これには私も鼻白んだ。しかし、|憤《おこ》る気にはなれなかった。こういう老婆の常としてお喜多はおそらく盲目的に守衛を愛していたのだろう、その守衛の身に起こったこんどの|椿《ちん》|事《じ》に、お喜多は半狂乱になっているのである。哀れといえば哀れであった。 「そんなことはどうでもいい。それよりも守衛さんのことだ。守衛さんにはほんとうに、そんな傷があったのですか」  かさねて私が念を押すと、お喜多は急に憤ったように声をたかめた。 「わたしがなんで|嘘《うそ》をいうのじゃ。なんのためにわたしが嘘をいわねばならないのじゃ。さっきもいったとおり、守衛さまは去年の夏、ピストルをおもちゃにしていたらあやまって弾丸がとび出して、太股のところを射抜かれたのじゃ、そう、このへんじゃったな、その傷痕は……」  お喜多は少し膝をくずして着物のうえから自分の太股を指さした。そこはちょうどあの死体の、傷のあったところと一致していた。 「しかし……しかし……」  直記もようやく正気にかえったらしい。乾いた唇をなめながら、ひと膝まえにゆすり出した。 「どうしてわれわれはそのことを、いままで知らずにいたのだろう。そんな騒ぎがあったのを、なぜそのときわれわれは、気がつかずにいたのだろうか」 「それはわたしが内緒にしていたからじゃ。守衛さまの持っているピストルは無届だったから、おまえさんがたに知られたら、またどのような難儀な目におとされるかわからぬと思うたから守衛さまと相談して、誰にもいわぬことにしたのじゃ。しかし、わたしの話を嘘だと思うなら、内藤先生にきいてごらん。あの方が弾丸をぬいて、治療してくださったのじゃから……」 「そういえば去年の夏ごろ、守衛さんはしばらく|跛《びっこ》をひいていたわね」  そう口をはさんだのはお柳さまである。お柳さまはまたいつもの取りすました様子にもどっていた。 「どうしたのかとわたしが|訊《たず》ねると、足首を|挫《くじ》いたのだといっていた。そして|繃《ほう》|帯《たい》をまいた足首を見せたけど、それじゃあのとき……」 「そうじゃ、そのときじゃ、ほんとの|怪《け》|我《が》を知られたら、何か間違いが起ころうも知れぬというので、足首に繃帯をしてゴマ化しておいたのじゃ」 「しかし、守衛さんはなんだって、ピストルなんか持っていたんだい」  直記がぼんやりした声で訊ねた。訊ねながら、しかし、頭の中ではほかのことを考えているような|声《こわ》|音《ね》だった。  お喜多婆アはジロジロと真正面からその顔を見ながら、 「それはな、表向きには強盗が|怖《こわ》いからだといっていられたが、いまから思えば、あの人には、強盗よりもっと怖い人がほかにあったのかも知れぬ。おお、そうじゃ、強盗より怖い人間が、同じ屋敷うちに住んでいることを、守衛さんはちゃんと知っていたのかも知れぬ。ああ、こんなことと知ったら、わたしはあのピストルを取りあげるのじゃなかった」 「それはどんなピストルでしたか、何んという型の……」 「何んという型? わたしのような年寄りがピストルの型などどうして知ろう。それは|掌《てのひら》のなかへ入るような、小さな、可愛いピストルじゃった。守衛さんの話では、女持ちだということじゃったが……」 「そして、そして、あんたはそのピストルを取り上げてどうしたのです」  私は思わずせきこんだ。 「わたしはそれを、自分の部屋にかくしておいた、|箪《たん》|笥《す》のひきだしの中へいれておいたのじゃ。ところが……」 「ところが……」 「大分あとになって気がつくと、いつの間にやらピストルがなくなっていた。ひょっとすると守衛さまが持ち出したのかと思うたから、あの人に訊ねてみたが知らぬとおっしゃる。何事にもあれ、あの人は、わたしだけには決して嘘をつかなかった。だからピストルを盗み出したものはほかにあるのじゃ。それはきっと、この四人のなかの誰かにちがいない。あなたか、あなたか、おまえか、おまえさんか……この四人のうちの一人なのじゃ」  お喜多はまた、細い、節くれだった指を四人の鼻先につきつけたが、そのとたん、私は世にも恐ろしいある想像につきあたって、思わずゾーッと身をふるわせた。  八千代さんが去年の秋キャバレー『花』で、蜂屋小市を|狙《そ》|撃《げき》したピストルというのが、即ちそれではあるまいか。いかに混乱した時代とはいえ、そしてまたいかに無軌道な女とはいえ、八千代さんのようなわかい娘が、そう|無《む》|闇《やみ》にピストルを手に入れることは出来るものではない。お喜多婆アの箪笥のひきだしから、ピストルを盗み出したのは、八千代さんではあるまいか。  だが、そうするとこれはいったいどういうことになるのだ。守衛さんと蜂屋小市、首をとってしまえば、ほとんど識別のつかぬくらい、よく似た体つきを持った二人の佝僂は、同じピストルで、しかもほとんど同じところを撃たれたということになるのではないか。  これが果たして偶然だろうか。そこに何かしら、偶然以上の、恐ろしい作為があるのではあるまいか。ひょっとすると八千代さんがキャバレー『花』で蜂屋小市を狙撃したという出来事からして、すでに今度の事件の計画的な前奏曲だったのではあるまいか。  私は何かしら、えたいの知れぬ|妖《よう》|気《き》にうたれた。ゾーッとするような鬼気をかんじた。反射的に身をひくと、私はさぐるように八千代さんの顔をぬすみ|視《み》た。  直記もまた、私と同じようなことを考えたのにちがいない。|怖《こわ》い眼をして、|喰《く》いいるように八千代さんの横顔を視詰めている。  八千代さんの顔には、しかし、ほとんどなんの感動もあらわれていなかった。彼女はただ放心したように、うつろの眼を見張って、あらぬかたを眺めている。さむざむとした、|痴《ち》|呆《ほう》的妖気が、美しい彼女の肩をくるんでいる……。  お喜多婆アは|狡《こう》|猾《かつ》な眼で、さぐるように私たちの顔色を見ていたが、やがてニヤリと無気味な微笑をもらすと、 「おまえさんがたが、いま何を考えているのかわたしにはわからない。おまえさんがたのことだから、どうせろくな事は考えていないのだろう。しかし、そんなことはどうでもよい。鉄之進さんや、わたしはしばらくここに泊めてもらいますぞ。この眼が誰が守衛さんを殺したのか、それをしっかと見とどけるまでは、わたしはてこでもここを動きゃアしない。鉄之進さん、よいじゃろうな」  それに対して鉄之進が、どんな答えをするかと思って、私はかれのほうを振り返ったが、鉄之進のこたえは案外おだやかであった。 「ああ、いいとも、好きなだけここにいておくれ。そして殺されたのがあのヘッポコ画家にしろ守衛さんにしろ、おまえの眼力で犯人がわかるものならわからしておくれ。そのほうがわしもたすかる。あっはっは」  鉄之進は最後に、とってつけたような、笑いごえをあげた。      夜歩く人  お喜多婆アの出現と、彼女の爆弾的な証言は、私たちを|戦《せん》|慄《りつ》させたのみならず、警察陣にも極度の緊張をもたらしたらしい。  私たちはまた、血相かえて駆けつけて来た沢田警視のまえへ、ひとりひとり呼び出されて、しつこい質問をくりかえされた。しかし、これは何度きかれても、また、どのような疑いをうけても仕方のないことである。  私たちは|守《もり》|衛《え》さんの|太《ふと》|股《もも》に、そんな傷があるとは夢にも知っていなかった。もし、それを知っていたら、私たちもあの死体の鑑定に、もっと慎重を期したであろうし、また警察の人々にも、そのことを注意しておいたであろう。  しかし、まさか守衛さんまで、同じような|傷《きず》|痕《あと》があろうとは夢にも知らなかったから、太股に傷がある——それもピストルで撃たれたらしい傷があるというだけで、私たちはそれを|蜂《はち》|屋《や》ときめてしまった。傷の特徴だの、また詳細な位置などに注意を払う才覚がなかったからとて、これは私たちの過失とはいえまい。  警察ではいまさらのように、死体を火葬にしてしまったことを口惜しがったが、しかし、幸い、そこには死体の詳しい写真がのこっていた。死体の特徴を示す|唯《ゆい》|一《いつ》の手がかりとして、あの|弾《だん》|痕《こん》のある部分も、大きく写真にとられていた。  警察ではあらためてその写真を、蜂屋が|狙《そ》|撃《げき》されたとき入院していた病院の主治医や、守衛の治療にあたった内藤医師に示して、意見をただしてみたようだが、新聞が報道するところによると、それらの試みからはあまりはかばかしい結果はえられなかったらしい。何しろ半年、あるいはそれ以上もまえの出来事だったし、病院や医院では、いちいち患者の患部を写真にとっておくわけではないので、どちらの医者も記憶がぼやけて、はっきりとした断定を下すことを避けたようである。しかし、否とも応ともつかぬ二人の医師の|曖《あい》|昧《まい》な態度からして蜂屋と守衛さんの傷痕は、大変よく似た位置にあり、しかも、大変よく似た性質のものであったらしい。  |唯《ただ》、お喜多婆アだけは、写真を見ると、すぐにそれを守衛さんであると断言した。あの佝僂の体つきも、それからまたあの太股の傷痕も、たしかに守衛さんであるといい張って譲らなかったそうである。  しかし、警察ではそれをそのまま信用していいかどうか迷ったらしい。何しろお喜多婆アは、守衛さん可哀さのあまり、いちずに仙石父子やお柳さま、それから八千代さんを憎んでいるのだから、かれらの不利になることなら、どんな大それた証言でもしかねまじき状態だったし、それに守衛さんと、蜂屋の佝僂の体格が非常によく似たものであることは、私たちのみならず召使い全部が申し立てているところである。  それにまた、これこそ守衛さんである、もっともたしかな証拠だと、お喜多の指摘する傷痕にしても、お喜多が、それほど正確に記憶していたかどうか疑わしい。そこは医者以外にはめったに見せられぬ体の一部分であったから、守衛さんとお喜多がいかに心をゆるしあった主従にせよ、そう度々見せもしなかったろうし、見もしなかったであろう。ましてや、傷が癒えて以後は、お喜多といえども、ほとんど見る機会はなかったであろうと思われる。  だからあの死体は、蜂屋ときめてしまうことは出来なくなったが、さりとてまた、これを守衛さんと断定をするのも危険であった。結局、あの死体は蜂屋か守衛さんかわからないという、あの傷痕のない場合と同じ結果になってしまったのである。  警察ではこういう意外な事件の進展について、いったいどういうかんがえを抱いているのか、私にはわからなかった。  しかし、それ以後、事件の取りあつかいが、にわかに慎重になって来たことは私たちにも感じられた。沢田警視の私たちに対する|訊《じん》|問《もん》振りにも、言葉の裏からもうひとつの意味を|嗅《か》ぎ出そうとする、|執《しつ》|拗《よう》な疑いぶかさがありありと感得された。 「あたし、いやだわ。あたし|怖《こわ》くなったわ。あたし、もうこの家にいられないわ」  お喜多婆アが現われてから三日目のことである。珍しく、警官たちの監視の眼からのがれた私たち、私と直記と八千代さんの三人は、洋館の食堂でお茶をのんでいたが、だしぬけに八千代さんがそういって、ガチャンとコーヒー|茶《ぢゃ》|碗《わん》を皿のうえにおいたので、私と直記は驚いて彼女のほうを振りかえった。  八千代さんはこみあげて来る恐怖とたたかおうとするかのように、頭を二、三度、強く左右にふっていたが、やがて光のない眼を私たちのほうに向けると、 「ええ、警察ではあたしのことを疑っているのよ。いいえ、警察ばかりじゃないわ、あなたも、あなたも……」  と八千代さんはお喜多婆アと同じように、ひとりひとり私たちを眼で見ながら、 「あなたがたもあたしを疑っているのよ。いいえ、かくしたってよくわかっているわ。奥歯にもののはさまったような眼で、この二、三日、あたしをジロジロ見てばかりいるじゃないの。それでいて、何を|訊《たず》ねるのかと思ったら、そのままプイと顔をそむけてしまう。ああ、たまらない、あたしたまらないわ」  八千代さんの言葉は|嘘《うそ》ではなかった。私はちかごろ、八千代さんの|面《おもて》を正視するにたえられないような気持ちなのである。お喜多のあの恐ろしい暴露以来、私の心にふいと宿った疑いは、日をへるにしたがって濃くなるばかりである。八千代さんは何かしらこの事件の計画にふかい関係があるのだ。それでなければキャバレー『花』のあの一件はとても説明がつかないではないか。あの小事件は、決して八千代さんの泥酔から起こった、発作的な狂態ではなかったのだ。あのころからしてすでに、今度の事件はもくろまれていたのだ。八千代さんはまさかその計画者ではあるまい。しかし、計画者の仲間か、あるいは道具に使われていることは疑う余地もない。  私はこのとき、直記が詰問してくれればいいのにと|希《ねが》っていた。しかし、どういうものか、直記はこれに触れることが恐ろしいのか、ちかごろではわざと八千代さんを避けているようにしか見えない。それでいて、八千代さんの気の付かぬとき、彼女を見る直記の眼には、殺気にも似た恐ろしい熱烈さがあるのだが……。 「ああ、また、……また、そんな眼であたしを見て……そんなに疑ってるなら、なぜ口に出してきかないの。なぜ、はっきり、疑問の点をたしかめてみようとなさらないの。あたし、黙ってジロジロ、疑いの眼で見られるのいや。ああ、たまらない、たまらない、たまらない」 「八っちゃん」  直記がひくい声でたしなめるようにいった。|咽《の》|喉《ど》の奥に魚の骨でもひっかかっているような声だった。 「大きな声を出しちゃダメだ、むやみに|昂《こう》|奮《ふん》するのはお止し。壁に耳ありというが、いまじゃこの家は耳だらけだからね、はっはっは」  直記は自ら|嘲《あざけ》るように咽喉の奥でひくくわらうと、急に体を乗り出して、 「それじゃ、八っちゃん、訊ねるがね。キャバレー『花』の事件ね」  そのとたん、八千代さんはびくりと体をふるわせた。 「あれは偶然だったのかい。それとも、あれには、はじめから計画みたいなものがあったのかい」  八千代さんの眼は急に光をうしなった。放心したように遠いところをぼんやり眺めていたが、やがて、その眼を直記にもどすと、 「そのことは、あたしにもよくわからないの。でも、いまからかんがえるとあのことは、やっぱり偶然じゃなかったのね。あれはちゃんと、筋書のなかに入ってた出来事なのね」 「八っちゃん、それはどういう意味だい。蜂屋を|狙《そ》|撃《げき》したのは君自身じゃないのか」 「そうよ。あたしよ、蜂屋さんを撃ったのは……」 「それだのに、どうしてそんな|曖《あい》|昧《まい》なことがいえるの」 「だって、だって、あたしにも、よくわからないんですもの」  八千代さんの声は|茫《ぼう》|然《ぜん》としている。それはさながら、夢の世界にいる人の声のようであった。 「わからないって、八っちゃん、それはどういう意味なんだ」  直記は思わず声を高めたが、すぐ気がついたようにひくい声で、 「ねえ、八っちゃん、あの一件について、君はまだぼくにかくしていることがあるんだね。それだったらここでいっておしまい。どうしてあんなことが起こったのだ」  八千代さんは相変わらず、光のない眼で直記を見ている。はたから見るといかにも落ち着きはらっているようだが、その実、彼女がどのように|悶《もだ》え苦しんでいるかは、|膝《ひざ》においた彼女の手がよく示している。彼女は両手でハンカチをねじ切らんばかりに|揉《も》んでいるのである。  やがて抑揚のない声で語りはじめた。 「あの日、あたしはある人から、今日自分のまえにひとりの佝僂が現われるということをきかされたの。その佝僂こそいつか送って来た写真の主、あの首をチョン切られた佝僂だというの。あたし、それをきくと憤りのためふるえあがった。殺してやる、殺してやる、……思わずあたしはそう口走ったの。すると、そのひとが、殺しちゃいけない。殺しちゃあとが面倒だから、ただ、こらしめのために、そいつの体に|烙《らく》|印《いん》をおしておやり。右の|太《ふと》|股《もも》のところをピストルで撃っておやり……そういってその人があたしにピストルをくれたの」  私たち、私と直記は思わず顔を見合わせた。 「いったい、そりゃ誰だい。そのひとというのは……」  八千代さんは黙っていた。光をうしなった眼が宙に迷っている。 「八千代さん、ひょっとすると、それは守衛さんでは……」  八千代さんはしばらく黙っていたのちに、やがてかすかにうなずいた。私と直記はまた顔を見合わせた。何かしら私は恐ろしいものが腹の底からこみあげて来るようなかんじだった。 「八っちゃん、君は守衛さんの太股にあんな傷のあるのを知っていたのかい」  八千代さんはかるく首を左右にふって、 「むろん、あたしそんなこと知らなかったわ。直記さん、あなただってお喜多の話をきくまで知らなかったでしょう。あなたの知らないようなことをあたしが知っている|筈《はず》がないじゃありませんか、守衛さんというひとは、同じ屋敷のなかにいても、異邦人同然だったんですもの。だから、あのとき守衛さんが、右の太股をねらっておやりといった言葉に、特別の意味があろうとは思ってなかったの。偶然に守衛さんのいったとおりのところを|狙《ねら》えたのだけれど……」  直記はきっと八千代さんの顔を見すえながら、しばらく無言でひかえていたが、やがてまた体を乗り出すと、 「八っちゃん、すると守衛さんは、あの妙な手紙や写真のことを知っていたんだね」 「ええ、知ってたわ。あたしが話したんですもの」  その瞬間の直記の顔色を、私はいまでも忘れることが出来ない。それは|嫉《しっ》|妬《と》と憎悪のこんがらかった、世にもすさまじい、まっくろな炎のかたまりであった。  おそらくかれは、八千代さんの秘密を独占していることに、ひそかな慰めと誇りを見出していたのだろう。ところが八千代さんが信頼してうちあけたのは、直記ばかりではなかった。  直記がいちばん|軽《けい》|蔑《べつ》している、守衛にも彼女の秘密を|頒《わか》っていたのだ。直記が嫉妬に狂いそうな眼つきをしたのも無理はない。  しかし、八千代さんは直記のそういう動揺には気もつかなかった。急に|怯《おび》えたような眼をすると、 「警察でもいまにきっとキャバレー『花』の事件を調べなおすわ。蜂屋小市狙撃事件がつまらない酔っぱらい女の狂態じゃなかったことに気がつくわ。そうしたら、きっとその女を追及していって、いまにそれがあたしだということを発見するわ。ああ、あたしどうしたらいいの。あたし、とてもこの家にはいられない。あたし、逃げるわ、あたし逃げ出してやるわ」  こういう無軌道な女にかぎって、生命に対する恐怖感は人一倍はげしいものである。八千代さんはテーブルに顔を伏せると身をもんで泣き出したが、そのとき、ふいに直記が、テーブル越しに身を乗り出して八千代さんの耳に何かささやいた。  八千代さんはそれをきくと、|弾《はじ》かれたように身を起こしてドアのほうへふりかえったが、その顔色はみるみる紙のように真っ白になっていった。  ドアのところにお喜多婆アが、石像のように無表情なかおをして立っている。しかし、その無表情な|眉《まゆ》の下に、私は|復讐《ふくしゅう》者のドスぐろい憎悪をハッキリ見ることが出来たのである。  私があの、世にも意外な、そしてまた、世にも|変《へん》|挺《てこ》な発見をしたのはその晩のことであった。  その夜、私は眠れなかった。八千代さんのあの不思議な告白が、耳鳴りのように私の頭脳のなかをかけめぐって脳細胞のひとつひとつをガンガン|叩《たた》いているような気持ちであった。私はあてがわれた寝室のベッドの中で、いくどか寝返りをうってみたが、あせればあせるほど眼が|冴《さ》えて来る。しまいには室内の空気の重苦しさに、|呼《い》|吸《き》がつまりそうになって来た。  私はとうとう部屋を出て階段をおりていった。それからいつか直記といっしょに入って来たポーチから庭へ出た。  しばらく庭を歩いて来たら、この重っ苦しい耳鳴りがなおりはしないかと思ったのである。  月はもうだいぶかけはじめていたが、それでも庭は明かるかった。私はいつか鉄之進が村正をふりかぶって蜂屋を追っかけまわしていた池のほとりを歩いてみた。  それにしても、これはなんという不思議な事件だろう。殺されたのが蜂屋にしろ、守衛さんにしろ、それではもう一人はどうしたのだろう。どちらが犯人にしろああいう人目につきやすい体をしているのだから、いつまでもかくれているなんてことは出来るものでない。その一人、守衛さんか蜂屋か、かれはいったいどこへいったのだろう。  そこまで考えて来て、私は突然、ギョッとして立ち止まった。立ち止まったまま、しばらく動くことが出来なかった。  心臓がガンガン鳴って、呼吸をするさえ苦しくなった。いまにも|嘔《おう》|吐《と》を催しそうな気持ちだった。  その時、私の|脳《のう》|裡《り》にとびこんで来た奇妙なかんがえというのはこうである。ひょっとすると、二人のうちの一人はほんとうの佝僂ではないのではないか、守衛さんか蜂屋か二人のうちの一人は、擬装した佝僂なのではあるまいか。しかし、守衛さんが佝僂であったことは疑う余地はない。幼いときからいっしょに育った直記や八千代さんが、そう長くゴマ化されている|筈《はず》はない。  だが、蜂屋は……?  蜂屋については私は何も知らなかった。だいたい蜂屋という男は、戦後、急に現われた人物で、誰もかれの前身を知っているものはなかった。ただ、風変わりな絵をかく新進画家という以外は、誰もかれが、戦前どのような生活をしていたか、知っているものはなかった。それに私はこういうことをきいたことがある。蜂屋は自分の肉体の醜さを知っているから、決して入浴するところを、ひとに見せたことがないと。そしてまた、かれと深い関係を結んだ女たちにしても、一度もかれの裸体を見たことはないと。……  私は急に恐ろしさがこみあげて来た。体中が一瞬ゆだったように熱くなったかと思うと、つぎの瞬間、氷のように冷えきっていくのをおぼえた。  その時だった。私があの軽い足音をきいたのは。……  私はぎょっとしてふりかえった。池の向こうから、誰やらこちらへちかづいて来る。全身におぼろの月光をあびて、フワリフワリと宙をふむような足どりで、私のほうへちかづいて来る。その足どりからして、私はすぐにこの間の夜の、八千代さんの姿を連想した。しかし、それは八千代さんではない。ちかづいて来るにしたがって、それが男であることがはっきりして来た。ネルの寝間着に|細《ほそ》|紐《ひも》をしめている。そしてネルのまえを恐ろしくはだけて、……ああ、それは直記の父、鉄之進ではないか。  鉄之進は|飄々《ひょうひょう》とした足どりで、私のほうへちかづいて来る。その眼はわき眼もふらず|恍《こう》|惚《こつ》として前方を|視《み》つめている。私のすぐまえ三尺ほどのところへ迫ったが、それでもかれは、私の存在に気づかなかった。  私の心臓ははげしく鳴った。全身からねっとりとした汗がふき出すのをおぼえた。  一瞬、私は身をひるがえしてかれのまえに立ってみた。そして、すぐ鼻先で両手をふってみせた。しかし、鉄之進はわずかに歩調をゆるめただけで、すぐまたフワリフワリと歩き出した。あの雲をふむような、飄々たる足どりで。……  ああ、何んということだ。仙石鉄之進、かれもまた夢遊病者だったのである。……      首  いまにして私は思いあたることがある。それは八千代さんを鉄之進の子であると思いつめている、直記のそのかんがえかたの原因なのだ。  夢遊病者というような病癖は、あちらにもある、こちらにもあるというような性質のものではない。それにも|拘《かかわ》らず同じ家に、ふたりの夢遊病者があるとすれば、そのあいだに何か遺伝的なつながりがあるのではなかろうか。……こう疑いたくなるのは当然である。直記は父に夢中遊行という病癖のあることを知っている。そのことはこのあいだ蜂屋(あるいは守衛)の死体が発見された直後、かれが父にむかって放った質問からでも想像出来る。あのとき直記は鉄之進にむかって、昨夜はよく眠れたかだの、お柳さまとずっといっしょだったかだのと、ひどく気にしていたようである。  あのとき私は、質問の意味がよくのみこめず、なぜあのようなことを|訊《たず》ねるのかと不思議に考えたが、いまにして思えば、直記はあのとき、父がまたしても夢中遊行の発作を起こし、その発作中に、あのような兇行を演じたのではあるまいかとおそれていたのだ。  そして息子のそういう|危《き》|惧《ぐ》を、鉄之進はさとっていたにちがいない。しかも、かれはじぶんでじぶんの行動に自信が持てないままに、あのようにオドオドしていたのだ。  果たしてあの兇行が、鉄之進の夢中遊行中のしわざであったか……それは別の問題として、こうしてここに一人の夢遊病者がある。そして、八千代さんにも同じ病癖がある。しかも八千代さんの生母お柳さまというひとは昔からその品行に、とかくの|噂《うわさ》があったひとであり、しかもいまではげんに鉄之進の情婦となっている。直記が八千代さんを、父の子とかんがえるのは無理はなく、おそらくそれは真実なのだろう。  私はこの古神家にまつわる、底知れぬ不倫の泥沼に、なんともいえぬドスぐろいいやらしさをかんじたが、それにしても、今夜また夢中遊行の発作を起こした鉄之進は、いったいどこにいくのだろう。  鉄之進は池をめぐって|飄々《ひょうひょう》とあるいていく。争えないもので、その歩きかたは、このあいだ見た八千代さんの歩きかたと、そっくりそのままである。顔をいくらか上方にむけ、両手を少し後方に垂れ、雲をふむような歩き方。……これが夢遊病者の特徴というべきものだろうか。  鉄之進は池をまわって奥庭へ出た。疎林のむこうには離れの洋館が見える。鉄之進はあの洋館へいくのだろうか。と、すればやはりこのあいだの兇行は、鉄之進のしわざだったのか、私は腹の底がつめたくなるような恐怖にうたれながら、なおかつ、そのうしろすがたから眼をはなすことが出来なかった。  今宵もまたおぼろ月夜。生ぬるい風が鉄之進のすそを吹く。どこかで雨を呼ぶような|梟《ふくろう》の声が陰気である。  鉄之進はついに洋館のそばまで来た。しかしかれはそのほうには眼もくれず、疎林のなかをくぐりぬける。  そして、そして、そのまま飄々としてあるきつづける。はてな、それじゃかれの用事のあったのは、この洋館ではなかったのか。と、すればいったいどこへいくのだろう。……  むろん、夢中遊行中の行動に、常人の常識で律せられるような目的だの意識だのがあるのかないのか私は知らぬ。しかし、夢が潜在意識下におしこめられた願望のあらわれだとしたら、夢遊病中の行動にも、なにかしらそれを誘引する動機があらねばならぬはずである。鉄之進が洋館のそばを通りぬけて、さらにおくへ進むとしたら、そこに何か鉄之進の気になるものがなければならぬ。それはいったいなんであろう。  洋館の背後は、もとは芝生になっていたらしいが、いまでは芝生のあいだに種をおとした雑草が、わがものがおにはびこっている。  季節が季節だから、雑草もようやく春色をとりもどした程度だが、それでも夏のすさまじさを思わせるには十分である。  この雑草園のむこうは、|武蔵《む さ し》|野《の》の自然林である。|井《い》の|頭《かしら》公園にあるような杉が、亭々としてそびえている。そして、この自然林にとりかこまれて、|湧《ゆう》|水《すい》池がうすじろく光っている。鉄之進は雑草園をふみこえて自然林のなかにわけいった。  生酔い本性たがわずという言葉がある。酒飲みに案外|怪《け》|我《が》がすくないのは、泥酔状態の底にも、最後の理性の糸がのこっているからである。  酔いがさめてから、どうして無事に帰宅出来たかなどと不思議に思うのは、眠りとともに記憶がうしなわれるからである。  夢遊病者もそれと同じ|理《り》|窟《くつ》ではあるまいか。飄々として、他人から見るといかにも危なげな夢遊病者の行動にも、夢中遊行時の理性がはたらいているのではあるまいか。そして、それは|覚《かく》|醒《せい》と同時にうしなわれてしまうのだろう。つまり夢遊病者は一種の二重人格者ではあるまいか。  それはさておき、鉄之進はあいかわらず飄々として自然林のなかを抜けていく。まえにもいったように、雑草はまだそれほどのびてはいなかったが、それでも低い|灌《かん》|木《ぼく》がいちめんに生えている。鉄之進はその灌木をふみしだきながらフワリフワリとうくように歩いていくのである。木の間をもれる月影に、白っぽく寝間着が、怪奇な|斑《まだら》をおいたように染め出される。  やがて、その自然林をぬけると、鉄之進は池のほとりへ出た。  私はこの屋敷へ来てからまだ日も浅く、それにああいう事件が突発したので、行動に制約をうけることが多く、したがってこんなに奥まで踏みこんだのははじめてだったが、ひとめその湧水池を見ると、そのあまりにも美しい景色に|恍《こう》|惚《こつ》とせずにはいられなかった。むろん規模の大きさからいえば、井の頭の比ではない。善福寺の池よりもはるかに小さいであろう。しかし、|幽《ゆう》|邃《すい》なる点においては、はるかに前二者をしのいでいる。池をとりまく杉の木立は、枝をまじえて空を圧し、池半分がそのために小暗い影をつくっている。そして他の半分は、折からのおぼろ月夜に、|絖《ぬめ》のような光沢をはなって光っているのである。  ここまで来ると夢遊病者は、にわかに歩調がゆるくなった。何かしら考えこむように小首をかしげながら、池のほとりをノロノロ歩く。素足のしたに砂利のきしむ音がする。  鉄之進の心をひくものは、たしかに池のなかにあるらしい。その証拠には、かれの眼はたえず池の面にそそがれている。池の面に眼をそそぎながら、鉄之進はかんがえこむように歩くのである。  間もなくかれは半分池をまわった。そこでふいと立ちどまる。しばらくなにか考えこんでいる模様である。何をかんがえているのか、それは私にもわからない。あいにくかれの立っている場所は、杉木立のかげになっているので、すがたもハッキリ見えないくらいである。ましてや、顔色などわかりようがない。  一瞬、二瞬。……  物陰にうずくまった私の心臓は、早鐘をつくように躍っている。口のなかがカラカラに乾いて、舌が|上《うわ》|顎《あご》にくっついてしまった。  ひょっとすると、このまま何事も起こらないのかも知れない。あるいは、何かしら驚天動地のことが起こるかも知れない。私の全身は針金のように緊張し、私の神経は、とぎすました|剃《かみ》|刀《そり》のようにとがりきっている。  どこかで|鯉《こい》がはねたらしい。ポチャンという生ぬるい音がきこえたかと思うと、ゆるやかな波紋が、月の光に明暗をきざみながら、ユラユラとひろがって来る。  鉄之進のねむれる頭にも、その物音がかすかな波紋を投げかけたらしい。ユラリと一歩かれはうごいた。それからそろそろ歩きだした。  それはちょうど池のいちばん上手にあたっていた。  ヒョータンの首のようにいったんくびれた池の向こうに、また小さい池がある。第二の池は五坪か十坪しかない。二つの池を区切るように、小さい土橋がかかっている。  鉄之進はその土橋のうえに立って、またじっとうごかなくなった。かれの眼は、小池のほうへむかって、|釘《くぎ》|付《づ》けにされたようにうごかない。しずかな夜の底から、サラ、サラ、サラ、水の流れる音がする。  そこで私ははじめて気がついたのである。第二の池というのが即ち湧水池なのである。そこから吹き出した水が、橋のしたをくぐって、第一の池にそそがれているのだ。  鉄之進はしばらく、ふかくかんがえこんだようすで、この湧水をながめていたが、やがて何を思ったのか、橋のつけ根へひっかえすと、|裾《すそ》の|濡《ぬ》れるのもかまわずにジャブジャブと水のなかへ入っていった。  湧水池はいたって浅いのである。深さは大人の|膝《ひざ》にもとどかない。底にはきれいな玉川砂利が敷いてある。  鉄之進はその湧水池のいちばん奥までいった。そこは一丈ほどの|崖《がけ》になっており、崖のふもとに、五つ六つの|手《て》|頃《ごろ》の石が組みあわせてある。水はその石のあいまから吹き出しているのである。  鉄之進はそれらの石を、ひとつひとつ取りのけて、下を改めている様子である。  私の心臓はまたはげしく鳴り出した。いまに胸壁をやぶって、心臓がとび出して来るのではないかと思われるばかりであった。鉄之進はいったい何をしているのだ。石をとりのけてその下から、何を探し出そうとしているのだ。  ふいに鉄之進の唇から、かすかに声がもれた。……いや、|洩《も》れたような気がしたのかも知れない、あまり緊張していたがために、私はかえって耳鳴りのようなものを感じ、あらぬ物音をも、きいたような錯覚を起こしたのかも知れぬ。  それはともかく、私が鉄之進の声をきいたと思ったその直後、鉄之進はパチンと音を立てて、起こしていた石を水のなかに落とした。それからすっくと身を起こすと、バチャバチャと水をわたってこっちのほうへ引き返して来た。私はいそいで、物のかげに身をかくした。  あいかわらず、鉄之進の足どりは|飄々《ひょうひょう》たるものである。ものかげにかくれている私にも気がつかず、雲を踏むような足どりで通りすぎていく。すぐ眼のまえをとおるとき、私はそっとのぞいてみたが、鉄之進の表情には、なんの変化もあらわれていなかった。  うつろに見張った眼、かすかにひらいた唇——それは夢遊病者特有の、妙に空虚なかんじのする表情以外の何物でもなかった。  鉄之進は間もなく、飄々と自然林をぬけてすがたを消した。  そのうしろ姿の見えなくなるのを待って私はものかげからとび出した。鉄之進が何をしていたのか、それをつきとめずにはいられない、強い衝動が、私の|尻《しり》をつつくのである。私は橋のつけ根から、水のなかへ入っていった。池底からいま噴き出したばかりの水は、脚も千切れるばかりいたかった。しかし、強い好奇心のとりことなった私には、そんなことも、あとになってぼんやり思い出すくらいのことであった。  私は崖のふもとへかちわたっていった。それから、鉄之進の起こしていた石を、ひとつひとつ起こしてみた。石にはいちめんに|苔《こけ》がむして、ヌラヌラとした感触が気味悪かった。  一つ、二つ、三つ目の石を起こしたときである。私はそのまま、自分の体が石になってしまうのではないかと思われた。全身の血管が氷のように冷えきって、筋肉という筋肉が、こぶらがえりを起こしたように硬直してしまった。あとから考えると私はあのとき、|呼《い》|吸《き》をするのさえ、忘れていたのではないかと思う。  石の下には生首があった。生首はうえむきにおかれてあったので、かっと見開いた眼がうすくらがりのなかから、私をにらんでいるようであった。  あまりの恐ろしさに、私は一瞬、気が遠くなったのにちがいない。何かしら、こんな光景を何度もまえに、見たことがあるような気がした。そしてまた、これは夢なのだ、いまに眼がさめたら、何んでもないことなんだ、と、どこかで|囁《ささや》いているような気がした。  だから、私が突然肩に手をおかれるまで背後にひとがちかづいて来たのに、気がつかなかったのも無理ではあるまい。  私は|弾《はじ》かれたようにうしろをふりかえった。それでいて石を起こした手をはなさなかったのは、それをはなすと、生首の顔に傷のつくことを、どこかでかんじていたからにちがいない。  肩に手をかけたのは知恵遅れの|四《よ》|方《も》|太《た》であった。四方太は野獣のようにあらっぽい息遣いをしながら、私の肩ごしに石の下をのぞいている。かれの恐ろしい馬鹿力で、私は肩の骨がくだけるような痛みを感じた。 「仙石が……仙石がここへかくしておいたのか」  私はちっとも気付かなかったが、四方太も鉄之進のあとをつけて来たにちがいない。 「ぼ、ぼくにはわからない。まさか、あのひとが……」 「いいや、仙石だ、仙石のやつがかくしておいたのだ、でなければここに首のあることを、知っている|筈《はず》がない」  それからかれは|喰《く》いいるように生首のおもてを|凝視《ぎょうし》していたが、急に声をひくめて、 「|守《もり》|衛《え》さんの首だね」  と、ささやいた。  私はいまでもあのくらがりで、しかも半分腐敗したあの状態で、どうして四方太があの首を、守衛さんの首だと断定出来たのか不思議に思っている。      舞台は廻る  古神家のこの事件は、非常に|巧《こう》|緻《ち》な計画をもってつらぬかれているのだが、悪魔のようなこの計画者は、同時に小説家のような才能をもかねそなえているのである。いろんな発見は、いつも適当の間をおいてなされた。ひとびとがいくらかこの事件に退屈しはじめると、活を入れるように何かしら新しい発見がなされた。  お喜多婆アの登場がそうであったし、いままたこの恐ろしい生首の発見がそうである。古神家はさながら、波状的におそって来る、台風のまえにさらされているようなものであった。ひとつの台風が去って、やれやれと小康状態に胸|撫《な》でおろしていると、またつぎの台風がやって来るのである。そして、そのたびに古神家は屋台骨まで、吹きとびそうにゆさぶられるのである。  私はこの恐ろしい発見を、まず、直記にだけ|報《し》らせてやりたかった。しかし、四方太のような男の口をしばらくでもふさいでおくことは出来なかったのである。  |昂《こう》|奮《ふん》して、キーキーとわめき立てる四方太の口から、たちまちこの報道は家中に知れわたった。明方ちかく、|母《おも》|屋《や》の日本間に集まったとき、みんなそれぞれちがった意味で|狂躁《きょうそう》状態におちいっていた。  直記は私のしらせをきいて、すぐ源造とともに首をみにいった。そして、源造をそこに張番にのこして、かえって来たかれの顔色は、まるで死人のように土色になっていた。  鉄之進はまだ、ほんとうに覚めきっていないらしい。四方太の口から話をきいても、この老人はまだ、ほんとうの恐ろしさがわかっていないようである。頭をかかえて、ぼんやりとあらぬかたを眺めながら、それでもときどき、はげしい|戦《せん》|慄《りつ》の発作におそわれている。  |日《ひ》|頃《ごろ》、憎らしいほどとりすましたお柳さまさえが、きょうは妙に取り乱している。瞳がうわずって、とがって、そのために険のある顔がいっそうけわしく見えた。なにかしら黒眼が急に大きくなったかんじで、|牝狐《めぎつね》の陰険さが、露骨にまえに押し出されているかんじである。  このときにあたって、ただ端然と、冷然と|坐《すわ》っているのはお喜多婆アである。お喜多は薄眼を閉じたまま、ひややかに、しかし、|辛《しん》|辣《らつ》に一同の顔色を読んでいる。この冷たい石のようなお喜多をここにおくことによって、一同の|狼《ろう》|狽《ばい》、動揺、|驚愕《きょうがく》の効果が、いっそう強められているようにかんじられる。 「仙石、おまえか。おまえがあの首をかくしたのか。そうじゃ、そうじゃ、そうでなくてあんなところに、首があろうなどとどうして知ろう。仙石、おまえが殺したのじゃ。おまえが守衛さんを殺したのじゃ」  お白州で罪人に|笞《むち》|打《う》つ端役のように、四方太は|凄《すご》んでいきり立った。こういう知恵の足りない男でも、日頃の|鬱《うっ》|憤《ぷん》はあるのだろう。そして知恵の足りない男だけに、それをおさえたり、あとさきのことを考えたりすることが出来ないのだろう。 「|不《ふ》|埒《らち》なやつ、無道なやつ、……人の皮きた畜生、人面獣心、うぬらのようなやつは……うぬらのようなやつは……」  四方太は地団駄踏みながら、|拳《こぶし》をふりあげてかかったが、さすがにそれをふりおろす勇気はなかった。 「なんじゃ、なんじゃ、なんじゃ、その顔は……|睨《にら》んだとて|怖《こわ》くはないぞ。誰がそんなことでおそれるものか。守衛さんは、きさまにとって主人じゃぞよ。主を殺さば|逆磔《さかはりつけ》じゃ。この人非人めが」  なんといわれても鉄之進はこたえない。おりおり首をかしげながら、何かしら、記憶の底からさぐり出そうという顔つきである。 「仙石」  私は直記をふりかえった。 「あの首は……守衛さんの首にちがいなかったのかい」  仙石はくらい顔をしてうなずいた。 「それじゃ、殺されたのは、やっぱり守衛さんだったのだね。と、すると蜂屋のやつはどうしたろう」 「蜂屋なんていやアしない。蜂屋なんて男はこの事件に、なんの関係もありゃしないのだ」  突如、そのとき、座敷の隅から鋭い声がきこえた。お喜多婆アである。  半眼に閉じた|瞼《まぶた》の下から、お喜多は針のような眼で、ジロジロと鉄之進とお柳さま、それから直記を見ながら、 「蜂屋なんてのは|藁《わら》人形も同然なのじゃ。事件をこんがらかすために、つれて来られた|道《どう》|化《け》役者じゃ。みんなおまえたちが、守衛さんを殺すためにやった仕事なのじゃ。鉄之進とお柳、それから直記、おまえたち三人が、よってたかって守衛さんを殺したのじゃ。わたしは知っている。わたしははじめから知っていたのじゃ」  お喜多婆アは決して|激《げっ》|昂《こう》を言葉の調子にあらわさなかった。鋭いが、落ちつきはらって、一句一句語尾に力をこめながら、宣告するようにいうのである。それだけに、この老婆の持っている|気《き》|魄《はく》の恐ろしさが、骨の髄までしみとおるようであった。 「お父さん」  直記は無理にお喜多の言葉を無視しようとした。しかし、その声はまるで|咽《の》|喉《ど》に魚の骨でもひっかかっているようであった。 「あなたはどうして、あの池を見にいかれたのですか。あなたはあそこに、あんな恐ろしいものがあることを、まえから御存じだったのですか」  鉄之進は面目なげに眼をまばたきながら、 「わしは知らぬ……わしには何んの|憶《おぼ》えもない。第一、わしはほんとうに、奥の池へいったのだろうか」 「仙石、おまえはそれをゴマ化そうというのか。ゴマ化そうたってゴマ化されぬぞ。おまえが奥の池の、石を持ちあげているところを見たものは、わしばかりじゃないのだぞ。これここにいるこのひと何んといったかな、あんたの名は……ああ、屋代さん、屋代さんもちゃんと見てござるのだ。白ぱくれようたってそうはいかぬ。それは……おお、何よりの証拠は、おまえの寝間着だ。見い、その|裾《すそ》を、……グッショリ|濡《ぬ》れたその裾を、……それが池へ入ったという何よりの証拠じゃ」  四方太が|膝《ひざ》をたたいてわめいた。 「お父さん、あなたは何も憶えていらっしゃらない。それは、あの病気中のことですから無理もないのです。しかし、あなたが夢中遊行を起こして、フラフラとのぞきにいった石の下に、偶然、生首がかくしてあったなどというのは、あまり話がうますぎます。お父さん、あなたはひょっとすると、あそこに首があるかも知れないと、まえからかんがえていられたのじゃありませんか」  鉄之進はまた、混乱したようにまばたきした。 「そういえば、わしは、このあいだから考えていたのだ。わしはなあ、あまり取り乱したところは見られたくない性じゃ。だから、事件が起こってからも、出来るだけ落ちつくようにしているのじゃが、そりゃあ人間じゃもの。あのようなことが起こってみれば、やはり大きなショックはうける。わしは日がな夜がな、あの事件のことを考えたのじゃ、首のない死体のことを考えたのじゃ。いったい犯人は、どこへ首を持っていったろう。どこへ首をかくしたろう。わしはそれを考えた。考えて、考えて、考えつめた。生首のような物騒なものを、犯人がそう遠くまで持ちはこぶわけがない。それにこの屋敷はひろいのじゃから、かくすところにことは欠かぬ。どこにでもかくす場所はある。犯人はきっと、この屋敷のどこかに首をかくしているにちがいない。わしはそういうふうにかんがえた」  鉄之進はそこでひといき入れると、 「それならば、犯人は首をどこへかくしたか。それをかんがえるには、自分が犯人の立場になって考えるのがよいと思いついた。いや、自分が犯人ならば、どこへかくすだろうかと考えてみたのじゃ。かくすところはどこにでもあった。しかし、わしが考えるところは、たいてい警察の連中が、すでに調べたところばかりだった。調べても出て来なかったのだからそこではない。最後に思いついたのが、あの石の下だった。わしはあの重なりあった石の下がうつろのようにくぼんでいるのを、ずっとまえから知っていた。ちょうど首を入れるくらいの|孔《あな》になっている。あそこなら面白い、首をかくすのにお|誂《あつら》えむきの場所だと思った。それに警察の連中も、あの石をあげてまでも捜しはしなかったろう」  鉄之進は息切れがするように、そこでまた言葉をきると、 「わしはそう考えるとたいへん愉快じゃった。誰も知らぬうまいかくし場所をさがしあてた気になって、たいへん得意であった。しかし、そうはいうものの自分の考えがあまり空想的で、子供っぽいような気がしたので、自分でその場所をしらべにいく気にはなれなんだ。第一、あの石の下にうつろがあることを知っているのは、わしよりほかにない|筈《はず》なのじゃ。犯人がそれを知っていよう筈がない。そう考えると、わしは何んだかバカバカしくなって、しらべにいくのは思いとまった。しかし、思いとまったもののそのことが始終わしの気になっていた。……奥の池の石の下……奥の池の石の下……そういう言葉がしじゅうわしの耳に|囁《ささや》きかけた。きょうわしが病気を起こしてあそこへいったのは、多分そのためじゃろうと思う。しかし、……そこにほんとうに生首があったなどと……それはほんとうか。わしをかついでいるのではないか」 「ほんとうだとも、ほんとうだとも。おまえがかくして、おまえが見にいったのだ。生首はちゃんと石の下にあったのじゃ」  四方太がまたわめいた。 「問うに落ちず、語るに落ちるとはまったくこのことじゃな。鉄之進、おまえいまなんといわれた。あの石の下にくぼみがあることを知っているのは自分ばかりだといわれたな。してみれば、そこへ生首をかくしたのは、やっぱりおまえさんじゃ。おまえさんよりほかにありゃせん」  四方太のキイキイ声のあとにつづいて、お喜多婆アがゆっくりと、かんでふくめるようにいった。そして彼女の言葉がとぎれると、急にあたりはシーンとしずまりかえった。  そこへお藤が入って来た。 「あの……」  と、お藤はオドオドと一同を見渡しながら、 「お嬢さまのお姿が見えないのですけれど……」 「八っちゃんのすがたが見えない?」  直記がはじかれたようにふりかえった。 「はい、そして、ベッドの|枕《まくら》もとにこんなものがおいてあったのでございますが……」  お藤がさし出した桃色の封筒を、直記がひったくるように取り上げた。  それは八千代さんの置手紙で、文面はつぎのとおりであった。 [#ここから2字下げ] あたしは逃げます。誰もあたしのいう事は信じてくれないでしょう。いえいえ、信じないのは他人ばかりじゃない。あたし自身、自分が信じられなくなりそうです。あたしは逃げます。すがたをかくします。誰もあたしを捜さないで下さい。捜してもムダですから。 八千代 [#ここで字下げ終わり]  直記と私は思わず顔を見合わせた。  八千代さんが逃げた。そして、そのために舞台は大きく転換して、古神家の殺人事件は、古神家の旧支配地、岡山県の山間部落にうつることになったのであった。     第三章 金田一耕助登場      金田一耕助登場  |姫《き》|新《しん》線というのは|姫《ひめ》|路《じ》から、|伯《はく》|備《び》線の|新《にい》|見《み》へ抜けるローカル線である。  伯備線というのは表日本の岡山と、裏日本の|米《よな》|子《ご》をつなぐ線路であり、新見はほぼその中間にある駅だから、つまり姫新線は岡山県の中央部、というよりも北寄りの山岳地帯の|麓《ふもと》を縫うて、県下を横断していることになる。  姫路から乗り換えて、私がこの姫新線に身を託したのは、三月過ぎ、四月も去って、あわただしい春も|逝《ゆ》き、沿道の緑がむせっかえるような青黒さで、照りかがやいている五月六日のこと。  思えば私がこの恐ろしい古神家の殺人事件にまきこまれたのは、まだ花の便りもきかぬ三月初めのことであった。東京の西郊|小《こ》|金《がね》|井《い》にある古神家の陰惨な離れ家で、われわれがあの|凄《すさ》まじい首なし|屍《し》|体《たい》を発見してから、すでに二か月の月日が過ぎようとしている。だが、この二か月のなんと短く、かつあわただしかったことか。  私はいまでも眼をつむれば、あのおぞましい血みどろな佝僂の屍体を、まざまざと|眼瞼《ま ぶ た》の裏におもいうかべることが出来る。そしてまた、それからあいついで起こった、いろんな奇怪な事実の暴露や発見が、鮮明な印画となって、|脳《のう》|裡《り》のフィルムに焼き付けられている。どの|一《ひと》|齣《こま》をとってみても、それは血も凍るような、おどろおどろの無残絵なのである。しかも最後にやって来たのが、生首の発見と八千代さんの|失《しっ》|踪《そう》。……そこで|俄《が》|然《ぜん》、古神家の殺人事件は、クライマックスに達したように思われた。  新聞は|蜂《はち》の巣をたたいたように騒ぎはじめた。検察陣はやっきとなっていきり立った。小金井にある古神家は、それこそ旋風のなかにもまれる一枚の木の葉であった。私たちは世間の疑惑の眼に焼きつくされ、古神家の秘事はことごとく明るみへさらけ出された。  だが、その結果は……? なにもなかったというよりほかにみちはない。検察陣のあらゆる努力にも|拘《かかわ》らず、八千代さんの行方は|杳《よう》としてわからなかったし、蜂屋小市も依然として消息をたっていた。  蜂屋小市……? そうなのだ。あの首なし屍体が|守《もり》|衛《え》さんときまった以上、蜂屋小市はどこかに生きていなければならぬ。警察ではそこで改めて、蜂屋を追及しはじめたらしいが、その結果はといえば、これまたことごとく徒労に帰したようである。  蜂屋小市。……まったくかれは|蜃《しん》|気《き》|楼《ろう》のような男だ。怪異な|風《ふう》|貌《ぼう》をもって戦後の画壇に躍り出し、さまざまな問題を起こしたあげくがこの殺人事件。しかもかれの過去は|茫《ぼう》|然《ぜん》として、霧のかなたにつつまれているのである。誰一人、かれが戦前どこに住んでいて、何をしていたかを知る者はない。水に浮いた根なし草みたいに、戦争という水面からこっちのことは、強烈すぎるほど強烈な印象となって、世間の脳裡にきざみつけられているのに、水面から下は、とらえどころのないアヤフヤさで、神秘の奥ふかく|揺《よう》|曳《えい》している。  そこでガゼン、疑惑の眼はこの怪人物に集中されはじめた。蜂屋はほんとに佝僂だったろうか。ひょっとするとかれは、戦後の異様な好尚に投じるために、あのような|凝《こ》りに凝った|扮《ふん》|装《そう》をしていたのではあるまいか。そして守衛さんを殺したいまとなっては、あの眼につき|易《やす》い扮装をといて、どこかで涼しい顔をしているのではあるまいか。更に八千代さんのことだが、彼女は共犯者とはいえぬまでも、守衛さん殺しの犯人が、蜂屋であることを知っており、蜂屋とある種の|諒解《りょうかい》のもとに、かれのところへとび出していったのではなかろうか。……と、いうのがだいたい当時における世論だったようである。そして、八千代さんのあの無軌道きわまる性格を知るものにとっては、一応それは納得の出来る説だった。  しかし、私はなんだかそれだけでは満足出来なかった。八千代さんと蜂屋のあいだに、表面に現われている事実以上の、深い諒解があったのかも知れぬということは、私も一応承服しよう。  しかし、蜂屋はなんだって守衛さんを殺したのだ。あの日のいさかいがもとになって、怒りのあまり殺したというのか。  いや、いや、いや、私にはどうしてもこの事件がそんな単純な性質のものとは思えないのだ。  第一、蜂屋と守衛さんといちど取りちがえられた屍体の|身《み》|許《もと》、あれは偶然だったというのか。佝僂という人並みはずれた相似のうえに、さらにひそかに用意されていた、|太《ふと》|股《もも》の傷というあの恐ろしい相似。……あれをしも偶然ということが出来るだろうか。  否! 否! 否! 私はそこになんともいえぬドスぐろい、秘密のあやを感ずるのだ。悪魔の知恵でつらぬかれた|妖《あや》しいまでに綿密な計画を。……  それはさておき古神家の殺人事件も、ここまで来るとピタリと停止してしまった。それはちょうどクライマックスに達したとたん、プッツリ切れたフィルムのように、関係者にとっては妙にいらいらとした、落ち着かぬインターヴァルだった。しかも、はじめのうちは|潮《しお》|騒《さい》のようにザワめき立っていた世間も、時がたつにつれてしだいにおさまり、あとには変に白茶けた空白感がとりのこされた。  直記の父、仙石鉄之進が郷里へかえるといい出したのはそのころだった。もっとも直記にきくと、これは今年に限ったことではなく、毎年一度、鉄之進は必ず郷里へかえるのだそうである。それは郷里にのこっている、古神家のおびただしい財産の管理について、ときどき、指図をしたり監督をしたりする必要があるからだろう。そしてその時期は避暑をかねて、毎年夏に行なわれるのだが、今年は時期を早めて、四月のおわりにいくといい出した。  世間のおもわくもある事だからと、直記も一応はとめたらしい。しかし、鉄之進としては、その世間があるからこそ、いっときも早くこの東京を逃げ出したいのだろう。警察のほうへはどういう風に諒解を得たのか知らないが、結局、鉄之進は四月二十日に東京を出発した。一行は鉄之進のほかにお柳さまと|四《よ》|方《も》|太《た》の三人だった。ところがそれからしばらくして鉄之進から、小間使いのお藤をよこせといって来た。お藤一人を旅立たせるわけにはいかぬから、直記がそれをつれていった。  ところが直記はかえって来ると、 「思ったよりいいところだよ。第一、世間の雑音がきこえないだけでもいいや。どうだ、|寅《とら》さん、君もいっしょに行かないか。おれはこの夏向こうで暮らしてみるつもりだ」  私はさぐるように直記の顔を見た。 「だって、そりゃ……事件のほうはどうするんだい。そんなことをするとみんなして逃げ出すように思われやアしないか」 「逃げ出すのさ、正直な話が……はっはっは、世間がなんと思ったって構うもんか。おれはもうこの事件にゃあうんざりしてるんだ」 「だって、君たちの留守中に、八千代さんがかえって来たら……?」 「かえって来るもんか、あいつ! ねえ、寅さん、君はまだ八千代が生きていると思っているのかい。八千代という女はね、絶対に不自由な暮らしに耐えていくことの出来ない女なんだぜ。蜂屋にどんなに|惚《ほ》れてたって……疑問だがね……浮世はなれて奥山住居なんて、しゃれたことの出来る女じゃ絶対にないんだ。すぐイヤになって、イヤになったが最後、どんな危険なことがあっても、ノコノコとかえって来る女だ。そういうふうに見境のない女なんだ、あいつは。それだのにいままで出て来ないところを見ると……」 「死んだというのかい? つまり蜂屋と心中したというのかい?」 「死んだか、殺されたか……」  私はドキリとして、思わず直記を見直した。 「殺されたって? 誰に……?」 「|極《き》まってるじゃないか、蜂屋の奴にさ。八千代は馬鹿だよ。イカモノ|喰《ぐ》いなんだ、あいつは。……最初、蜂屋の背中の|瘤《こぶ》にちょいと魅力を感じて、浮気をしてみようって気になったんだろうが、蜂屋が殺人犯人だってことになると今度は真実ノボセあがった。蜂屋が英雄みたいに見えて来たんだ。そういう女なんだよ。八千代という女は、不道徳というより無道徳なんだ。はじめから世間なみの道徳観念なんて、全然ない女なんだ。そこで蜂屋のあとを追っかけていってそしてどこかで殺されたのさ」 「フーム」  私は直記のこの説に、すっかり感服したわけではないが八千代さんの行方がいまもって、わからないところを見ると、そういうこともあるかも知れないと考えざるを得なかった。私はなんとなく、みぞおちのあたりに砂利を詰められたような重っ苦しい気持ちだった。 「いったい、八千代さんは家を出るとき、どのくらい持っていたんだろう」 「そんなことわかるもんか。うちのおやじはその点実にだらしがなくてね。そりゃ大きなところ、何百何千万というところはちゃんとおさえてるさ。だが、それ以下のわれわれの小遣いくらいのはした金となると、おやじは全ゼン寛大なんだ。寛大を通り越してルーズなんだ。おかげでおれなども大助かりだが、八千代の金遣いと来たら、どうしてどうして、おれどころじゃねえ、ちょっと買物に出るにも、ハンドバッグの中に十万ぐらいの金は持っていようという女だからね。蜂屋にとっちゃいい持参金だったろうよ。持参金を持って殺されにいく花嫁……畜生!」  直記はそこでちょっと深刻なかおをしたが、すぐつまらなそうに|生《なま》|欠伸《あ く び》をすると、 「よそう、よそう、そんな話はよしたっと。それよりどうなんだ。君は来るのか、来ないのか」 「ぼくがいったほうがいいのかね」  私はわざとゆっくりそういうと、さぐるように直記の顔を見直した。直記は|怪《け》|訝《げん》そうに私の顔を見ていたが、すぐどくどくしい冷笑をうかべると、 「なんだい、いやにもったいをつけやアがって。いやなら|止《よ》せ……と、いいたいところだが、実をいうとね、やっぱり君に来て|貰《もら》いたいのさ。|淋《さび》しいんだよ。おやじやお柳を相手じゃ、正直、時間を持てあましちまうじゃないか。ときどき君をイヤがらせたり、|憤《おこ》らせたりしていないと、どうも物足りなくて仕様がねえ。悪趣味だよ。悪趣味だがこれも君に一半の責任はある。おい、黙ってちゃわからねえ。来るのか、来ないのか。チェッ、三文小説の原稿なんか鬼に食われてしまえだ。どうせ、ろくな金にゃならねえンだろう」  いつもの事ながら、直記にこう|真《ま》っ|向《こう》から押して出られると、結局イヤといえない私だった。 「よしよし、それでこそ寅さんだ。なんとかいうじゃないか、こんな場合。そうそうわたしの寅さんか。はっはっはイヤらしい」  直記は上機嫌だったが、それでいてすぐにも私をつれていくというかと思いのほか、 「それじゃこうしよう。おれは明晩たつ。切符をちゃんと買ってあるんでね。君は二、三日あとから来たまえ。電報を打ってくれたら駅まで迎えにいってやるよ。おれ? おれは明晩の八時だが、なに、いいよ、いいよ、送って来なくてもいいよ。おれ、東京駅から乗るかどうかわからねえ」  直記はあのとき、なぜあのように|狼《ろう》|狽《ばい》したのだろう。私は別に送っていくとはいわなかった。しかし前後の関係からして、かれがあんなに狼狽したのは、私が送ると思ったからではないだろうか。しかし、そうすると、私に送って来られては、何か都合の悪いことがあったのだろうか。  私にはわからない。何もかもわからない。ただわかっていることは、直記も私に何かかくしているということ。そしてかれに心を許してはならぬということ。  それはさておき、私は直記より四日おくれて東京を立った。そしていま、姫新線のガタガタ列車にゆられているのである。  虫が知らせるというのか、私は東京を立つときから、今度の旅行がただではすまないことを感じていた。ものにははじめがあれば終わりがなければならぬ。あのような恐ろしい事件が、|尻《しり》きれとんぼのまま終わろうとは思えない。そしてその終わりというのが今度の旅行中に起こるのではなかろうか。  私は突然、冷水を浴びせられたように|身《み》|顫《ぶる》いした。そしてそのことによって、はっととりとめもない|冥《めい》|想《そう》からさめた。私は、眼を窓外から車中にうつして、あわててあたりを|見《み》|廻《まわ》した。と、そのとたんガッキリと視線のあった男がある。  その男は三十四、五の、どこにどうというとりえのない、いってみれば平凡な顔付きをした男だった。列車の混雑にくたくたになったセルの着物に、これまた時代ものらしいくたびれた|袴《はかま》をはき、薄よごれたソフトの下からは、もじゃもじゃの|蓬《ほう》|髪《はつ》がはみ出している。どう見てもあまり立派な|風《ふう》|采《さい》とはいえぬ。柄も小さく、平凡というよりは、平凡を通り越して貧相な男だ。私はひとめ見て、村役場の書記と踏んだ。  |唯《ただ》、気になるのはその男の眼付きである。|瞳《め》だけは実に|綺《き》|麗《れい》にすんでいる。すんでいるのみならず、|叡《えい》|智《ち》の光さえ宿している。それでいて冷たくはない。ほのかな温か味をもって落ち着いているのである。  私たちの視線があったとき、その男はかすかにわらおうとしたかのようであった。しかし、そのまえに私は視線をそらしてしまった。しばらくして私がそのほうへ眼をやったとき、その男は頭をうしろにもたらせて、静かに眼をつむっていた。それきり私はその男のことを、忘れてしまった。  汽車が目的のK駅へ着いたのは、それから一時間ほど後のことであったが、なんとなく人のいききする今日このごろでは、思ったよりも|賑《にぎや》かな感じだった。数人の旅行者にまじって改札口を出ると、約束どおり直記が来て待っていた。日ごろは憎い直記だが、このときばかりはなんとなくかれの顔を見るのが|嬉《うれ》しかった。旅なれないせいであろうか。 「やあ」 「やあ」 「よく来たね」 「よく来たよ。まったく大変なところだね、先祖の土地を悪くいっちゃすまないが」 「馬鹿いえ。こんなことで驚いてちゃ、さきが思いやられる」 「もっと大変なところかい」 「そうさ。これからまだ三里奥へ入るんだからな」 「三里? おい、これからまだ三里歩くのかい」  私は心細くなってあたりを見廻した。自転車は走っているようだが、乗合もなければむろん自動車などあろう|筈《はず》がない。 「馬鹿いえ。|田舎《い な か》者じゃあるまいし、三里の道が歩けるかい。特別のはからいをもって、牛車を用意して来てやったよ」  直記の指さすところを見ると、なるほど牛車が一台、|俄《にわ》か仕立ての|日《ひ》|避《よ》けをおいて駅の外に待っている。 「あれに乗るのかい」 「はっはっは、そうはにかむなよ。このへんじゃあれでも特別仕立ての乗物さ。平安朝の貴族が乗った|檳《びん》|榔《ろう》|毛《げ》の車とでも思って乗るんだね」  直記も案外風流なことをいう。  ところがわれわれがその車に乗ろうとしたときである。 「ちょっとお|訊《たず》ねしますが……」  と、だしぬけにうしろから声をかけたものがある。振り返ってみるとさっきの貧相男だった。 「はあ……」  直記が不思議そうに訊ねると、 「ひょっとするとあなたがたは、鬼首村の古神さんのところへおいでになるのではありませんか」  直記がそうだとこたえると、セルの男はにこにこわらいながら、 「それはちょうど好都合でした。実はぼくも古神さんのところへいくんですがね、お邪魔でなかったら、御一緒に乗っけてもらえないかと思いまして……」 「古神の家へ……? あなたが……?……」  私たちは思わず顔を見合わせた。 「そう、あなたのお父さんに招かれましてね。失礼しました。あなたは仙石直記さんでしょうね。こちらが屋代寅太氏でしたね。ぼくはこういうものですが……」  不思議な男が出した名刺を見ると、金田一耕助とただそれだけ。      二幕目  間もなく私たち三人を乗せた牛車は、ゴトゴトと駅の前を出発した。  いくこと半里、道はしだいに登り坂となり、両方から山の峰々がせまって来る。左に見える|山《やま》|裾《ずそ》を縫うて、一条の|谿流《けいりゅう》が流れている。  間もなく私たちのいくみちは、その谿流と合して、かなり高い|崖《がけ》のうえをいくことになった。|覗《のぞ》いてみると数丈もあろうかと思われる|谿《たに》の底には、いたるところ巨岩巨石がごろごろとして、その間を縫うてかなり豊かな水量が、音もなく押し流れていく。山の陰に入ったせいか、空気も急にひえびえとして来た。 「なんという川だい、これは……?」 「|旭《あさひ》川の上流だよ。今年は雨が少なかったので、これでも水量が少ないのだそうだ。古神家の木なども、|筏《いかだ》に組んでこの川をKまで流すんだそうだが、今年は水量が少ないので筏流しに困るとこぼしてたぜ」 「へえ? いまどきまだ筏なんて古風なものが存在するのかねえ」 「仕方がないさ。何しろ道がこのとおりだから、トラックなんてゼイタクなものは走りゃしねえ。まあ、原始的なことにかけちゃ、江戸時代といくらも変わりゃしないねえ」 「なるほど大変な路だ」  路にはいたるところ、ごろごろと石が露出していて、牛車はそのうえを|跳《は》ねっかえり跳ねっかえり進んでいくのである。うっかりおしゃべりをしていると、舌を|噛《か》み切る心配がある。 「そうさ。でも、こんなのはまだいいほうで一度大暴風雨でも来ようものなら、たちまち崖がくずれて交通|杜《と》|絶《ぜつ》となる。そうなると鬼首村の近在三か村、一切外部と遮断されてしまうんだそうだが、そういうことが毎年かならず一度か二度はあるという話だよ」 「へえ、そいつはまた心細いね」  私はわざと大仰に首をすくめてみせたが、そういう話をしながらも、なんとなく奥歯に物のはさまったような気持ちだった。そしてその気持ちが直記のほうにもあることを、私はさっきから見抜いていた。いやいや、直記は私よりもはるかにイライラしているのだ。金田一耕助という、思いがけない|闖入者《ちんにゅうしゃ》のために、思うままにしゃべれぬもどかしさ。わがままなかれは、それで少なからず不機嫌なのだ。私は駅のまえでひと眼かれを見たときから、何かあったなと感じていた。何か変わったことがあったとき、そしてそれに|動《どう》|顛《てん》しているとき、直記はかえって軽薄になり、おしゃべりになる。見栄坊なかれは自分の驚き、当惑、混乱がひどければひどいほど、いっときにそれをぶちまけてしまうことを|潔《いさぎよ》しとしない。出来るだけ小出しに、チビリチビリとさりげなく吐き出して来る。そしてそのまえには必ず、|軽《けい》|躁《そう》な|饒舌《じょうぜつ》状態を呈するのである。さっきからつづけられている毒にも薬にもならない谿流問答がそれだった。  だが、そんな話をいつまでつづけていても、ちっとも心の慰めにならないことを覚ると、直記は|俄《が》|然《ぜん》不機嫌になった。そしてそれきり黙りこんでしまった。  金田一耕助という不思議な闖入者は、そういう空気を察したにちがいない。急に牛車のうえで腰をあげると、 「あ、ぼく、ちょっとここでおろしていただきます」 「え?」 「小便をしていきますから……どうぞぼくにはお構いなくさきへおいで下さい。少しブラブラ歩いてみたいですから。この路をまっすぐ行けばいいんですね」 「ええ、そう、一筋路だから間違うことはありませんよ」 「じゃ、荷物をお願いします。……くたびれたらまた追いついて乗っけて|貰《もら》います。有難うございました」  金田一耕助はヒラリと車からとび降りた。そして路傍の草にむかって、シャーシャー用をたしはじめた。  私たちはそれをうしろに見ながら、牛車をさきにいそがせた。ゴットンゴットン、牛車はあいかわらず同じテムポで、石ころ路を登っていく。左右の山々はいよいよ狭まって、空気はますます冷えて来る。どこかジージーと|油蝉《あぶらぜみ》がないている。 「なんだい、ありゃア……」  よっぽどしばらくしてから、直記はいまいましそうに金田一耕助のおいていったスーツケースを足で|蹴《け》りながら、吐き出すように|呟《つぶや》いた。 「君も知らないのか」 「知るもんか、あんなやつ」 「だって、君のお父さんに招かれてやって来たといってた。お父さん、そのことについて何もいわないの」 「知らなかったねえ。寝耳に水だよ。おやじはいったいあんな男に、なんの用事があるのだろう」  直記はなんとなく不安そうである。よくマニキュアされた|爪《つめ》を、しきりに口で|噛《か》んでいる。しかし、私にはそれよりも、直記の胸にあることのほうが気がかりなのだ。私はうしろをふりかえったが、耕助のすがたはどこにも見えない。私は牛方のほうへ眼をやりながら、 「おい、あの男は大丈夫かい」  と、|顎《あご》をしゃくりながら声を落とした。 「うん、あの男なら大丈夫だ。おうい、銀さん、銀さん」  直記は声を張りあげたが、牛方は振りむきもしないで、ノロノロと牛の鼻面をとって歩いていく。 「あのとおりだよ。耳が遠いのだ。少し話したいことがあったので、わざとあいつをえらんだのだが……畜生ッ、金田一の野郎!」  わがまま坊主の直記には、金田一耕助という無断侵入者がよっぽど|癪《しゃく》に障ったらしい。 「何か変わったことがあったんだね」  直記の横顔を|凝視《ぎょうし》しながら、私は思わず声をひくめた。直記はきびしい顔をしてうなずきながら、 「帰って来たんだよ、あいつが……」  と、押しつぶされたようなしゃがれ声で呟いた。 「えっ、帰って来たって、誰が……?」 「誰がって、わかってるじゃないか。八千代のやつだよ」  私は脳天から|楔《くさび》をぶちこまれたような驚きにうたれた。|茫《ぼう》|然《ぜん》として、しばらくは言葉も出なかった。 「仙石、そ、そりゃアほんとうか」  直記は陰気な顔をしてうなずいた。 「いったい、そりゃアいつのことだ」 「このあいだ、君にわかれてこっちへ帰って来たろう。おれが鬼首へついたのは二日の夜の八時ごろのことだった。途中で牛車が故障を起こして、半分以上歩かなければならなかったんだ。おれは家へつくとすぐ|風《ふ》|呂《ろ》へ入り、飯を食って自分の部屋へひきさがったんだ。するとそこにあいつが寝ているじゃないか」  直記はわざと素っ気なく、ポキポキと木の枝を折るような口調でいう。私はなんともいえぬ恐ろしさがこみあげて来て、ガチガチと歯が鳴るかんじだった。 「で、家の人は誰も彼女のことを知らなかったのかい」 「うん、気がつかなかったらしい。もっともいまじゃおやじとお柳さま、それから小間使いのお藤だけは知っているがね。ほかの連中にゃ内緒にしてあるんだ」 「で、どんな状態なの、八千代さん」 「はじめ二日ほどは正体なしだ。イヤらしい。まるで交尾期のすんだ牝猫みたいな状態でね。おれは側についていても腹が立ったよ」 「で、いまでは正気にかえっているんだね」 「うん、まあね、あれが正気といえるならばだ」 「変なところがあるのかい」 「変といえば変だが、あたりまえといえばあたりまえかも知れん。つまりいままでのあいつの性格が、いよいよ極端化されて来たんだね。あいつの持っていた野性が、露骨にムキ出しになって来やアがった。一切のものを否定してかかるとああなるんだろうね。とにかく厄介な存在だよ」 「いったい、いままでどこにいたんだ」 「わかるもんか、そんなこと。|訊《き》いたって鼻のさきでせせら笑ってやアがる。なにしろおやじにしてもお柳さまにしても、あいつのことは内緒にしておきたい|肚《はら》がある。こんな山の中まで警官に追っかけて来られちゃたまらないからね。ところが八千代のやつ、そういうこっちの弱身をちゃんと見抜いていやアがって、好きな駄々をこねやアがる。なにしろ、自分はいつでも、おおそれながらと名乗って出る用意があることを、露骨に示しゃアがるんでね。まるで逆だよ。自分の弱味を武器にして、逆にこっちを脅迫してるようなものだ。バカバカしいとも思うが、どうにもならない。正直者が損をする世の中だというが、まったくそのとおりに出来てやアがらア」  直記は|咽《の》|喉《ど》に、魚の骨でもひっかかったような声をあげて、毒々しくわらった。 「しかし、そりゃ。……いつまでもそんな状態をつづけるわけにはいかんだろう。いずれは知れるにきまってる」 「そりゃそうさ。しかし、ただ知れるくらいなら結構だが……たかが容疑者|隠《いん》|匿《とく》罪だろう。ところが、それよりまえに、何かまた恐ろしいことが起こりゃアせんかと、おれはそれが心配なんだ」 「なにか恐ろしいことが起こる……? 何かそんな気配があるのかい」  直記は陰気な顔をしてうなずいた。それから急にゾクリと|身《み》|顫《ぶる》いをすると、不安そうな眼でキョロキョロあたりを|見《み》|廻《まわ》し、いちだんと声をひくめて、 「やって来たんだよ、あいつが……」 「あいつ……」 「蜂屋小市だ。八千代を追っかけて来やアがったにちがいねえんだ」  私はふたたび脳天から、鉛の|楔《くさび》をぶちこまれたような驚きにうたれた。あまりの驚きに手足がジーンとしびれるかんじだった。 「蜂屋がやって来たって!」 「バカ、大きな声を出すな」 「で、君たちあいつをかえしたのかい。つかまえもせずに……」  私は|喘《あえ》ぎ喘ぎ、たたみかけるように訊ねた。口の中がからからに乾いて、舌がひっつれるようなかんじだった。 「バカ、そうじゃないんだ。あいつがいかに大胆なやつでも、正面切ってうちへ来れるもんじゃない。おれたちだってあいつの姿を見たら|唯《ただ》じゃおかない。ふんづかまえて交番へつき出してやる」 「じゃ、どこへ来たんだ」 「どこへ来たのかわからん。また、いまどこにいるのかおれは知らん。しかし、あいつの来たことは確かなんだ。村のやつで二、三人あいつの姿を見たものがあるというんだ。あれは一昨日の晩だったがね。村はずれの水車小屋の番人に、夜おそく、鬼首村へいくにはこの路をいけばよいかときいていったやつがあるというんだ。それがそれ、佝僂でインバを着ていて、|紐《ひも》ネクタイを結んでいて、たしかにあいつなんだ。それから半時間ほど後に、村でバクチを打ってたやつが、バクチに負けてかえるその道で、やっぱり同じ|風《ふう》|態《てい》の男に出会っている。そのときそいつは、古神家のお屋敷はどっちかときいているんだ。なんでも真夜中の一時ごろのことだったという。ところが……」 「ところが……?」 「ところが昨日の朝になって、お藤がおれのところへ来てふるえながらこんなことをいうんだ。昨夜、彼女は三時過ぎ便所に起きた。そのとき何気なく、便所の窓から外を見ていると、八千代の部屋から出て来たものがあるという。お藤がびっくりしてよくよく見ると、それがインバを着た佝僂だったというんだ。夜のことで顔はよく見えなかったが、たしかに蜂屋にちがいないとお藤めヒステリー気味でね、ひょっとするとお嬢さんがどうかされたんじゃないかと、こういうんだ。そこでおれもびっくりして、八千代の部屋へいってみたが、八千代め、グースラ、グースラ寝ていやアがる。それがまた、いかにもお疲れさまみたいに不潔きわまる寝姿だから、おれも思わずかっとした。八千代を|叩《たた》き起こして詰問してみたんだが、やつめ、例によって鼻のさきでせせら笑ってやアがる。それでもおれがしつこく訊ねると、ほざきゃアがったよ、直記さん、|妬《や》ける?……おれ、いやというほど横っ面をブン殴ってやった。女を殴ったのは生まれてはじめてだが、すると八千代め、急にわっと泣き出して、殺してくれ、殺してくれ、どうせ遠からず、わたしは殺される体なんだ……と、いや、もう手がつけられない」  直記はぐったりとしたように口をつぐんだ。陽はまだ空にある|筈《はず》だが、山峡だけにあたりはソロソロ薄暗くなりかけている。|谿流《けいりゅう》のなかで|河《か》|鹿《じか》の鳴く声がきこえたが、私は何かしら、遠い遠いところからきこえて来るような気持ちだった。  直記は|蒼《あお》|白《じろ》んだ顔をぼうっとあげると、 「ねえ、寅さん、いったいこれはどうなるんだ。おやじとお柳と四方太のやつがここへかえって来た。そこへおれとお藤が加わったかと思うと、八千代のやつがかえって来る。そうするとそれを追っかけて蜂屋が現われ、そこへ君がやって来た。守衛のやつをのぞいては、登場人物はすっかり|揃《そろ》ったわけじゃないか。ひょっとすると、事件の第二幕目がひらかれるんじゃないか。もし、開かれるとすると、第二幕目ではどんなことが起こるというんだ」 「さあ、もうソロソロ鬼首村でしょうね」  だしぬけに声をかけられて、私たちはぎくりとして、牛車のうえからふりかえった。金田一耕助は帽子をとって汗をふきふき、にこにこ下からわれわれの顔を仰いでいる。  そうだ、登場人物はすっかりそろった。鬼首村で事件の第二幕目がひらかれるのかも知れない。いや、きっと開かれずにはおかぬだろう。  だが、その際、金田一耕助というこの新登場人物は、いったい、いかなる役割を演じるのだろうか。      海勝院の尼  鬼首村と書いておにこうべ村とよむ。  どうしてこのような奇妙な名前がついたのかしらないが、由来、岡山県というところは、鬼の字のつく地名の非常に多いところだそうである。それは多分、四道将軍の事跡に由来しているのであろうといわれている。当時、将軍にはむかった賊はすべて鬼と目されていたところから、この地方でも、賊の|首《しゅ》|魁《かい》かなにかが首をはねられ、どこかに埋められたのだろうと伝えられている。  そういう大昔の話はどうでもよいが、私にはこの村の名に首という字のつくのが、妙に無気味に感じられる。そもそも私を思いもかけずに、先祖の地へおびき寄せたこの事件というのが、首にふかい関係を持っているのだ。ああ、思い出してもゾッとする。首無し死体の恐ろしさ! そして、さらにまた、のちに発見された生首の、何んともいいようのないおぞましさ、いやらしさ! そして、ひょっとするとそれらのことのすべてが、この村の名と、何かふかい関係をもっているのではあるまいか。……  それはさておき、私たちが村へ入ったときには、初夏の汗ばむような日もすっかり暮れて、鬼首村の北を|劃《かく》する山丘地帯の空のあたり、ものすごい稲妻の|閃《せん》|光《こう》が、ひっきりなしに走っているのが望見された。おりおり遠く、車をころがすような雷鳴もきこえた。 「や、これは……北のほうはものすごい夕立らしいですな。ひょっとすると、こっちのほうへもやって来るんじゃありませんか」  金田一耕助というのは妙な男だ。私たちから邪魔にされていることを知っているのかいないのか、少しも気にならないふうである。子供のように牛車から足をぶらぶらさせながら、北の空をのぞんでいるところを見ると、図々しいというのか、人懐っこいというのか、ちょっと見当のつきかねる人物である。 「なあに、降るならいちど、天地がひっくりかえるほど降ってくれるほうがいいんだ。なんしろ今年はひどい乾きかたで、みんな大弱りしているんだからな」  直記の声にはどこか相手をきめつけるような調子があった。  それから間もなく私たちをのせた牛車は古神家の勝手口の外へついた。  古神家の大きなお屋敷は、村の北方にある小高い丘のうえにあり、背後はふかい|竹《たけ》|藪《やぶ》をとおして、そのまま裏の山丘地帯につらなっている。のちに聞いたのだが、この丘は俗に御陣屋跡といわれ、昔からここに古神家の|藩《はん》|邸《てい》があったのだが、明治時代にいちど焼けたのを、復興したのだといわれている。したがって昔にくらべると、大分規模が小さくなっているそうだが、それでも古ぼけた練塀のなかに|聳《そび》えている杉の大木には樹齢三百年というのもあり、いかさま古いお屋敷と思われた。 「古神家勝手口」と書いた金網張りの、どこか|軒《のき》|行《あん》|燈《どん》のような感じのする軒燈をくぐって、勝手口の小門から入っていくと、内玄関までいく途中の小屋に、|鳶《とび》|口《ぐち》だの、|縄《なわ》|梯《ばし》|子《ご》だの、ちかごろでは絵のうえでしか見られない水鉄砲だのがかかっているのも珍しかった。 「君、君」  直記は横柄な声で金田一耕助を呼びかけると、 「君は|親《おや》|爺《じ》の客だからそこから入っていきたまえ。そこに|銅《ど》|鑼《ら》みたいなものがブラ下がっているだろ。それを|叩《たた》けば誰か出て来るだろう。屋代、われわれはこっちへいこう」  直記はすたすたと暗いほうへ歩いていく。 「仙石、ぼく、お父さんに|挨《あい》|拶《さつ》しなくてもいいのかい」 「いいよ、親爺はどうせ酔っ払っていらあ。挨拶なら明日でもいい」  建物の角を曲がると、|胡《ご》|麻《ま》|穂《ほ》の垣根がある。その垣根の|枝《し》|折《おり》|戸《ど》をくぐって中庭へふみこんだとき、うしろのほうでボアーンとにぶい物音がきこえた。金田一耕助が銅鑼をたたいて訪うているのであろう。なんとなく陰気な音だ。  中庭へはいると雨戸をとざした縁側の|欄《らん》|間《ま》から明るい光がもれているのが見えた。 「おや」  これを見ると直記は少し歩調をゆるめて、 「誰か来ているのかな」  と、|眉《まゆ》をひそめた。 「どうして?」 「座敷に|灯《ひ》がついている」  直記はにわかに足をはやめて、ぐるりと建物を一周すると、ガラスのはまった腰高障子をがらっとひらいた。そこはちょうど湯殿のそばらしく、ほのぼのと|風《ふ》|呂《ろ》のわく|匂《にお》いが、長途の旅につかれた私には快かった。あたりには誰もいず、ただ、その暗い電燈がひとつ、すすけた天井からブラ下がっている。 「こっちへ来たまえ。おれはいつもここから出入りをするのだ」  長い廊下をつたっていくと、間もなく明かりのついている座敷の前へ出た。直記は客が気になるらしく、そっと障子をひらいたが、すぐあっというような叫びをあげて、ぴっしゃりそのまましめてしまった。 「あ、|若《わか》|旦《だん》|那《な》……」  客が立って出て来ようとする気配に、直記はいよいようろたえて、 「ちょ、ちょっと待って下さい。いますぐ着更えて来る……屋代、おれの部屋へいこう」  直記は私と障子のあいだに立ちはだかるようにして、肩で私のからだを押した。  私はなんだか妙な気がした。直記が障子をひらいたときちらと|一《いち》|瞥《べつ》しただけだけれど、客はどうやら|尼《あま》さんらしかった。頭を丸く|剃《そ》りこぼって|被《ひ》|布《ふ》のようなものを着ていた。相当年齢のいった、|小《こ》|肥《ぶと》りに肥った尼さんだったような気がする。  だが、それにしてもおかしいのは直記の態度だ。かれはこの尼さんを私に見られたくなかったらしい。妙な男だ。直記は私を信用しているような風をしている。それでいて何かしら致命的な点で、私に知られたくないことがあるらしいのだ。私はふと小金井の屋敷にある離れの洋館のことを思い出した。直記はあの洋館の、明かずの窓のなかに、女をひとりかくまっていたというのだが、いったいその女というのは何者だろう。私はいつか直記がそのことを打ち明けるだろうと心待ちにしているのだが、いまもってかれは一言もその問題に触れようとはせぬ。私もいこじになって|訊《き》こうとしなかった。こうしてその問題は、何かしら|咽《の》|喉《ど》にひっかかった魚の骨のように、私たち二人のあいだのこだわりの種になっているのだ。 「妙なお客さんが来てるじゃないか」  座敷から廊下を曲がって、三つほどへだたった直記の部屋へつれこまれたとき、私はそういってさぐるように直記の顔を見た。 「ふむ」  直記はひどく不機嫌になっている。 「尼さんだね」 「君、見たのかい」  直記の眼に、急にギラギラとした|脂《あぶら》のようなものが浮いて来た。 「それゃ見たさ。君が障子をひらいたんだから……しかし、見ちゃいけなかったのかい」  直記はだまって私の顔を見据えている。直記のほうでも何かしら、私の顔色から読みとろうとしているのだ。 「はっはっはっ」  ふいに直記は咽喉の奥で、乾いたような笑い声をあげると、 「なあに、そういうわけじゃない……が、うるさくってね」 「なにが……?」 「ううん、寄付をしろというんだよ。|田舎《い な か》はこれがうるさくってね」  ただそれだけのことだろうか。それだけのことで、あんなに|狼《ろう》|狽《ばい》する直記であろうか。それに、それだけのことならば、何もあの尼を、私の眼からかくす必要はないではないか。しかし、私は黙っていた。  そこへ、軽い、あわただしい足音をさせて、見覚えのあるお藤が入って来た。 「お帰りなさいまし。ちっとも存じませんで……」  お藤は障子の外で|挨《あい》|拶《さつ》をすると、 「あの、海勝院の尼さんが、ちょっとお眼にかかりたいとおっしゃって……」 「うん、わかってる」  直記は不機嫌な声でお藤の言葉をさえぎると、素早い視線でちらっと私の顔色をうかがいながら、ちょっと思案をしているふうだったが、 「よし、それじゃ会って来よう。早く追っ払わぬとうるさくってかなわん」  と、半ばひとりごとのようにいい、 「お藤」 「はい」 「屋代に着物を出してやれ。それから……風呂はわいてるだろうね」 「はい、ちょうどよい加減でございます。お入りになりますか」 「いや、おれは|止《よ》そう、今夜は大儀だ。それより屋代を案内してやれ」  直記はなんとなく、あとに心の残る|風情《ふ ぜ い》だったが、それよりも座敷のほうが気になるらしく、とうとう思い切ったように部屋を出ていった。 「お藤さん、久しぶりだね」 「あら、ほっほっほ、御挨拶もいたしませんで……いらっしゃいまし」 「いや……また当分御厄介になるよ。だけど君はえらいね。よくこんな山の中までやって来たね。|淋《さび》しくないの」  お藤は無言のまま、|浴衣《ゆ か た》のうえにどてらを重ねて、襟をそろえていたが、 「さあ、お召更えを……」 「やあ、有難う」  お藤は私のうしろにまわって、着物を着せてくれながら、 「屋代さん」 「うん」 「あたし淋しいのはまだいいんですけれど、何だか|怖《こわ》くて」 「怖い……? ああ、そうそう、八千代さんがかえっているんだってね」 「まあ、御存じでしたの」 「ああ、さっき直記から聞いたよ。それから蜂屋がこのへんをうろついているというじゃないか」 「ええ、そうなんですの。だから、あたしいっそう気味が悪くって……屋代さん、何かまた、恐ろしいことが起こるのじゃないでしょうか」  それに対して私はなんとも答えられなかった。起こらぬとは断言しかねる。さりとて起こるといえばいたずらに、この若い娘をおびやかすことになるだろう。お藤はまえから、女中には惜しいような|縹《きり》|緻《よう》だったが、春以来のこの事件でいくらか|面《おも》|窶《やつ》れしているのが一種の|凄《せい》|艶《えん》味を加えて、それがかえってあわれであった。 「八千代さんはどこにいるの。やっぱりこの離れ」 「ええ、離れのずっと向こうのほうのお部屋」 「このお屋敷、ずいぶん広いんだね」 「ええ、だから、いっそう心細いんですわ。広いわりに人が少ないもんですから、何があっても、わかりゃしませんもの」 「君は|母《おも》|屋《や》と両方かけもち」 「ええ、あっちのほうには留守番のかたやなんかいるんですけど、田舎のひとでしょう。だから、やっぱり奥様やなんかに気に入らなくて……それであたしが呼びよせられたんですけど、八千代さんが帰っていらしてからは、そのほうも見てあげなきゃなりませんから……」 「そう、八千代さんのことはひとにまかせるわけにはいかないからね。で、まだ誰も八千代さんのこと、気がついていないの」 「ええ、幸いお屋敷が広いものですから……でも、あの方、なんといいますか、あんな無茶なかたでしょう。それに半分やけになっていらっしゃるんですから、なにをしでかすかわからなくてハラハラしますわ。ねえ、屋代さん、こんなことが警察へわかったら、あたしどうなるでしょう」  お藤の不安はかかってここにあるらしく、いまにも泣き出しそうな顔色であった。 「なに、君は大丈夫だ。いざとなったら何もかも主人に押しつけてしまえばいいのさ。ときに八千代さんはぼくの来てることを知ってるかしら」 「それは御存じでしょう。|若《わか》|旦《だん》|那《な》がきょうお迎えにいらっしゃるとき、そうおっしゃってたようでしたから」 「いま、何をしてるの」 「さあ、さっき寝床へお入りになったようでしたが……」 「それじゃ今夜は会えないね」  私は淡い失望を感じた。私にはまだ八千代さんという女がよくわからなかった。何かしら世の常でない、ズバ抜けて異常な性格をもった女……と、ただそんなふうにしかわかっていない。そして、私が八千代さんという女に心をひかれるのは、主としてそんなところにあるらしい。一皮むけば、ただの女なのかも知れないと思いながら……。 「ときに今夜、母屋のほうに、お客さんがあるようだね」 「ええ」 「あれ、どういう人? 仙石のおやじが呼びよせたんだってね」 「ええ、あたしもびっくりいたしました。そんなこと、ちっとも知らなかったものですから……あの方に、あなたがたのお着きになったことを伺いましたの。御一緒だったんですってね」 「うん。……いったい、あれはどういう男なんだい。金田一耕助とかいったが……」 「あたしもよく存じません。いま向こうで旦那さまとふたりきりで、何か話していらっしゃるようですが……」  私はなんとなく心が騒いだ。仙石のおやじはなんだってあんな男を、わざわざ遠方から呼びよせたのだろう。そのことと今度の事件と、何か関係があるのだろうか。……だが、私にはそれよりも、もっと|訊《き》きたいことがあった。 「ときに、さっきの尼さんね、海勝院の尼さんとかいった……」 「ええ、海勝院の妙照さんとおっしゃるんですって」 「その妙照さん、ときどき直記のところへやって来るの」 「いいえ、今日はじめてですわ。あたしもびっくりしましたわ。だしぬけにいらして直記さんにお眼にかかりたいって……いったい、若旦那はいつあんな尼さんと御懇意になられたのでしょうかね。こっちへいらしてまだ間もないのに……」 「海勝院て、この村にあるの?」 「さあ……ああ、そうそう、足長の海勝院といってましたわ」 「何んだい、その足長というのは……?」 「隣村の名なんです。ほんとにこのへんの村、変な名前ばかりですわね。鬼首だの足長だの……五里ほど向こうには手長村というのもあるんですって」  お藤は、心細そうにわらった。 「いったい、足長村海勝院の妙照さんが、直記のやつに、どんな用があるのだろう」 「さあ、あたしにもよくわかりません。若旦那にあって直接に話すとおっしゃって……」  そこへ直記が座敷のほうからかえって来たので、私たちの話はブッツリ途切れた。直記は私たちの顔をさぐるように|見《み》|較《くら》べながら、 「なんだ、まだ|風《ふ》|呂《ろ》へ入ってなかったのかい」  どこか|噛《か》みつきそうな調子である。 「ああ、久しぶりだから話がはずんでね。お客さん、かえった?」 「うん」 「そう、じゃ、ひと風呂浴びて来ようかな。君はどうなの」 「いや、ぼくは止そう。なんだか今夜はたいぎになった。お藤、屋代が風呂を出たらいっぱいやるから……」 「はい、それでは屋代さん、御案内しましょう」  風呂からあがって、直記と差しむかいでいっぱいやっているころ、|俄《にわ》かに|物《もの》|凄《すご》い物音とともに大雷雨がおそって来た。あとから思えばこの大雷雨こそ、あの恐ろしい惨劇第二幕目の前奏曲だったのだ。ああ、思い出してもゾッとする。はためく稲妻、とどろく雷、車軸を流すような大夕立のなかで演じられた、あの血みどろな大惨劇……いま、その第二幕がひらかれようとしている。      官能的な風景  その夜……。  直記の部屋の隣座敷、広い十畳にただひとり眠ることになった私は、しかし、なかなか|瞼《まぶた》があわなかった。  外には大雷雨が荒れくるっていて、おりおり雨戸の|隙《すき》|間《ま》から、研ぎすました|剃《かみ》|刀《そり》のような光が、ピカッピカッと差しこんで来る。陽電子の激突する、すさまじい、カチカチというような雷鳴が爆発すると、そのあとしばらくゴロゴロと尾をひくような余韻が、峰から峰へとどろきわたって、そのたびに地の底がゆれるような感じだった。  閉めきった雨戸のなかの息苦しさから、湿度が急に上昇していくのがはっきりわかる。まるで|濡《ぬ》れたタオルでぴったりと、鼻も口もおさえられたような息苦しさで、私はいくたびか寝床のなかで寝返りをうってかえした。  しかし、その夜私があんなに寝苦しい思いをしたのは、必ずしも、大雷雨と湿度のせいばかりではなかったであろう。何かしら自分の身辺におそいかかろうとする、恐ろしい未来に対する漠然とした予感がピーンと一本の針金のように、私の神経を緊張させていたのだ。  私は軒を打つはげしい雨の音と、はためく雷鳴の裏側から、もっとほかの物音……気配というようなものを聞きとろうとするかのように、あらゆる神経を耳にあつめて息をこらしていた。  いったい、これは自分の思いすぎであろうか。果たして何が起こると保証されてもいないのに、このような不安と期待で神経をいたずらに酷使しているのは自分だけだろうか。ほかの連中は、みんないい気持ちですやすや眠っているのだろうか。  いやいや、そうは思えない。隣座敷の直記にしろ、奥のほうに寝ているという八千代さんにしろ、そうやすらかに眠れる|筈《はず》がない。彼らも私と同じように、|輾《てん》|転《てん》|反《はん》|側《そく》しながら不安に胸をおののかせているにちがいない。いや直記や八千代さんのみならず、直記の父の鉄之進やお柳さま、さては|四《よ》|方《も》|太《た》やお藤にいたるまで、何事か待ちうけるように、|呼《い》|吸《き》をころして輾転反側しているのではあるまいか。  しかし……それではいったい、みんなで何を待っているというのだ。いずれ古神家の周囲に、何事かが起こらずにすむまいと思われるものの、それは必ずしも今夜起こるときまっているわけではない。ああ、これはやっぱり今宵の天候と気温から来る、私の妄想に過ぎないのであろうか。  私は|強《し》いておそい来る不安を払い退けようとつとめた。出来るだけ精神を安静にたもって、眠りにおちようと努力してみた。しかし、あせればあせるほど、頭脳はますます|冴《さ》えわたり、瞼を閉じるとその裏に、さまざまな怪しい影像がうかびあがって来る。私はあまりの寝苦しさに耐えかねて、寝床のうえに|腹《はら》|這《ば》いになると、くらがりのなかで煙草とライターをひきよせた。  その時だった。  どこか遠くのほうから、キャーッと女の|魂《たま》|消《ぎ》るような声がきこえた。私ははっとしてくらがりの寝床に起き直ったが、するとまたしても一声二声、ひびきわたる女の悲鳴につづいて、ドヤドヤと入り乱れた足音と|罵《ののし》りあう男の声がきこえて来る。私は驚いて廊下へとび出したが、その拍子に隣座敷からとび出した直記とバッタリ顔を合わせた。 「ど、どうしたのだ、直記、あれはなんの音だ」 「おやじがまた、酒乱を起こしたのじゃないかな。ちょっといってみよう」  離れから|母《おも》|屋《や》へは、広い一間廊下がつづいている。その一間廊下のなかほどには|軒《のき》|行《あん》|燈《どん》のような電燈がひとつ、いまにも停電しそうに危なっかしくまたたいている。廊下の外はあいかわらず、|物《もの》|凄《すさ》まじい大荒れだった。  母屋の口まで出ると、お藤が|裾《すそ》を乱して走って来た。 「ああ、|若《わか》|旦《だん》|那《な》」  お藤はわれわれの姿を見ると呼吸をはずませて、 「早く来て下さい。早く来て下さい。親旦那が……親旦那が……」 「おやじがどうかしたのかい?」 「また、お酒を少し召し上がりすぎて……お柳さまを……」 「ちょっ、また、酒乱かい。放っとけ、放っとけ、お柳も少し思いあがりすぎているんだ。たまにゃ|小《こ》っ|酷《ぴど》く痛めつけられるのがいいのさ」 「だって、だって、刀を振りかぶってお柳さまを追っかけまわしているんです。もしもお柳さまの身に間違いがあってはなりません。早く来て、なんとか親旦那さまをとりしずめて下さい」 「ちょっ、またかい。いい年をして手のかかるおやじだ。|寅《とら》さん、すまねえが一緒に来てくれ」  この母屋はふつうの縁側のなかに、お|入《いり》|側《がわ》と称する畳廊下がついている。なんのことはない、江戸時代の大名屋敷といった構造だ。お藤の案内でこの長いお入側を走っていくと、やがてお柳さまの寝所の前に出た。この寝所は二間つづきになっていて、表のほうは化粧の間、奥のほうが寝間になっているが、その奥のほうから牛のような鉄之進の怒号がきこえて来た。 「はなせ、はなせ、四方太、離さぬと貴様もいっしょにぶった|斬《ぎ》るぞ」 「ま、ま、まあ、いいから仙石、気を鎮めなさい。そ、そ、そんな無茶な……これ、危ないがな。危ないがな」 「危ないのは承知のうえだ。このあま、ぶった斬ってくれる。ふてくされやがって……これ、お柳、何とかいわないか」  しかし、お柳さまの声はきこえなかった。私たちが急いで化粧の間へとびこんでみると、寝所のなかでは大立ち|廻《まわ》りの最中だった。厚い絹夜具のうえに仁王立ちになった鉄之進は、左手でお柳さまの髪の毛をひっつかみ、右手にドキドキするような日本刀をふりかぶっている。その手に四方太が必死となってしがみついていた。  こういう情景を見た|刹《せつ》|那《な》、私はみぞおちのあたりが固くなるような恐怖をおぼえる一方、何んだか吹き出したくなるような|滑《こっ》|稽《けい》な感じを押えることが出来なかったのも事実である。  みんなで芝居をやっている! そんな感じが一瞬強く来たからである。むろん、みんなはじめから芝居をするつもりではなかったであろう。鉄之進の怒りにも、お柳さまのあのえたいの知れぬ無表情な恐怖にも、四方太の痴呆らしい|狼《ろう》|狽《ばい》ぶりにも、一応の真剣さはあるだろう。しかし、その真剣さに限界があった。  鉄之進は伊勢音頭の|貢《みつぎ》のように、白地の寝間着のまえをひろげ、|太《ふと》|股《もも》から|褌《ふんどし》まで丸出しで、血走った眼といわず、全身の皮膚といわず、ヌラヌラとした酒気と怒りが浮き出しているが、ふりかぶった右腕は、たとえ四方太の制止がなくとも、ふりおろす気のないことはまずたしかである。うしろから髪をつかまれたお柳さまは|匹《ひっ》|田《た》の|長《なが》|襦《じゅ》|袢《ばん》の裾をみだし、ムッチリとした乳房や|膝頭《ひざがしら》もあらわに、必死となって両手で髪をおさえているが、これまた、どうしたら見た眼によい|恰《かっ》|好《こう》がつけられるか、そんなことを考えているように思われた。知恵おくれの四方太でさえが、内心加古川本蔵を気取って得意になっているように見えるのだ。私はなんだか|田舎《い な か》芝居の一場面か毒々しい泥絵具の絵看板でも見ているような気持ちだった。ペッと|唾《つば》を吐きたくなるようなイヤらしさなのである。 「お父さん、何をしているのですか」  |鶴《つる》の一声とはまったくこのことだった。直記の声をきくと、鉄之進の体がピクリとふるえた。こちらをふりかえって直記の姿を見たとたん、|脂《あぶら》ぎった鉄之進の顔は、まるでベソをかく子供のように|歪《ゆが》んで来、ふりかぶった腕からみるみる力が抜けていった。 「何んです。そのざまは……いい年をして恥ずかしいと思いませんか。小父さん、その刀をもぎとってしまいなさい」  鉄之進の手から刀をもぎとると、四方太は落ちていた|鞘《さや》にパチンとおさめた。 「直記さん、この刀はどうしましょう。ここらへおいとくとまた危ないがな」 「こちらへ貸しなさい。まったくなんとかに刃物とはこのことだ。危なくて仕様がありゃしない、寅さん」 「うん?」 「この刀は、君にあずけておく、保管しておいてくれたまえ」 「僕が……? 君があずかっていればいいじゃないか」 「いや、僕にも自信が持てないんだよ。おれにもおやじの血が流れているんだからな。いつ刀を持って踊り出したくなるかも知れたものじゃない。あっはっはっ」  その笑いかたがあまり毒々しかったので、私は思わず直記の顔を見直した。直記は私の視線を避けるようにして、お柳さまのほうに向き直ると、 「お柳さま、あなたも少したしなんだらどうです。七つや八つの子供でもあるまいに」 「だって……」  お柳さまはすましこんで衣紋をつくろい、乱れた髪を直している。長襦袢の下から膝頭が出ているのに気がつくと、あわてて|裾《すそ》をかきあわせた。  鉄之進は絹夜具のうえにべったりと|尻《しり》を落として、ぜいぜいと肩で呼吸をしていた。 「だってもへちまもありませんよ。おやじの酒癖はあなたもよく知っている|筈《はず》じゃありませんか。少しは上手にお守りが出来ないものですかねえ」 「だってねえ、向こうでお藤をあいてにさんざっぱら酒を飲んだあげく、ここへ押しかけて来て……酒臭いからいやだというと急にあばれ出して……ほんとに気が狂っているとしか思えないわ。いやになってしまう」  お柳さまはこともなげにいう。私はなんだか全身がムズ|痒《がゆ》くなるような感じだった。お柳さまの声の中に何かしらゴロゴロと|咽《の》|喉《ど》を鳴らす牝猫のような感じがあったからだ。お柳さまの全身から、いやらしいほどの色気が発散していたからだ。お柳さまはあきらかに、いまのいきさつから情欲をかき立てられ、全身の|毛《け》|孔《あな》がうずくようにパッとひらいて、来たるべき官能の満足を楽しんでいるのだ。 「チョッ!」  直記がきたないものでも吐き出すように舌を鳴らした。 「おい、寅さん、いこう。小父さん、あなたもおいでなさい」  廊下へ出ると四方太が、心配そうにあとをふりかえって、 「直記さん、大丈夫かな。あのまま二人をおいといても、何か間違いは起こりゃしないかな」  と、心配そうに|訊《たず》ねる。 「大丈夫ですよ。あの二人もだんだん|麻《ま》|痺《ひ》して来て、ああいう刺激でもなければ満足出来なくなっているんです。何も心配することはない。|口《く》|説《ぜつ》のあとはお楽しみもいっそう味が濃いというじゃありませんか。あっはっは、こっちこそいい面の皮だ」  直記のいうことがわかったのかわからないのか、四方太はきょとんとして廊下に立っている。 「さあ、さあ、心配することはない。あなたも向こうへいっておやすみ。お藤、おまえも部屋へかえって寝なさい」 「はい」  お藤が廊下の障子をしめるとき、ふと奥の寝所をふりかえると、お柳さまがしどけない恰好で、あいの|襖《ふすま》をしめるところだった。私はまた、全身がかあっと|火《ほ》|照《て》って、身内のムズ痒くなるのを覚えた。  私たちはお藤や四方太と別れて、もとの離れへかえって来た。こういう騒ぎのあいだ、八千代さんはよく寝ているのか、ついに姿を見せなかった。 「仙石、この刀はどうするのだ」 「ああ、それ……今夜はともかく、君の部屋へあずかっておいてくれたまえ」 「そりゃ困るな」 「困る……? どうして。何も困ることはありゃしないじゃないか。あっはっはっ、君は今夜、何かまた起こるとでも思っているのかい? 何も起こらないよ。明日になったら何んとか処分をかんがえるから、今夜はともかく君が保管していてくれ。ああ、眠い、おれはもう寝るよ。君も早く寝たまえ」  直記はさっさと自分の部屋へ入ってしまった。  私も仕方がなしに自分の座敷へかえると、床の間へ刀をおいて、そのまま寝床へもぐりこんだ。大雷雨はまだつづいている。いや、つづいているというよりも、ますますはげしくなるばかりだった。私は眠ろうとして眼をつむったが、さっきのお柳さまの姿態が、妙に官能を刺激して、なかなか眠れそうにもなかった。  しかし、そのうちに昼のつかれが出て来たのか、私はやっとうとうとしはじめた。そして、それからどのくらい時間がたったのか、何んでもそのとき、私は|怖《こわ》い夢を見ていたようだ。胸のうえに万貫のおもしをのせられたようで、声を立てようとしても舌が思うままにならない。手足を動かそうとしても動かない。私は全身から熱汗をふき出す感じで、必死となってこの金縛りとたたかっていたが、そのときである。廊下の障子をひらいて誰かがスーッと入って来た。いや、夢と現実の境で、誰かが入って来たのである。そのものはくらがりの中で、しばらく私の寝息をうかがっていたようだが、やがてまた、音もなくスーッと部屋を出ていった。  私がやっと金縛りを解いて現実の世界へかえったのは、それから間もなくのことであった。私はしばらく夢心地でいまのはほんとうに人が入って来たのだろうか、それとも夢のなかに描き出された幻想なのだろうか……と、うつらうつらと考えていたが、そのときどこかで雨戸をあけるような音がしたので、私はパッと、|蒲《ふ》|団《とん》を|蹴《け》ってとび起きた。  そして電気をつけて床の間を見た。  床の間からさっきの刀が姿を消していた。      竜王の滝 「おい、仙石、起きてくれ。大変だ。変なことが起こったのだ!」  私に|叩《たた》き起こされて、 「どうしたのだ。何かあったのか」  直記もびっくりしたように、寝床のうえにとび起きた。そこで私が手短かに、いまの話をきかせると、直記も大きく眼を見張って、 「なに、刀がない?」  と|噛《か》みつきそうに叫んだが、 「よし、いってみよう」  直記はすぐに私の部屋へ入って来た。 「この床の間に立てかけておいたのだね。そして、誰かが入って来たような気がする……? それから雨戸のひらく音をきいたというんだね。ひとつ、調べてみよう」  果たして廊下の雨戸が一まい開いていて、そこから吹きこんでくる雨に、縁側がびっしょり|濡《ぬ》れている。そこは宵に|尼《あま》さんが待っていた座敷のまえである。  外は猛烈な稲妻だ。直記はその稲妻のなかをすかしていたが、 「ちょっと待っていてくれ。おれ、向こうを調べて来る」  直記は足早に廊下を曲がっていったが、間もなく|真《ま》っ|蒼《さお》な顔をして引きかえして来た。 「やっぱりそうだ。八千代が病気を起こしたんだ」 「八千代さんが……? いないのかい?」 「うん、寝床のなかは|藻《も》|抜《ぬ》けの|殻《から》だ。でもまだぬくもりが残っているところを見ると、出ていってから、それほど時間がたっているとは思えない」 「それじゃ、八千代さんが刀を持ち出したというのかい」 「そうだ、あいつさっきのおやじの騒ぎを見ていたにちがいない。それでまた、刀のことが気になったんだ。そこでふらふら、例の病気を起こして、君の部屋から刀を持ち出してどこかへかくすつもりで……」 「このまま放っておいてもいいのかい?」 「まさか放っておくわけにもいくまい、とにかく、あとを追ってみよう」  私たちはいったん部屋へ引きかえすと、洋服に着かえてとび出した。この横なぐりの雨では傘をもっても駄目なことはわかっていたが、幸い私は防水布でつくったレーンコートを持って来ていた。直記も同じいでたちである。  外はあいかわらずの猛烈な大雷雨で、ときどき|抉《えぐ》るような稲妻が、家や山や、立ち騒ぐ木々の|梢《こずえ》を浮き彫りにする。耳を|聾《ろう》する雷鳴が、カチカチと私たちの頭上で|炸《さく》|裂《れつ》した。 「おい、どっちへいくんだ」 「とにかく、屋敷のなかを捜して見よう」  離れから垣根を越えて、|母《おも》|屋《や》の裏側までやって来ると、ふいに家の中から声をかけられた。 「おや、どうかなすったのですか」  びっくりして振り返ってみると、|厠《かわや》の窓から|覗《のぞ》いているのは金田一耕助だった。私たちは思わず顔を見合わせた。 「この|嵐《あらし》の中をいまごろどこへいらっしゃるんです」  金田一耕助が怪しむのも無理はない。しかし、それに対して私たちは何んと答えられよう。八千代さんのことは家人以外、絶対に誰にも|喋《しゃべ》れないことになっているのだ。  私たちが顔を見合わせていると、金田一耕助がまた声をかけた。 「ひょっとすると、あなたがたは、さっきの婦人のあとを追っかけているのではありませんか。それなら、そこから左のほうへいったようですよ」 「えっ、それじゃ君は見たんですか」 「ええ、見ました。さっきこの厠へ来て、用を足しながら外を見ていると、真っ白な着物を着た婦人がフラフラと窓の外を通りすぎたのです。それで僕、大急ぎで着物を着かえて来て、いま、あとを追っかけようと思っていたところです。ちょっと待って下さい。僕もいっしょに行きましょう」 「おい、いこう」  直記がふいに私の腕をひっぱった。 「あいつを待っていることはない」  金田一耕助に教えられたとおり、私たちはそこから道を左へとって進んだ。すると深い杉木立の奥に小さな木戸があったが、木戸が風にあおられて、バタンバタンと鳴っているところを見ると、八千代さんはここから出ていったにちがいない。  木戸の外は屋敷の背後を覆う|竹《たけ》|藪《やぶ》の丘だ。その竹藪のなかに一筋の|小《こ》|径《みち》がついている。私たちはその小径を走っていった。  私たちはめいめい、懐中電燈を持っていたが、ほとんどその必要もないくらい、|頻《ひん》|繁《ぱん》な稲妻のひらめきである。 「八っちゃん、八っちゃん、どこにいるんだ」  直記は走りながら口に手を当てて叫ぶ。しかし、この雷鳴、この風の音、そしてまた、降りしきるこの豪雨のひびきで、その声は直記の口を出るやいなや、どこかへ|掻《か》き消されてしまった。よしまたそれが八千代さんの耳にとどいたところでなんとしよう。相手は夢遊病者ではないか。  竹藪の丘を抜けると山路だ。|楢《なら》や|櫟《くぬぎ》におおわれた山のあちこちが開墾されて、段々畑に|薯《いも》の|蔓《つる》が植えられている。 「どっちへいったろう」 「とにかく、もう少し山を登ってみよう」  うねうねと曲がりくねった径を登っていくと、何やら足にさわったものがある。拾いあげてみると刀の|鞘《さや》だった。私たちは思わず顔を見合わせた。 「この径をのぼっていったんだね」 「うん、しかし、刀の鞘をこんなところへ落として、抜身のままさげていったんだろうか」  私は何んだか歯がガチガチと鳴る感じだった。危ない、危ない! 夢遊病者が抜身をさげて、もし転びでもしたらどうするのだろう。 「おい、急ごう」 「うん、急ごう」  私たちはまた、真正面から吹きつける風雨とたたかいながら、必死となって足を早めた。防水帽もぐっしょり濡れて、縁の周囲から滝のような滴が流れ落ちる。まるで盆をひっくりかえしたような大豪雨だ。 「おい」  私は息をはずませながら声をかけた。 「なんだ」 「八千代さんはなんだって、刀を持ってこんな山をのぼっていったんだ。夢遊病者といっても、全然意識がないとは思えない。いや、何かしら潜在する意識があるからこそ夢中に行動を起こさせるのだろう。八千代さんは寝るまえに、あの刀を何んとかしたいと思ったのだろう。それが潜在意識となって、眠っているあの人を支配しているにちがいない。と、すると、あの人はあの刀をいったいどうしようと考えているのだろう」 「うん、おれもそれをいま考えていたんだが……ひょっとすると、あいつの目指しているのは、竜王の滝かも知れない」 「竜王の滝というのは……?」 「この山の奥に大きな滝があるんだ。土地の人はそれを竜王の滝とよんでいる。おれもこっちへ来て、いちど行って見ただけなんだが、八千代も家へかえるまえ、あのへんをうろついていたことがあるらしい。滝のことを話していたから……八千代はその|滝《たき》|壷《つぼ》へ刀を投げ込もうとしているのじゃないかと思う」 「この径をいけば、その滝へ出られるのかい」 「うん、滝の方へ出られるんだ。ほら、この谷の底を流れているのが、その滝から流れて来る水だよ」  私たちはいつの間にやら、深い|谿《けい》|谷《こく》の方へ出ていった。谿谷の底からは、ごうごうと岩を|噛《か》む水の音がきこえて来る。私たちはひた走りに走って、この谿谷ぞいの径を走っていたが、そのうちに直記があっと叫んで立ち止まった。 「ど、どうしたのだ」 「八千代が……」 「八千代さんが……八千代さんの姿が見えたのかい」 「うん、いまピカッと光ったろう。あのときずっとうえのほうで八千代のやつが……あっ」  そのとたん、また、マグネシウムをたくように、|一《いっ》|閃《せん》の光がパッとあたりを掃いていったが、そのとき、私もはっきり見たのである。  五、六丁さきの山径を、八千代さんが雲をふむような足取りで、ひょうひょうとして飛んでいくのを。……しかも、彼女は片手に抜身をさげていた。…… 「おい、急ごう」 「うん」  稲妻が消えると、あたりはまた、|漆《うるし》に塗りつぶされたような|闇《やみ》である。その中からとどろく雷鳴、吹きすさぶ疾風、泣き叫ぶ木々の騒音、|篠《しの》つく豪雨のひびき、さらにそれにまじって、谿流の水音が一種の|物《もの》|凄《すご》いシンフォニーをかなでて耳を圧する。  私たちは夢中になって走っていったが、そのうちに下のほうから、おおい、おおいと呼ぶもののあることに気がついた。 「畜生ッ、金田一耕助の野郎だぜ」 「あの男、いったい何者なんだ。いやにお節介をするじゃないか」 「何だか知らない。しかし、あいつにつかまっちゃ大変だ。あいつの来ないうちに八千代をつかまえて、どこかへかくしてしまわなきゃならん」 「竜王の滝というのはまだかい」 「うん、もうすぐだ。昼だと向こうにもう見えるところなんだが……」  私たちが顔をあげたとたん、また、ピカッと一瞬の稲妻が下界を照らしたが、そのときだった。 「あっ!」  私たちは|釘《くぎ》|付《づ》けにされたように、その場に立ちすくんでしまったのである。 「おい」  私の手首を握りしめた直記の手は、氷のように冷たかった。歯がガチガチと鳴って、全身が|嵐《あらし》の中の木の葉のようにふるえているのが、くら闇の中ではっきり感じられた。 「君、見たか」 「うん、見た」  私も恐怖のために、舌が|上《うわ》|顎《あご》にくっつきそうであった。 「蜂屋だね」 「うん、……顔はよく見えなかったけど、……」 「刀をぶらさげていたね」 「うん、もしや八千代さんを……」  あまりの恐ろしさに、私はあとをつづけていうことが出来なかった。何かしら、心臓に|千《せん》|鈞《きん》の重みを加えられたような感じだった。  いまの稲妻の一瞬に、私たちはこの世のものとも思えぬほど恐ろしいものを見たのである。滝のうえの|巌《がん》|頭《とう》に、男がひとり立っていた。そいつは|蝙《こう》|蝠《もり》のように、インバネスの|袖《そで》をはためかせながら、右手に刀をふりまわしていた。全身からは滝のように雨が流れていた。縁の広い帽子のために、顔はよく見えなかったけれど、見誤ることの出来ない特徴は、背中に負うた|瘤《こぶ》である。  佝僂なのだ。蜂屋小市なのだ。  私たちはくらやみの中で、石のように立ちすくんでいたが、その時、闇をつんざいてきこえてきたのは女の悲鳴……  八千代さんなのだ。八千代さんが、救いを求めているのだ。 「ど、ど、どうしたのですか。いま、向こうの|巌《いわ》のうえに、変な男が立っていたようですが……」  ぎょっとしてふりかえると、懐中電燈の光のなかに、ほのかに浮きあがったのは金田一耕助の顔である。  そのとき、また、女の悲鳴が闇の底からきこえて来た。 「いきましょう。何かあったにちがいない。急ぎましょう」  金田一耕助は、和服のうえから合羽のようなものをかぶってひた走りに走り出た。  私も直記も、それでやっと気を取り直して金田一耕助のあとにつづいた。  稲妻はそれから後もひっきりなしに下界を照らす。しかし、蜂屋小市も八千代さんも、二度と姿を見せなかった。  はためく雷、荒れ狂う疾風、ごうごうたる滝のひびき、石も木もふっとびそうな大豪雨……何かしら私は、地獄絵巻の一場面を見ているような気持ちだった。間もなく私たちは滝のうえの巌頭まで|辿《たど》りついた。しかし、そこには誰もいない。蜂屋も八千代さんも姿を見せなかった。 「八っちゃん、八っちゃん……」  もうこうなっては、金田一耕助に遠慮しているわけにはいかぬ。直記が大声をあげて叫んだ。 「八千代さん、八千代さん……」  私も直記のあとにつづいて叫んだ。  しかし、答えはなくて、私たちの声はいたずらに荒れ狂う風のなかに|揉《も》み消された。 「捜してみましょう。手分けしてそこらを捜してみましょう」  金田一耕助の顔は|蒼《あお》|白《じろ》く緊張している。あのにこにこ笑っているときの耕助とちがって、そこには何かしら、深い思索のかげが見られた。 「よし、寅さん、君は向こうのほうを捜してみてくれ。おれはこっちへいく」 「では、私はあっちを捜してみましょう」  金田一耕助がいった。  直記はしかし、まるでこの男を無視するように、 「しかし、寅さん、気をつけろよ。相手は|白《はく》|刃《じん》をさげているんだから、……くらやみの中からバッサリやられたらそれきりだぜ」  直記の声には自らをあざわらうようなひびきがあった。私はしかし、その言葉をききながしたまま示された方角へ黙々として足を進めた。  恐怖もある限界をこえると虚無にひとしいということをそのとき私ははじめて知った。私は虚脱したようなうつろの魂を抱きながら、ロボットのように機械的な足どりで、滝のうえの|谿流《けいりゅう》をのぼっていった。  滝のうえはかなり広い谿流を抱いて、両側から高い山がかさなっている。谿流は今宵の大豪雨で、ものすごい渦を巻いている。私たちは三方にわかれて間もなく互いの姿を見失った。  それからおよそ三十分。私はあてもなく豪雨の中をさまよい歩いていた。何んのためにこんなことをするのか、私は何かしら馬鹿らしいような感じが、心のどこかをかすめて通るのをどうすることも出来なかった。  私はもう、生きている八千代さんを見る希望をほとんど持っていなかったのだ。  日本刀をぶら下げて立っていた蜂屋の姿……それにあの悲鳴……私は血みどろになって|斃《たお》れている八千代さんの姿を幻想して、何かしらそれが馬鹿らしい|道《どう》|化《け》芝居のような気がしてならなかった。  そして、私のその幻想はあたっていたのである。  私はふと、私や直記を呼んでいる声を耳にした。それはどうやら金田一耕助であるらしかった。声の調子からして何かを発見したらしいことがわかった。私は急いで声のするほうへおりていき、滝のうえの巌頭で、バッタリ直記にいきあった。  声は|滝《たき》|壷《つぼ》のほうからきこえるのである。私たちは顔を見合わせたが、無言のまま|嶮《けわ》しい|崖《がけ》をおりていった。  とうとうたる滝の音が耳を圧する。雷はだいぶ遠くなったようだが、それでもまだおりおりにぶい稲妻が、未練らしく下界をなめていく。  滝壷までおりていくと、金田一耕助が石のように立ちすくんでいた。ズブ|濡《ぬ》れになった着物が、風にハタハタひらめいているのが、全身をもって|戦《せん》|慄《りつ》しているように見えた。いや、事実、金田一耕助は戦慄していたかも知れない。 「ど、どうかしたのですか」  直記の声はおしつぶしたようにしゃがれている。  金田一耕助はゆっくり私たちのほうをふりかえった。その顔にはなんの表情もあらわれていなかった。虚無にちかい顔色だった。  それから金田一耕助は、懐中電燈の光を前方にさしむけた。  私たちは息をのみ、それからあわててめいめいの懐中電燈の光を、同じ方向にさしむけた。  私たちのいま立っている岩から三間ほど離れて、滝壷の中に突き出している大きな岩のうえに、|叩《たた》きつけられたように八千代さんの姿が横たわっていた。八千代さんの白い寝間着姿……しかし、おおなんと、その八千代さんには首がなかった。……      佝僂の瘤  八千代さんは首を|斬《き》りおとされていた。犯人は八千代さんの首を持っていった。  その首はとうとう発見されなかった。犯人がその首をどこにかくしたにしろ、この奥深い山の中で、それを捜し出すことは、海岸の砂の中からダイヤモンドを捜そうとするようなものである。それはとうてい不可能な事であった。  それにしても犯人は、一度ならず二度までも、なぜ首を斬りおとしていくのだろう。殺しただけでは、なぜ満足しないのか。首を斬りおとして持っていくには、それ相当の理由がなければならぬ。まさか生首の収集家でもあるまい。  首を斬りおとして持っていく。——それには二つの動機が考えられる。  そのひとつは、昔の武士がやったように敵の首級をもってかえり、父君の墓前にそなえる場合だ。しかし、この事件の場合、そんな動機は考えられぬ。げんに第一の被害者|守《もり》|衛《え》さんの首は、後に池の中から発見されたではないか。  第二の動機は、首を斬りおとしておくことによって、被害者の実体をあざむこうとする場合である。これは探偵小説などで、もっともしばしば扱われるトリックだが、ひょっとするとこの事件も、第二の動機に相当するのではあるまいか。  そういえば第一の事件の場合、私たちははじめ被害者を蜂屋小市だとばかり信じていた。そしてゆくえをくらました守衛さんが犯人ではあるまいかと疑っていたのだ。  のちに守衛さんの首が池の中から発見されたがために、この説はすっかりひっくりかえったが、あの首が発見されなかったら、私たちはいまでも、殺されたのは蜂屋と信じ守衛さんを犯人と疑ってきたにちがいない。  だが。……  そうすると、今度の事件はどうなるのだ。今度の事件でも、第一の事件と同じようなトリックが|弄《ろう》されているのであろうか。即ち殺されたのは八千代さんではなく、誰かほかの女だというのだろうか。しかし、ほかの女だとすればいったい誰だろう。八千代さんの身替わりになるような女、年かっこうから体つきまで似通った女、——この事件で私たちはいままでに、いちどもそんな女に出会ったことはないではないか。  いやいや、私たちが、いままで出会わなくても、八千代さんの身替わりになるような女を、犯人が捜し出すのはそうむずかしいことではないかも知れない。いやいやいや私たちが、知らなければ知らないほど、犯人にとっては好都合かも知れない。この事件に全然関係ないあかの他人を、身替わりとして持ってくるほうが、トリックを看破される危険が少ないのだ。  ここまで考えてきて、突然、私はギョッとした。あまりの|怖《おそ》ろしさにふるえあがった。|怖《こわ》くて、怖くてしばらくふるえがとまらなかった。  ああ、私はいったい、何を考えているのだ、あの|屍《し》|体《たい》はたしかに八千代さんの寝間着を着ていたではないか。しかも、あの寝間着は、私たちが屍体を発見するすこしまえまで、たしかに八千代さんが着ていたのだ。と、すれば、八千代さんが自ら寝間着をぬぎ、それを屍体に着せたということになりはしないか。八千代さんも別に殺されてでもいない限り。……  八千代さんがべつに殺されているなどとは、とうてい私には信じられぬ。いかに兇悪|敏捷《びんしょう》な犯人といえども、あの瞬間に、ふたりの女を殺すことができるとは思えないからだ。  ああ、そうすると、八千代さんは犯人、もしくは共犯者ということになるのではないか。そうだ、八千代さんは共犯者なのだ。  八千代さんがいかに異常な性格の持主とはいえ、まさかあのような残忍兇暴な犯行が演じられようとは思えない。  主犯は別にあって、八千代さんがそれを手伝っている。……そう考えると、いままで納得のいかなかったこの事件の|謎《なぞ》のすみずみが、いくらか合理的に注釈できるのではなかろうか。  今度の事件の場合でも、八千代さんの存在を、この世から抹殺するために演じられたトリックではあるまいか。八千代さんは第一の事件の重大な容疑者、あるいは参考人として、警察からきびしく追及されていた。それを避けるためには、死んだものになってしまうのが、いちばん安全な方法なのだ。そうしておいて、別の人間となって更生し、かげでペロリと赤い舌を出している。……  だが、そうすると、主犯はいったい誰なのか。これはもういうまでもなく蜂屋小市だ。げんに私は、昨夜の稲妻の瞬間に、蜂屋の姿を見たではないか。むろん、ハッキリ顔を見たわけではない。しかし、蜂屋でなくて、誰があのような、いやらしい姿をしていよう。そうだ、万事は蜂屋と八千代さんが共謀のうえで仕組んだ仕事なのだ。……  むろん、これだけでは、まだまだ、納得のいかないところが多かった。どこかまだ|辻《つじ》|褄《つま》のあわぬところがある。しかし少なくとも蜂屋ひとりの仕事と考えるよりは、いくらか謎の中心に接近したような気がする。……  ああ、八千代さんが共犯者、……この血みどろの|道《どう》|化《け》芝居に、彼女の白い手も一役買っている。……  私はあまりの恐ろしさに、全身に、|粟《あわ》|粒《つぶ》がいっぱい立つのをおぼえた。なんとかしてこの恐ろしい考えを打ち消そうと、自分の説のどこかに、不合理なところはないかと頭をしぼった。しかし、こう考えるほうが少なくともいままでの暗中模索時代よりも一歩前進したことは、たしかであるように思われた。 「何をお考えですか」  だしぬけにうしろから声をかけられて、私はギョッとしてふりかえった。そこに立っていたのは、金田一耕助だった。私はとっさに言葉が出なかった。あまり深く考えこみすぎていたので、急にあたまの転換ができなかったのだ。 「ああ、いや、別に……」  ねっとり額ににじんでいる汗を、私はあわててハンカチでこすった。悪夢のようないまの考えに、私は全身、ねっとり汗ばんでいたのだ。 「ひどく考えこんでいましたね。さっきから御様子を拝見していましたよ」  私は急に不快さがこみあげた。この男、スパイのように私の挙動を監視していたのだろうか。  金田一耕助は、私の顔色にうかんだ不快なかげに気がついたのか、 「いや、べつにあなたを監視していたわけではないのですがね、実は声をかけようと思って待っていたんです。あなたがあまり深く考えこんでいらっしゃるものだから、つい御様子を拝見していたのです。どうぞ、気になさらないで下さい」 「いや、ああ、べつに……あっちのほうはどうですか」 「いま、取り調べの最中です」 「直記のやつはどうしていますか」 「仙石氏はなかなか抜けられないでしょう。なにしろ中心人物だから……」  夜明けとともに駆けつけてきた、近くの町の警察官のものものしさに、鬼首村は|鼎《かなえ》のわくような騒ぎであった。都会とちがって|田舎《い な か》では、歴史の流れが単純である。人殺しなど、何年に一度何十年に一度あるかなしであろう。また、たとえ人殺しがあったとしても、動機も犯行も単純で、犯人がわからぬというような、複雑な事件はほとんどない。  だから今度のように、女が殺されて首がない、しかも、犯人が明確にわからないというような怪事件にぶつかって、単純な田舎の人々が|蒼《あお》くなってふるえあがったのも無理はない。 「中心人物といっても、直記はなにも知っているわけじゃないでしょう」 「それはそうですが、八千代さんをかくしていたというだけでも、十分責任がありますからね」 「しかし、ぼくだって、八千代さんがここにいることは知っていましたよ」 「あなたはしかし、昨夜、こっちへ来てはじめて知ったのでしょう。だから、いくらでもいいぬけの道はある。仙石氏はそういうわけにはいきませんからね」 「それじゃ、だいぶん、しぼられているんですな」 「まあね」  金田一耕助はにこにこわらった。  古神家と仙石家にぞくするすべての人間は、いま|母《おも》|屋《や》のほうに集められて、係官からきびしい取り調べをうけているのである。私ももちろんひととおりの取り調べはうけたが、とくにこの家に深い関係があるわけでもなく、また、昨夜こっちへ来たばかりだというので、係官の関心もうすく、ひととおりの|身《み》|許《もと》しらべがおわると、離れで待機しているようにと命じられたのであった。 「どうです、屋代さん、私はこれからもう一度、竜王の滝へ出向いていって、あのへんを調べてみようと思うんですが、あなたも御一緒においでになりませんか」 「ぼくも……だって、ぼくは足止めを|喰《く》っているんですから……」 「大丈夫ですよ。私からよくいってありますから。係官も承知しているんですよ。私はね、あなたのような助手が欲しいのです」  私はおどろいて金田一耕助の顔を見直した。金田一耕助はにこにこしながら、 「あっはっは、あなたはまだこの私を、どういう人間だか御存じないようですね。私はね、仙石氏……と、いってもお父さんのほうですが、仙石鉄之進の依頼をうけて、この事件の調査に来たんですよ」  私はいよいよ驚いて、相手の顔を見直した。 「この事件の調査ですって? するとあなたは……」 「そうですよ。私立探偵——みたいなもんですな、つまり、——いたってヘボではありますがね。あっはっはっ」  と、金田一耕助はいかにもうれしそうに、頭のうえの|雀《すずめ》の巣を、ガリガリと|掻《か》きまわした。  私は|呆《あき》れて、しばらくは口も|利《き》けなかった。この男が私立探偵……? このもじゃもじゃ頭の|風《ふう》|采《さい》のあがらぬ、貧相な|吃《ども》り男が私立探偵とは! いや、人はどんな職業を選ぼうとも勝手である。だから、この男が自ら私立探偵を志して、失敗しようと、成功しようと、それはこの男の御随意だが、こんな人物に事件を依頼した仙石の|親《おや》|爺《じ》は、すこし頭がどうかしているのではないかと疑われた。  私は大いに相手にたいして|軽《けい》|蔑《べつ》をかんじたが、また同時に、ひとつお手並み拝見という、好奇心もわいて来た。 「そうですか。いや、そうでしたか。これは失礼しました。ぼくのようなものでも、助手にしていただければ、こんな光栄なことはありません。なんでもひとつ御用命下さい」  私がこう下手に出ると、吃り探偵め、すっかり有頂天になって、 「いや、ああ、ア、あなたに、ソ、そうおっしゃっていただくと有難いです。ナ、なんといっても、あなたはこの事件の最初からの関係者でいらっしゃる。それでいて、あなたは局外者である。おまけにあなたは作家……それも探偵小説作家だから、おのずから、余人とは観察がちがっていると思う。私もこんなよい助手をえられて、アア、有難いです」  なに、いってやがんだいと内心のおかしさをおさえながら、それでも口だけは|鹿《しか》|爪《つめ》らしく、 「いや、お役に立てるかどうかわかりませんが、せいぜい努力してみることにいたします。それではそろそろ出掛けようじゃありませんか」  昨夜の大雷雨はなごりなくおさまって、今日は青葉ごろのすがすがしい上天気だった。くっきりと晴れわたった空のブリューと、もえるような樹々のグリーンが相映じて、鬼首村の背後の山は、すばらしい景観をつくっている。昨夜と同じみちを|辿《たど》りながら、あの大雷雨中に目撃した、さまざまな|戦《せん》|慄《りつ》的光景を思い出しても、私には一場の悪夢としか考えられなかった。  竜王の滝へつくまで、私は金田一耕助とどのような話をしたかをおぼえていない。  さっき、あたまにひらめいた、あの恐ろしい考えのために、私は悪酒に酔うたような気持ちだった。それに旅行の疲れと、昨夜の経験のために、私はひどく|昂《こう》|奮《ふん》していた。人間は昂奮するとおしゃべりになる。  私はほとんど立てつづけに、ひとりでべらべらしゃべっていた。おそらくそのうちには、さっきのあの恐ろしい疑惑もまじっていたことだろう。  金田一耕助はひどく感服して、私の顔を見直した。 「なるほど、それは恐ろしい考えですね。しかし……いや、なるほど、なるほど、いまのあなたのお説のなかにこそ、この事件を解く真実の|鍵《かぎ》があるのかも知れません。いや、あなたのような明敏なかたを助手にして、私もこんな幸福なことはありません……」  と、金田一耕助はもったいぶった調子でいった。  竜王の滝の付近には、たくさんのお巡りさんや私服が右往左往していた。そして、押しよせる野次馬をおっぱらうのに大変だった。  金田一耕助は、あんな大きなことをいっていたが、ひょっとすると、そこらの野次馬同様、おっぱらわれるのではなかろうかと思っていたが、どうしてどうして、警官たちのかれに対する態度は、|慇《いん》|懃《ぎん》丁寧を極めていた。これには私も驚くと同時に、この|吃《ども》り男を見直さずにはいられなかった。 「何か新しい発見がありましたか」  耕助が警部補らしい男をつかまえて|訊《たず》ねると、 「はあ、実はさっき妙なものが見付かりましてねえ。ちょっとこちらへ来てください」  警部補が案内したのは、竜王の滝の|上《かみ》|手《て》にある、あの|谿流《けいりゅう》のほうである。警部補は谿流のなかに突き出している岩から岩へとわたりながら、私たちをずんずん上手へつれていった。  昨夜も私たちは八千代さんを求めて、この谿流のほとりをさまよったのである。しかし、夜と昼とでは、景色も感じもすっかりちがっていた。私は物珍しげに、あたりの景色を眺めながら、無言のまま警部補のあとからついていった。  昨夜の雨で、谿流にはおそろしく|水《みず》|嵩《かさ》がふえ、岩をかんでとうとうと流れている。谿流をはさんで迫る左右の|断《だん》|崖《がい》には、緑のいろがしたたるばかり、その緑の奥から、|藪鶯《やぶうぐいす》のさえずりがしきりだった。  滝から小半丁ほどのぼったところで、警部補はふと足をとめた。 「ほら、これですがね」  警部補の指さすところを見ると、右岸の断崖の根元に、|辛《かろ》うじて人ひとり、立って入れるくらいの|洞《ほら》|穴《あな》がある。昨夜も私はこのへんをうろついた|筈《はず》なのだが、暗かったので気がつかなかった。 「これが……?」 「ひとつ、なかへ入ってみましょう」  警部補はさきに立って洞穴へ入った。金田一耕助のあとから私もつづいた。  なかへ入ってみると案外ひろくて、一間ほど進むと、畳三畳しけるくらいの空洞になっている。警部補は懐中電燈でその洞穴の床を照らしながら、 「ほら、あれを御覧なさい」  懐中電燈の光のさきへ眼をやったとたん、私は思わず息をのんだ。  じめじめと湿った土に、ぐっしょりとしみこんだ黒い汚点……いうまでもなく|血《ち》|糊《のり》なのだ。  金田一耕助も眼を|瞠《みは》って、 「なるほど、すると犯行は、この洞穴のなかで行なわれたのですね」 「だろうと思われますね。いや、犯行は外で行なわれたとしても、少なくとも|首《くび》|斬《き》り作業だけは、この洞穴のなかでやったにちがいありませんよ。ほら、御覧なさい。あの刀を……」  警部補が移動させた懐中電燈の光のなかに、ピカリと浮き出したのは日本刀だ。むろん、ぐっしょり血にぬれている。 「なるほど、すると、首をここで斬りおとして、胴だけを滝へもっていって捨てたのですね」  私がそういうと、金田一耕助はゆっくり首を左右にふりながら、 「いや、そうじゃありますまい。そんなことをすると、犯人の|衣裳《いしょう》も血だらけになる。犯人はね、胴をひきずって出て、まえの谿流へ投げこんだのですよ。だから、本来ならば|屍《し》|体《たい》はこのへんにあるべきだったのですが、何しろ、昨夜はものすごい水勢でしたからね、それに押されて滝まで持っていかれたのです。あなたはごらんにならなかったから御存じないでしょうが、屍体には恐ろしい骨折やかすり傷がいちめんにあるんですよ」  金田一耕助が説明した。 「ところで、まだほかに何か……」 「あるんですよ。しかも、それが非常に興味のあるしろものなのです」  警部補はまた懐中電燈の光を移動させた。金田一耕助も私も、思わず|眉《まゆ》をひそめた。 「なんですか。それは……」 「手にとって御覧なさい。面白いですよ」  金田一耕助はふしぎそうに拾いあげたが、そのとたん、私は思わずあっと叫んだ。  それは真っ黒なインバネスとズボン、ほかにつばの広い帽子がある。それからさらにもっと奇妙なのは、小さな|笊《ざる》のようなものである。その笊には二本の|紐《ひも》がついている。 「佝僂の|瘤《こぶ》!」  思わずそう口走った私の顔を、金田一耕助はびっくりしたように振り返ったが、すぐうなずき、 「そうだ。それにちがいない。このインバにズボン、そしてこの笊……私たちが昨夜、稲妻の一瞬に目撃した、あの佝僂男は蜂屋小市ではなかったのだ。誰かがこれらの衣裳で、蜂屋小市に、|扮《ふん》|装《そう》していたのだ」  なんともいえぬ恐ろしさが、足下からチリチリと|這《は》いあがって来る。私はそれをふりはらうように、足の位置をおきかえたが、そのとき何やら、カチャリと靴の|爪《つま》|先《さき》にあたったものがある。  拾いあげてみるとコムパクトであった。 「おや、それはなんですか」  警部補も、それにはいままで気がついていなかったらしい。びっくりしたように、私の|掌《てのひら》をのぞきこんだ。 「コムパクトですよ。土のなかに埋まっていたんです」 「被害者のものでしょうか」 「まさか……」  私は思わずかるく笑った。 「八千代さんは昨夜、寝間着のままとびだしたのですよ。コムパクトなど持っている|筈《はず》がない。誰かほかの女が……」  私はそこで思わず言葉を切った。そして、ギョッとして金田一耕助と顔を見合わせた。ああ、私のあの恐ろしい疑惑はあたっていたのではなかろうか。そしてここにひとり、新たなる女性の登場人物があったのではあるまいか。しかし、それは誰だろう。……     第四章 もう一人の女      もう一人の女  佝僂の|瘤《こぶ》とコムパクト——ああ、これはどういうことなのだ。  誰かがあの奇妙な|笊《ざる》を背負って、佝僂に化けていたことは、いまやもう疑いの余地はない。しかし、それはいったい誰なのか。  この事件の最初からの関係者は、いまぜんぶ鬼首村にあつまっている。しかし、それかといって、それらの人物のなかに、昨夜、あの際どい瞬間に、佝僂に|扮《ふん》|装《そう》するチャンスを持ちえたと思われるような人間はひとりだってありそうに思われぬ。  あの稲妻の|一《いっ》|閃《せん》のうちに、佝僂のすがたを目撃したとき直記は私といっしょだった。したがって、あの男はまず第一に、この恐ろしい容疑から除外されねばならぬ。これを逆にいうと、直記によって、私自身のアリバイも立証することができるわけだ。しかも、何よりも有難いことには、私たちのすぐあとから追っかけてきて、同時に、あの|巌《がん》|頭《とう》の佝僂を目撃した、金田一耕助が誰よりもそのことをよく知っている筈なのだ。  では、直記のおやじの鉄之進、お柳さま、|四《よ》|方《も》|太《た》、お藤それらのひとびとはどうであろうか。ひょっとすると、かれらのうちの誰かが、われわれよりさきに屋敷をぬけ出して変装し、八千代さんを待ち伏せていたのではあるまいか。いや、しかしこの想像は不合理である。なぜならば、八千代さんが昨夜、夢遊病の発作を起こそうなどとは誰が知ろう。ましてや、竜王の滝へ出向くであろうなどと予測することは、誰にだって不可能なのだ。  では、八千代さんのぬけ出すのをみて、誰かがあとをつけたのだろうか。いや、この場合だって、可能性がうすそうに思われる。なぜならば、そういうことがあったならば直記や私に、気がついていなければならぬ筈なのだ。私たちはあのすさまじい稲妻のひらめきのなかに、いくどか八千代さんのすがたを目撃した。もし、八千代さんと私たちのあいだに、何者かが介在していたら、当然そのすがたは私たちの眼にうつらなければならぬ筈なのだ。  いやいや、こんなふうに|廻《まわ》りくどく考えるまでもないことだ。昨夜のような|大嵐《おおあらし》のなかを、竜王の滝まで往復すれば、きっとあとでわかる筈だ。それが問題にならないところをみると、昨夜、屋敷をぬけ出したものは、われわれ以外にないと見なければならぬ。  それでは、昨夜のあの佝僂はいったい誰だったのか。  やっぱり蜂屋小市だったのか。  そうだ、蜂屋が真実佝僂であったかどうかは、一時、世間でも問題になったことがある。ひょっとすると、あれは戦後の異常な好尚に投じるための、一種の|擬《ぎ》|装《そう》だったのではないかと取り|沙《ざ》|汰《た》された。  してみると、あの|洞《どう》|窟《くつ》のなかに残された笊こそ、蜂屋の擬装のタネだったのか。  しかし、それではどうも私は納得がいきかねた。蜂屋の佝僂が擬装であったとすれば、かれはあくまでその擬装を真実らしくみせかけなければならないのではないか。そうしてこそ、佝僂でない蜂屋は、世間の眼をくぐって生きていくことができるのだ。それに第一、あの笊はあんまりお手軽にすぎる。蜂屋の佝僂が擬装であったとしても、擬装のタネは、あのような、お手軽な|代《しろ》|物《もの》であったとは思われぬ。  ああ、わからない。昨夜の佝僂はいったい誰だったのか。…… 「は、は、は、あなたにはそれがわからないのですか」  耳のそばでささやく言葉に、私の空想はハタととぎれた。私はあまりの驚きに、文字どおりとびあがった。気がつくと、私といっしょに金田一耕助が歩いている。  そうだったのだ。私はそのとき、金田一耕助とふたりであの恐ろしい洞窟から、さらに|谿流《けいりゅう》をさかのぼり、山越しに、隣村なる足長村へおもむく途中だったのだ。  足長村——金田一耕助はそこにどのような用事をひかえているのか知らないけれど、かれが足長村へいこうといい出したとき、すぐ私の頭にうかんだのは、海勝院という|尼《あま》|寺《でら》のことだった。直記はその尼寺について、何か私にかくしていることがある。私はいつか、足長村へ出向いていって海勝院の妙照という尼にあい、そのことをきいてみたいと思っていたところなのだから、洞窟のなかで、あの異様な発見をしたのち、金田一耕助が足長村へいこうといいだしたとき、一も二もなく、私は賛成したのである。 「え、え、いま何かおっしゃいましたか」  私がドギマギしてききかえすと、金田一耕助はにこにこしながら、 「いえ、なに、あなたはいま、あの佝僂の|瘤《こぶ》のことを考えていらっしゃったのでしょう。そして、誰があの瘤をつけて、昨夜、佝僂に化けていたのか、それを思い悩んでいたのでしょう。いやいや、別に感服することはありませんよ。それくらいのこと、顔色をみればすぐわかる。それにあなたは考えこむと、無意識のうちに、ひとりごとをいうくせがありますね。あっはっは」  金田一耕助はわだかまりのない声をあげて笑った。私はいくらか|赧《あか》くなって、 「えっ、それじゃ、私、何かしゃべりましたか」 「あっはっは、何も別に、御心配なさるようなことはありませんがね。ときに昨夜のあの佝僂ですが、あれが誰だったか、あなたにはほんとにわからないんですか」 「わかりません。もっとも、あれが蜂屋小市だとしたら話は別ですがね」 「蜂屋小市……?」  金田一耕助は鼻のさきでせせら笑って、 「あなたはまじめに、そんなことを考えているんじゃないでしょうね。蜂屋小市なんてありゃ、かかしも同様の存在じゃありませんか」 「ええ、そういえば私もそんな気がしているんですが、しかし、それだとすれば、昨夜の佝僂は誰だったのか、この事件の関係者で、あの時刻に、あの|巌《がん》|頭《とう》にすがたを現わしえた人間は、ひとりもないように思うのですが……」 「ひとりもない……? ほんとうに……?」  金田一耕助は、大きくみはった眼を、くるくる廻転させながら、私の顔をのぞきこんだ。なんとなくいたずらっぽい眼付きで、それがこの男の魅力であった。  私は思わず息をはずませて、 「じゃ、誰かあるというんですか。誰です、それは……」  金田一耕助はおだやかにほほえんで、 「屋代さん、あなたは盲点にひっかかっているんですよ。なんでもないことなんです。それを盲点の作用で、わざとむつかしくしてしまった。よろしい、それでは私がその盲点を、打ちやぶってあげましょう。昨夜われわれが稲妻の|一《いっ》|閃《せん》で佝僂のすがたを巌頭にみとめたころ、誰かこの事件の関係者で、あの巌頭へたどりついてた人物がある筈ですがねえ」 「だから、誰だときいているんです。そのひとは……?」 「八千代さん」 「なに、八千代さん?」  私は頭のてっぺんから、鋭い|楔《くさび》をぶちこまれたような、大きなショックをかんじずにはいられなかった。私はその場に|釘《くぎ》|付《づ》けになった。肩で大きく息をしながら、焼けつくような眼で金田一耕助をにらみすえた。  金田一耕助は五本の指で、かるく頭の毛をかきまわしながら、 「そうですよ、八千代さんですよ。八千代さんであってはなぜいけないのです。いや、そのことをいい出したのは、むしろあなた御自身じゃありませんか。あの首無し死体は八千代さんではない。八千代さんのパジャマを着ているけれど、誰かほかの女であろう。八千代さんは誰かを自分の身替わりに立て、死んだものとなって、警察の追及からのがれようとしているのだと、そういうことを最初に|仄《ほの》めかしたのはあなた御自身だったじゃありませんか。私はその説に、すっかり感服してるんですよ。なるほど、それ以外に犯人が、あの惨虐な|首《くび》|斬《き》り作業を行なった理由は考えられませんからねえ。ところで、それほど計画的な八千代さんなら、ここに架空の犯人をつくっておくために、われわれに佝僂のすがたを見せておく、それぐらいの知恵はあるだろうじゃありませんか。実際、あのとき私たちが稲妻の一閃のなかに見たのは、すがただけでしたからねえ。顔はてんでわからなかった。それにあの際、八千代さんのすがたの見えなかったのも妙ですよ。つまりあのとき八千代さんは、|闇《やみ》と稲妻を利用して、たくみに一人二役を演じたのですよ」 「しかし、しかし……」  私は|咽《の》|喉《ど》がヒリヒリと、いがらっぽくひりつくのをおぼえた。何かしら、重っ苦しい思いが、ズーンと腹の底を圧するかんじだ。 「それじゃ、あの恐ろしい人殺しや、無残絵のような首斬り作業も、八千代さん自身の仕事だったというんですか」  金田一耕助は、しばらくそれにこたえなかった。まじまじと私の顔を見つめていたが、やがてさきに立ってゆっくり歩きはじめた。 「八千代さんというひとを、ぼくはまだよく知りません。しかし、いろんな話を|綜《そう》|合《ごう》すると、それくらいのこと、やりかねないひとじゃないのですか。それとも……」  金田一耕助はここで言葉を切ると、それきりだまりこんでしまった。私はしばらくあとを待ったが、いつまでたっても言葉がないので、たまりかねて、 「それとも……?」  と、あとをうながしてみた。すると、金田一耕助は私をふりかえり、|皓《しろ》い歯を出してにっと笑うと、 「いや、まあ、あまり先走りするのはよしましょう。これはもっと、よく研究してみなければならん問題だから……おや、どうやら足長村へ来たようですよ」  私たちはいつか峠を越えて、足長村へ踏み込んでいた。みたところ、足長村も鬼首村と、似たりよったりの村で、ただ、ちがっているのは、古神家に|匹《ひっ》|敵《てき》するような、大きなお屋敷のないことだった。  村へ入ると金田一耕助は、野良に働いている人をつかまえて、二言三言、何かきいていたが、やがてにこにこしながら、 「わかりました。こっちだそうです」  と、さきに立ってずんずん歩き出した。そしてやってきたのは、丘の中腹にある、ささやかな|藁《わら》|葺《ぶ》きに、|冠《かぶ》|木《き》|門《もん》のついた家だった。それはふつうの農家にしては|小《こ》|綺《ぎ》|麗《れい》で、どこか茶人めいたつくりが、隠居所というようなものを連想させた。  私は何気なく冠木門の柱にかかった、小さな木札に眼をやったが、そのとたん、思わずギョッと、大きく眼を見張ったのである。  風雨にうたれて黒ずんだ木札のうえには、まぎれもなく『海勝院』の三文字。  ああ、そうだったのか。それでは金田一耕助の用事というのも、この尼寺にあったのか。それにしても、昨夜、こちらへついたばかりだというのに、なんというすばしっこい男であろう。  金田一耕助は私の顔をみると、にこにこ笑いながら、 「ちょっとここの尼さんに、ききたいことがありましてね。そのことは、あなたにとっても、興味のあることだろうと思ったものだから、わざわざついてきていただいたのですよ。さあ、入ってみましょう」  さいわい御院主妙照さんは在宅で、|田舎《い な か》のひととて|心易《こころやす》く、すぐ私たちにあってくれた。それはまぎれもなく、きのう直記をたずねてきていた尼である。 「いや、どうも、突然、お伺いして失礼ですが、実はちょっと御院主様にお|訊《たず》ねしたいことがありまして……申しおくれましたが、ぼくは隣村の仙石鉄之進氏のお招きによって参っている金田一耕助というもの。こちらは仙石氏の子息、直記氏親友で屋代|寅《とら》|太《た》という方。やはり直記氏のお招きで古神家へ遊びに来ていられるかたです」  金田一耕助が名乗りをあげると、尼はまあというように無邪気に眼をみはって、 「古神様といえば、昨夜とんだことがございましたそうで……」 「そうです、そうです。それについて、御院主様にお訊ねしたいのですが、直記氏がここへ預けていかれた女性ですがね、あの方のゆくえはまだわかりませんか」  私はびっくりして、金田一耕助の顔を見直した。  直記がこの尼寺へ女を預けていた……? ああ、それはどういう意味なのだ、そして金田一耕助は、どうしてそれを知っているのだ。私は好奇心で胸がワクワクするおもいで、ふたりの顔を見くらべていた。  尼の妙照さんもちょっと驚いたように、金田一耕助の顔を見守っていたが、 「まあ、あなたはどうしてそのことを御存じですの。|若《わか》|旦《だん》|那《な》はこのことを、絶対に誰にもしゃべってくれるなといっていられたのに……」 「はっはっは、直記君、きまりが悪いもんだから、そんなことをいったんでしょうが、かくすよりはあらわるる、俗に悪事千里を走るといいますからな。あっはっはっ、あれは直記君の恋人なんでしょう」  いかにも人懐っこい金田一耕助の調子に、尼の妙照さんもついつりこまれて、渋いわらいをうかべながら、 「さあ、どうでしょうか。わたしどもにはよくわかりませんが、それはそれは|綺《き》|麗《れい》なかた。でも、お気の毒に、お|頭《つむ》の御様子がすこし悪くて……」  私は思わず金田一耕助と顔を見合わせた。気の狂った女……ああ、それじゃそれは、みどり御殿の洋館の、明かずの窓のなかに押しこめられていた女ではあるまいか。  金田一耕助はけろりとして、 「そうそう、なんでもそんな話でしたね。ところで、あのひと、何んてたっけ。君代さんとか、お雪さんとか、いったと思うが……」 「いいえ、それはちがいます。お静さんとおっしゃいました。苗字はなんとおっしゃるのか存じませんが……」 「ところで御院主さまは、どうしてその人を直記君からあずかることになったのですか。御院主さまはまえから、直記君を御存じなのですか」 「はあ、あの、先年東京へまいりました節、小金井のお屋敷へ|御《ご》|挨《あい》|拶《さつ》にあがって、一週間ほど御厄介になっていたことがあるものですから……それが先月の末でしたか、突然あの方がお見えになって、たくさんの御寄進をくださいましたが、その節、これこれこういう女があるが、しばらく当院にあずかってはもらえないか、なに、気がふれているといっても、至って物静かなほうで、決して迷惑をかけるようなことはないからと、こうおっしゃるのでございます。ふつうの方とちがって、そういう御容態では……と、私も|心許《こころもと》なく存じましたが、過分の御寄進の手前、いやとも申しかねました。するといったん東京へおかえりになって、つれていらしたのがそのかたでございます。ここへお見えになったのは、五月の四日のことでしたろうか、夜おそく、人眼をしのんで……」  わかった、わかった。直記が二度目の帰郷をするとき、私が東京駅まで送るようなそぶりを見せるとひどく|狼《ろう》|狽《ばい》したが、それではそのとき、そういうつれがあったのか。 「それで、そのひとはどうしたんです。お静さんというひとは……」 「さあ、それが困ったことに、ひと晩ここにいられたきりで、そのつぎの夕方、私がちょっと他出しているあいだにどっかへいってしまわれたのです。聞くところによると、なんでもその晩、それらしい女のひとが、佝僂のような男と、裏山へ入っていくのを見たものがあるということで、それで私もおどろいて、昨日もそのことを直記さんに|報《し》らせにいったのでございます」  金田一耕助は、しばらく黙ってかんがえていたが、やがてふところから何やら取り出すと、 「御院主さま、あなた、これは見覚えはありませんか」  パッとひらいた|掌《てのひら》に、のっかっているのは、さっき|洞《どう》|窟《くつ》で発見したコムパクト。妙照さんはひと眼それを見ると、 「あっ、そ、それはお静さんのコムパクト……」  それを聞いたとたん、私はなんともいえぬ恐ろしさが、背筋をつらぬいて走るのを感じたのだ。      お藤の告白  足長村からかえってくると、直記はやっと|訊《じん》|問《もん》から解放されたらしく、離れ家で私のかえりを待っていたが、ひどく不機嫌な顔色で、 「|寅《とら》さん、君はいったい、どこへいってたんだい」  |噛《か》みつきそうな調子だった。  係官にだいぶしぼられたらしく、|蒼《あお》|黒《ぐろ》い顔にギタギタ|脂《あぶら》がういて、|瞳《め》が異様にうわずっている。私はなんだかその顔を、正視するに耐えなかった。  ひょっとすると私はいままで、この男をあまり甘く見過ぎていたのではあるまいか。悪党がりで毒舌家で、わざとひとの心をきずつけて、喜んでいるようなところはあるが、根はいたって|臆病《おくびょう》で、小心翼々たる男——そんなふうに私はかんがえていたのだが、それは私の間違いではなかったか。この男こそ、世にも恐ろしい、|奸《かん》|智《ち》に|長《た》けた大悪人ではないだろうか。 「おい、寅さん、なんとかいえよ。君はいったいどこへいってたんだい」  直記はいらいらした調子で、ふたたび私をきめつけた。 「ああ、ふむ、金田一耕助という男に誘われて、ちょっと現場を見てきたんだ」 「金田一耕助……? 寅さん、いったいあの男はどういう人間なんだい」 「私立探偵だって話だよ。自らそう名乗っていた」 「私立探偵……」  直記は大きく眼玉をひんむいたが、急に大口ひらいてカラカラ笑い出した。いかにも毒々しい笑いかただ。 「あの男が私立探偵……あの、もじゃもじゃ頭の、貧相などもり男が……? 寅さん、そりゃ冗談だろう」 「いゃ、冗談じゃない。あれで相当なもんらしいぜ。警部補なんかもね、非常に敬意をはらっているんだ。それになかなか鋭いところもある」 「バカをいっちゃいけない。あんなやつに何ができるもんか。しかし……ああ、そうか、ふうむ」  直記は戸棚からウイスキーを取り出すと、ふたつのグラスになみなみついで、 「おい、寅さん、飲めよ」 「いや、ぼくはいらん、飲みたくない」 「どうしたんだ。いやに考えこみやがったな。よし、いやならよせ」  直記はひとりで、ぐいぐいウイスキーを|呷《あお》りながら、 「しかし、そうするとおやじがあいつを呼んだ理由もわかるな、おやじはどこからききこんだのか知らんが、するとあれでも相当の|腕《うで》|利《き》きかな。人は見かけによらぬものということもあるからなあ」  直記はそこでまた、毒々しい笑い声をあげると、 「ところで、寅さん、現場でなにか新しい発見でもあったのかい」 「ふむ、妙なものが見付かったんだよ」 「妙なものって?」  そこで私は佝僂の|瘤《こぶ》と、コムパクトのことを語ってきかせた。話しながら私は、直記の顔から眼をはなさなかった。 「佝僂の瘤とコムパクト……?」  直記はしぼり出すような声で叫ぶと、恐ろしい眼をして私をにらみつけた。いまにも、とび出しそうな眼つきだった。 「コ、コ、コムパクトって、い、いったいどんなコムパクトだ」  私はコムパクトの形状を説明すると、 「仙石、君なにかそんなコムパクトに|憶《おぼ》えがあるのかい」  直記はあわてて眼をそらした。|咽喉仏《のどぼとけ》がグリグリおどって、額からツルリとひとしずく、汗が|頬《ほお》にながれ落ちた。直記は急いでウイスキー・グラスを口へ持っていくと、 「知らん、知らん、おれは何も知らん、だいいちおれが知ってる|筈《はず》がないじゃないか」  駄々ッ児のようにいって、ぐっとウイスキーをひといきに呷ると、 「ところで、金田一耕助という男は、それについてなんといってるんだ」 「さあ、別に……ああいう連中は妙に自分の考えをかくしたがるものだからね。ぼくにはあの男が、何を考えているのか、さっぱりわからなかった」  金田一耕助は私に、佝僂の瘤とコムパクトの発見については、ひとに語ってもかまわないが、それ以上のことは、当分誰にもしゃべらないようにと、固く口止めしたのである。  直記は疑わしそうに私の顔をみていたが、何かしらこみあげてくる不安と闘おうとするかのように、やたらにウイスキーをつぐ手がわなわなふるえて、惜気もなくちゃぶ台のうえにこぼした。  |平将門《たいらのまさかど》ではないが、こういう様子をみると、とてもこの男に、大事が決行できようとは思われぬ。しかし、事実はすべて、この男を指しているのだ。ああ、この|謎《なぞ》を、いったいどう解くべきであろうか。 「おい、寅さん」  直記は咽喉のおくで、|痰《たん》をきるような音をさせた。そして、何かいおうとした。  だが、そのときである。風のように部屋のなかへとびこんできたかと思うと、いきなりわっと、畳のうえに泣き伏したものがある。お藤であった。 「|若《わか》|旦《だん》|那《な》様。すみません、すみません。許して下さい。許して下さい」  お藤は肩をふるわせて泣いている。私たちは|唖《あ》|然《ぜん》として顔を見合わせた。 「お藤どうしたのだ。許してくれって、いったい、おまえ何をしでかしたのだ」  直記はいささか、毒気をぬかれたような顔色だった。 「はい、わたし、悪いことをいたしました。いままで|嘘《うそ》をついていたんです」  お藤はそこでまた、|袂《たもと》をかんで、泣き出した。何かしら、ひどくヒステリーを起こしているらしい。 「嘘をついていた? どんな嘘をついていたというんだ。おい、お藤、泣いていたんじゃ話はわからん。はっきりいいなさい。どんな嘘をついていたんだ」  極めつけられて、お藤はやっと泣きやんだ。ヒステリーの療法はこれに限るのだ、甘やかせるといよいよ|昂《こう》じる。一喝|喰《く》らわせるのに限るのである。 「はい、あの……|守《もり》|衛《え》さまがお亡くなりになったときのことですの」 「なに、守衛さんが死んだとき……?」  私たちは思わず顔を見合わせた。お藤はいったい、何を知っているのだろう。 「お藤さん、さあ、もう泣かないで、話してごらん。あのとき、君はどんな嘘をついたの」 「はい、何もかも申し上げてしまいます。小金井のお屋敷であの恐ろしい人殺しがあったまえの晩、蜂屋様のお部屋のまえで、わたし、あなたがたに見とがめられたことがございましたねえ」 「うん、うん、あった。ちょうど十二時ごろのことだったな」 「そうでした。十二時ちょっとすぎでした。あのとき、若旦那から、お藤なにをしていると|叱《しか》られて、わたし、とっさに嘘をついたんです」 「嘘を……?」 「はい、わたしあのとき、蜂屋さまから電話がかかって、おひやを持ってきたようにいいましたが、あれは嘘でした。実は……」  と、お藤は|頸《くび》|筋《すじ》まで|真《ま》っ|赧《か》にそめて、うじうじと袂をいじりながら、 「まえからのお約束で、そっと忍んでいったんです。十二時になったら、やって来いとの、蜂屋様のお言葉でしたから……」  私と直記は、ギョッとしたように眼を見交わした。直記は|俄《にわ》かにからだを乗り出すと、 「お藤、それじゃおまえ、蜂屋と……なにかあったのかい」 「はい……」  お藤は消えいりそうな声で、 「はじめは無理矢理だったんです。きっとお嬢さまが、思うとおりにならなかったので、その腹癒せに、わたくしを|弄《なぶ》りものにしようとしたのでしょう。でも……」 「でも……?」  と、直記はわざとらしく|訊《き》き返すと、毒々しく鼻のさきでせせら笑って、 「はじめは無理矢理に|手《て》|籠《ご》めにされたが、いったん味をおぼえると、おまえのほうが夢中になったというわけか。ちっ、女というやつぁ、どいつもこいつも、さかりのついた猫みたいな動物だな」  お藤はさすがにムッとしたらしく、白い眼をして直記をにらんでいたが、やがて沈んだ声で、 「それはもう、なんとおっしゃられても仕方がありませんわ。でも、わたしにとっては蜂屋様は、いとしいひとでした。それであの晩も、お部屋へしのんでいって、ドアをあけて入ろうとするところを、あなたがたに見とがめられたんです」  私ははじめて、お藤の言葉に興味を催した。 「お藤さん」  と、からだを乗り出して、 「それじゃ、君はあのとき、蜂屋の部屋から出てきたところじゃなかったのかい」 「はい、それだからお許し下さいと申し上げているんですわ。あのとき、わたし、ドアをあけた瞬間でした。そこへあなたがたの足音がきこえたので、とっさにうしろ手にドアを持って、いま出てきたところだというようなふうをしたんです」 「それじゃ、蜂屋がうとうとしていたから|枕元《まくらもと》に水をおいてきたといったのは……」 「嘘でした。わたし、ドアをあけたばかりで、ろくろく、なかを見るひまもありませんでしたから、あのとき、蜂屋様がお部屋にいらっしゃったかいらっしゃらなかったか、それすらまるで存じません」 「でも、翌朝、蜂屋の部屋をしらべたとき枕元に水瓶とコップがあったじゃないか」 「はい、あれは、翌朝、嘘がばれてはならぬと思って、こっそり持っていっておいたんです。それですから、十二時ごろわたしが蜂屋様のお部屋へしのんでいったとき、あのかたが、お部屋にいたかどうかわかりません。それだのにあなたさまに、つい嘘をいったものですから、あとでお巡りさんのお取り調べがあったときも、蜂屋様は十二時ごろには、たしかにまだ生きていた。お部屋ですやすやおやすみでしたと申し上げてしまいました。しかし、それもみんな嘘でございます」  私はまた直記と顔を見合わせた。 「お藤さん」  私はからだを乗り出して、 「それにしても、君はまた、なんだっていまになって、そんなことをわれわれに告白する気になったんだい」 「はい、それは……向こうにいらっしゃるかたが、あなたがたにも正直に白状してこいとおっしゃって……」 「向こうにいらっしゃるかたって?」 「金田一さまとおっしゃるかた。あのひとは|怖《こわ》い人です。ちゃんとわたしの嘘を見破っていて、とうとう白状させたのです」  直記と私はまた、意味ふかい眼と眼を見交わした。何かしら無気味なおもいが、ぐうんと下っ腹を圧迫するかんじである。  お藤はそこで、急に顔をあげると、何かしら、ギラギラと|脂《あぶら》のういたような眼で、私たちを見くらべながら、 「なお、ついでにもうひとつ白状します。小金井のお屋敷の、離れ家で見付かった首無し死体……あれは、たしかに蜂屋様でした。ええ、もう、それは間違いございません。たとえ、わずかのあいだでも、可愛がっていただいたかたですもの。首がなくともよくわかります。蜂屋様はわたしを抱いてくださるとき、いつも、なにひとつかくすところなく真っ裸になって……」  さすがにそのあとは|口《くち》|籠《ごも》ったが、それでもまた、きっと|眉《まゆ》をあげると、 「それですから、蜂屋様のからだなら、すみからすみまで存じていました。どんな小さな特徴でも、|宙《そら》でおぼえておりました。だから、間違いはございません。離れ家の死体はたしかに蜂屋様でした」 「しかし……、しかし……」  直記が|喘《あえ》ぐように叫んだ。何んともいえぬ恐ろしい|想《おも》いに、直記の額にはびっしょりと汗がふき出していた。 「首は……首は……守衛さんの首だったじゃないか」 「そうでした。それですから、殺されたのはおひとりではないのです。蜂屋さんも守衛さんも、お二人とも殺されたんです」  ああ、なんということだ。それではあの首と胴とは、同じ人間ではなかったのか。それにしても、なんという恐ろしいことだろう。蜂屋は胴だけ発見され、守衛さんは首だけが発見されている。そして、ふたりの人間の胴と首をよせ集めて、いままでわれわれは、ひとりの人間を作りあげていたのだ。いったい、蜂屋の首と、守衛さんの胴はどこへいったのか。  直記も私も、しばらくは、口を|利《き》くことすらできなかった。はじめから|凄《せい》|惨《さん》極まるこの事件は、ここにいたって、言語に絶する凄惨な色彩をおびてきたのである。  私はしばらく、真っ暗な夢魔のなかを喘ぎ喘ぎ泳いでいたが、やがて、やっと気を取りなおして、 「お藤さん、それじゃ、蜂屋の佝僂は本物だったのだね」 「むろん、本物でした。わたしはあの|瘤《こぶ》がいとしくてよく|撫《な》でたり、|頬《ほお》ずりしたものです。感極まったときには、夢中でその瘤に武者ぶりついたものでした。蜂屋様もそれをおよろこびになって……いままでいろんな女と関係したが、この瘤を見せたのはおまえだけだとおっしゃって。……」  お藤は顔をあからめずに、キッパリとこう断言したのである。      恐るべき錯誤  お藤の告白によって、事態は、すっかりひっくりかえった。  むろん、昨夜の惨劇の直前に、われわれの目撃した佝僂というのが、金田一耕助のいうとおり、八千代さんの仮装にほかならなかったとすれば、昨夜の事件に蜂屋小市が関係していたかどうかは疑問であると、お藤の告白をきくまえから、私は内心考えていたのである。  いや、疑問どころか、蜂屋は関係していないと、考えるほうが至当であると思われた。  なぜならば、佝僂の蜂屋が関係しているとすれば、できるだけ、佝僂のすがたを見られないようにするのが本当である。それにもかかわらず、八千代さんにしろ誰にしろ、あのような|笊《ざる》をもって、佝僂に仮装し、わざわざそのすがたをわれわれに見せびらかすがごとき振舞いに出たのは、とりも直さず、蜂屋に罪を転嫁するためであり、そのことを逆に考えると、昨夜の事件に、蜂屋は関係なかったということになるのである。  しかし、おお、いまはもう、そんな七面倒な三段論法を持ち出すまでもないことなのだ。お藤の告白によると、小金井にある古神家の離れから発見された、あの首無し死体はまぎれもなく蜂屋そのひとであったという。即ち蜂屋は、あの日から、すでにこの世にないひとだったのだ。その蜂屋がどうして昨夜の事件に関係することができようか。  だが、……そうなると、これはいったい、どういうことになるのだ。昨夜の事件は、それでは万事、八千代さんひとりによって|企《たくら》まれ、実行されたのであろうか。いや、いや、いや、それはあまりにも恐ろしいことだ。八千代さんのようなかよわい女の手によって、死体の首を|斬《き》りはなす、そのような恐ろしい作業が可能であろうか。  いや、いまかりに、すべての感傷をふり捨てて物事を唯物的にのみ考えてみよう。八千代さんをかりに、いかなる悪魔も及ばぬほどの冷血無残な人物として、もう一度、果たして彼女が単独で、あのような血みどろの殺人劇を、演出することができるかどうか考えてみよう。……  やっぱりそれは不可能なようだ。  八千代さんはいかにして、隣村の尼寺にじぶんと年齢、身長、肉付きの非常によくにた女が、かくまわれているということを知ることができたのか。いや、かりに、なにかの偶然で、それを知り得たとしても、どうしてあんなにうまく、あの時刻に、しかもあの豪雨のなかを、竜王の滝のような|淋《さび》しい場所へ、おびき出すことができたのだ。  それにはやはり共犯者が必要であるように思われる。そして、その共犯者とは、つぎのような条件を具備している人物にちがいない。  まず第一に、隣村の海勝院に、八千代さんと同じ|年《とし》|頃《ごろ》の娘がかくまわれているということを知っている人物、そしてその人物は、八千代さんとその娘——お静という女が非常によく似たからだつきであることを知っている。と、いうことはその人物は、八千代さんとお静の肉体を、両方とも熟知していることになる。  そして第二に、その人物は、お静という女に対して、非常に大きな影響力をもっていること。なぜならば、お静という女は、あの豪雨のなかをもいとわずに、その人物の命令とあらば、あの時に、竜王の滝へやって来たのだから。……  以上二つの条件を具備している人物……そこまで考えて来たとき、私は突然、太い|楔《くさび》を脳天からぶちこまれたような大きな驚きにうたれた。鋭い|戦《せん》|慄《りつ》が、背筋をつらぬいてあとからあとからと、|這《は》いあがるのを禁じえなかった。  ああ、いま言ったふたつの条件を完全にそなえている人物を、私はよく知っている。その人物の名は……言えない! 私には言えない! それは……あまりにも恐ろしいことではないか。  その夜ひと晩、私はあまりの恐ろしさに|懊《おう》|悩《のう》しつくし、|輾《てん》|転《てん》|反《はん》|側《そく》して、一睡もすることができなかった。私はいまにも障子があいて、その人物がギラギラするようなダンビラをさげて、躍りこんでくるのではあるまいかと、風の音にも、ひやりと|胆《きも》をひやしたことであった。ああ、話にきく|安《あ》|達《だち》|ヶ《が》|原《はら》の黒塚の、ひとつ家に宿を求めた旅人とても、その夜の私ほど、深刻な悲痛を味わいはしなかったであろう。  しかし、幸い、その夜は何事もなく明けた。私は東が白むのを待って、やっと安心してとろとろまどろんだが、眼がさめるともう正午ちかかった。 「どうしたんだい。いやに寝坊をしたじゃないか。昨夜、よく眠れなかったと見えるな。意気地のないやつだ。あっはっは!」  洗面所へいくと、いきなり直記からそう浴びせかけられたが、そういう直記自身、いま起きたばかりと見えて、歯をみがいているところだった。かれもまた、昨夜よく眠れなかったと見えて血走った眼をギラギラさせている。私はしかし、その顔を正視するのが恐ろしかった。 「うん、あんまり恐ろしいことがつづくものだから、ぼくも少し頭が変になった。直記、君はよく眠れたかい」 「よく眠ったか眠れなかったか、このツラを見たらわかるだろう。意気地のないのはお互いさまだ。おれゃアもう、誰も信用出来なくなったよ」  直記はそういって、ギラギラと血走った眼で私を|視《み》|詰《つ》めていたが、やがて声を落とすと、 「おい、|寅《とら》さん、今朝またひとり、新しいお客さんがやって来たそうだぜ」 「新しいお客さん?」 「うん、|磯《いそ》|川《かわ》警部といって、県でも|古狸《ふるだぬき》の有名な|腕《うで》|利《き》きだそうだ。事件があまり大きくなったので、|田舎《い な か》の警察では手に負えぬと見て、県の警察本部から出張して来たらしい。やれやれ、これでまた今日も一日、質問攻めだぜ。やりきれねえよ、まったく」  直記は口中を歯磨き粉だらけにしながら、相変わらず毒々しい口の利きかただが、なんとなくその調子には元気がなく、気のせいか語尾がふるえているように思われた。 「そりゃア、そうだろう、これだけの大事件だから、地方警察だけじゃアね。しかし県からそんな腕利きがやって来たとすると、金田一耕助という男は、どうなるのだろう」 「金田一耕助……? あっはっは、あの|吃《ども》り探偵かい。なアにあいつはこれで御払い箱よ。きまってらアな。古狸ともいわれるほどの腕利き警部が、あんな貧弱な吃り男を相手にするものか」  直記は小気味よげにせせら笑ったが、驚いたことに、直記のその予想は、まんまと外れていたのである。私たちはそれから間もなく、朝飯とも昼飯ともつかぬ食事をすませたが、そこへお藤が顔を出して、|母《おも》|屋《や》のほうへちょっと来て下さるようにとの、金田一耕助の口上をつたえた。  私たちは来たなと顔を見合わせたが、いなむべき筋合いではないので、直記といっしょに出向いてみると、なんと驚いたことに、ひと眼で警部としれる男が、金田一耕助といかにも親しげに話をしているところであった。警部の金田一耕助に対する態度には、親しさを通り越して、一種|畏《い》|敬《けい》の念さえほの見えるようであった。  直記と私は眼をみはって、思わず顔を見合わせたことである。  金田一耕助は私たちのすがたを見ると、例によってにこにこと、人懐っこい微笑をうかべながら、 「や、どうも、お呼び立てしてすみません。皆さん、お|揃《そろ》いになっているものですから、あまりお待たせするのもお気の毒と思って、おせかせしたような次第でして……ああ、お藤さん、君もここにいて下さい」  なるほど、そこには直記の|親《おや》|爺《じ》の鉄之進もいる。お柳さまもいる。|四《よ》|方《も》|太《た》もいる。それから|守《もり》|衛《え》の乳母のお喜多婆アもいる。私たちふたりとお藤を加えて、だいたいこれで事件の関係者はそろったわけだ。  金田一耕助はにこにこと一座を|見《み》|廻《まわ》しながら、 「こうして、皆さんにお集まりを願ったのはほかでもありません。お藤さんの新らしい供述を基礎として、もう一度この事件を最初から、検討しなおしてみようと思うのですが、そのまえに御紹介しておきましょう。こちらにいられるのは磯川警部、県の警察本部から来られたのですが、私とは旧いお|馴《な》|染《じ》みで……警部さん、こちらにいられるのが直記さん、仙石氏の御令息です。それからこちらは屋代|寅《とら》|太《た》さん、直記さんの御親友で、探偵小説をお書きになるのを、御職業としていられるかたです」  直記と私はあわてて頭をさげると、それからまた顔を見合わせた。磯川警部もかるく頭をさげると、探るようにちらと私たちの顔を見たが、すぐその視線をそらせると、そっぽを向いてしまった。なんとなく気になる態度だった。  こうして、警部と私たちの初対面の|挨《あい》|拶《さつ》がおわると、金田一耕助はにこにこと一同の顔を見廻しながら、 「さて、この会合の司会者ですが、これは当然、警部さんがつとめるべきところ、自分はまだ顔を出したばかりで、事情がよくわからぬと|御《ご》|謙《けん》|遜《そん》なさるので、|僭《せん》|越《えつ》ながら、私がつとめさせていただきます。ところで、皆さんは、昨日のお藤さんの告白を、お聞きになっていられるでしょうね」  私たちがくらい顔をして|頷《うなず》いたときだった。突然、横合いからキイキイ声をはりあげたものがあった。お喜多婆アであった。 「わたしはまえからいっていたのじゃ。あの佝僂の絵描きは、単なるコケおどしのデクの棒に過ぎんと。……やっぱり、そうであったろうがな。あの絵描きは、とうの昔に殺されていたのじゃ、だから、あいつが守衛さんを殺したという法はない。守衛さんを殺したのは、おまえさんと……」  と、お喜多婆アは鉄之進を指さし、 「おまえさんと……」  と、つぎにお柳さまを指し、 「おまえさんの三人じゃ……」  と、最後にきっと、節くれ立った指で、直記の顔を真正面から指さした。  お喜多が三人を|譴《けん》|責《せき》し、告発したのはこれで三度目である。そして、そのたびに私は何かしら、この狂気じみた老婆の言葉のなかにこそ、真実があるように思われてならなかったのだが、今日はその感がいっそう深かった。私は背を流れる冷汗を、じっとりと気味悪く感じずにはいられなかった。  一座は一瞬、シーンと石のようにしずまりかえったが、やがで金田一耕助が、ぎこちなく、|咽《の》|喉《ど》にからまる|痰《たん》を切るような音をさせると、 「いや、お婆アさん、ちょ、ちょっと待って下さい。そう一足とびに飛躍しちゃいけない。誰が犯人にしろ、われわれはまず順序を踏む必要がありますからね。しかし、いまお婆アさんのいわれた言葉のなかに、たしかにひとつの真実があります。即ち、蜂屋小市は守衛さんよりまえに殺されていた。したがって、守衛さんを殺したのは、蜂屋ではない。と、すると誰が……」 「蜂屋が守衛さんよりまえに、殺されたという証拠はどこにあるんです」  そのとき、私の横から、そう口を出したのは直記であった。直記の口調には、どこか挑戦するような毒々しさがあった。  金田一耕助はしかし、あいかわらずにこにこして、 「そう、なるほど、あなたのおっしゃるとおり、いままでのところ、蜂屋と守衛さんの殺された時刻は、まだハッキリと確認されてはおりません。しかし、だいたい、蜂屋はあの晩の九時まえに殺されたのであろうし、その時刻には守衛さんは、まだ生きていましたからね」 「九時まえに殺された……?」  直記と私は|愕《がく》|然《ぜん》として顔を見合わせた。直記はそれから、かっとせきこんだ調子になって、 「な、何をバカなことをいってるんです。あの晩、お藤は十二時ごろ、蜂屋の部屋へいって……」  と、そこまでいってから、直記は何か思い当たったようにハタとばかり口をつぐんだ。額の血管がみるみる大きく怒張して来た。  金田一耕助はにこにことその顔を|視《み》|詰《つ》めながら、 「ああ、やっとあなたもそのことに気がおつきでしたね。これで、昨日のお藤さんの告白がいかに重大な意味を持っているかおわかりになったでしょう。そうです。お藤さんの証言によって、われわれはあの首なし死体が、蜂屋小市であることを知った。それも重大なことです。だが、それと同様に重大な意味を持っているのは、十二時ごろ、お藤さんは蜂屋の部屋へいったことはいったが、実はなかへ入ったのではなく、ドアのところから引き返しているのです。したがって、そのとき部屋のなかに蜂屋がいたかどうか、誰にもわかっていない。われわれはお藤さんの以前の証言にだまされて、十二時ごろ、蜂屋は部屋のなかで寝ていたとばかり信じていた。したがって、犯行はそれ以後のことと考えていたのですが、いまになってみると、そういう考えかたに、なんの根拠もないことがわかるでしょう」 「しかし……しかし……」  と、直記は額からジリジリと|脂汗《あぶらあせ》をながしながら、 「そうかといって、その時刻に、蜂屋がすでに殺されていたと断言するのは、あまり早計じゃないか。げんに……あっ、そうだ。われわれの食事がおわったとき、八千代が蜂屋に食事を持っていってやったのですよ。あれは十時ごろのことだった。蜂屋はそれを食べたんだ。その証拠に、蜂屋の|屍《し》|体《たい》が解剖されたとき、そのときの食べ物が胃のなかから、検出されたじゃないか。しかも、二時間ほど消化された状態で……だから、東京の警視庁でも、蜂屋の殺された時刻を、真夜中の十二時前後と断定しているじゃないか、それに……」  直記がせきこんで来るのと反対に、金田一耕助はいよいよ|糞《くそ》落ち着きに落ち着いて、にこにこ笑いながら、 「それから……?」  と、反問する。 「それから、八千代のスリッパの裏についた血の問題がある。八千代は夢遊病を起こして、真夜中過ぎ、フラフラとあの離れへいった。そのことは離れの血だまりのなかについた、スリッパの跡でもわかるんだ。しかも、八千代が夢遊病を起こして、フラフラと歩いているところを、私と屋代が部屋のなかから見ていたんだが、それはたしかに一時だった……」 「なるほど、しかし、それがどうしたというんですか」 「君にゃ、これがわからんのか」  直記はほとんど、怒号するような調子になって、 「九時以前に蜂屋が殺されたものならば、一時ごろまでにゃア、血もだいぶ乾いていたろう。あんななまなましいスリッパの跡が、床の血だまりにつく|筈《はず》もないし、また、八千代のスリッパの裏にも、あれほど鮮かな血がついている筈はない」 「なるほど、よくわかりました」  金田一耕助は相変わらずにこにこ笑いながら、 「すべてを表面から、ありのままに見れば今あなたのおっしゃったとおりです。しかし、この事件はそんなに単純なものじゃないのですよ。これは実に陰険に、ネチネチと考えられた事件なんです。だから、すべてはもう一度裏返しにして考えてみる必要がある。そこで、いまあなたのおっしゃったことを、ここで裏返しにして考えてみましょう。まず、第一に、解剖された胃の内容物が、二時間ほど消化された状態にあったという点ですがね。むろん、そこに間違いはないが、その内容物が、十時ごろ、八千代さんの持っていった食事だと、どうして断定することができるのです」 「だって、そりゃア……あのとき、八千代の持っていってやった食事と同じものだったから……」 「しかし、それと同じ食事を、蜂屋がもっと早い時刻に食べていたら……たとえば五時ごろに同じ食事をたべ、七時ごろに殺されたとしたら……あるいはまた、六時ごろに同じ食事をたべ、八時ごろに殺されたとしたら……? どちらにしても、胃の内容物、二時間ほど消化した状態で発見されますね」  直記はあっけにとられたように、金田一耕助の顔を見守っていた。あまり突飛な相手の議論に、さすが横紙破りの直記にも、言葉が出なかったらしいのである。 「それから、八千代さんのスリッパの裏についていた血ですがね。これも真夜中の一時ごろに、血だまりのなかを歩いたのではなく、もっと早く歩いたとしたらどうでしょう。かりに犯行を七時ごろとして、その直後に、誰かが八千代さんのスリッパをはいて、血だまりのなかを歩いたとしたら……」 「しかし、しかし、……じゃ、八千代が真夜中の一時ごろに夢遊病を起こして、フラフラとあの離れへ入っていったのは偶然だったというのか。あれは単なる暗合だったというのか」 「いいえ、そうではありません。この事件には偶然だの暗合だのということは、|殆《ほと》んどないといってもいいのです。お藤さんのことは別ですが、その他はすべて、綿密に念入りに計画された事件なんです。つまり、一時ごろに八千代さんが、夢遊病を起こしたがごとく見せかけたのは、あれは全然|嘘《うそ》なんです。八千代さんはその時刻に、スリッパに血がついたと思わせるために、わざとフラフラ歩いてみせたんです。なんのために……? つまり犯行の時刻をゴマ化すためにですね」  直記の眼玉はいまにも飛び出しそうになった。|咽喉仏《のどぼとけ》をぐりぐりさせながら、直記は、絞め殺されるような声をあげた。 「それじゃ……それじゃ……八千代は……?」 「そうですよ。共犯者ですよ。そのことは私より早く、屋代さんも感付いていたくらいですよ」  この一言は一座のなかへ、爆弾をなげつけたも同様の効果をもった。お喜多婆アをのぞいたほかのひとびとは、みないっせいに息をのみ、それから探るような視線を私のほうに向けたのである。      血の凍る予想  直記はものすさまじい眼で私をにらむと、 「屋代が……屋代が……どうしてそんなことを……」  と、いまにも私のうえに躍りかからんばかりの勢いだった、さすがの私も、全身にさっと恐怖を感じて、少しあとへ座をずらせた。  金田一耕助は、私たちをとりなすように、 「いやいや、屋代さんを責めるのは当たりませんよ。このひとは、探偵小説家の綿密な頭脳で、真相の一半を洞察されたのです。屋代さんが、八千代さんに疑惑をいだかれたのは、一昨夜の事件以来だそうですがね。つまり一昨夜、竜王の滝で発見された、首無し死体の正体について、屋代さんはまず疑惑を感じられた。つまり、あの死体は八千代さんではなくて、ほかの婦人ではなかろうか。八千代さんはあたかも、自分が殺されたがごとく装うて、どこかへ身をかくしたのではあるまいか。……これが屋代さんの推理の第一歩だったのです」  金田一耕助のこの一言は、またしても、一座に大きなショックをあたえた。さすがの直記も、仰天したのか、すぐには言葉も出なかった。一同はしばらく|茫《ぼう》|然《ぜん》自失した顔色で、金田一耕助と、私の顔を見くらべるばかりだったが、この時、一番はやく虚脱状態から|恢《かい》|復《ふく》したのはお柳さまだった。  |日《ひ》|頃《ごろ》とりすましたお柳さまだが、このときばかりは取り乱して、 「それじゃ、あの首無し死体は八千代じゃないというのですか。しかし、それならなぜ、あの死体は、八千代の寝間着を着ていたのです」  鋭い詰問するような調子である。金田一耕助も、さすがにもう微笑はうかべていなかった。しかし、言葉つきはあいかわらずおだやかに、 「それはさっきもいったとおり、八千代さんは、自分が殺されたものと、世間のひとびとに思いこませたかったからです」 「しかし、なんだって八千代は……?」 「それはもういうまでもありません。八千代さんは、蜂屋殺しや|守《もり》|衛《え》さん殺しの共犯者だった。いずれは、警察の手にとらえられて、処断されなければならぬでしょう。それからのがれるためには、死んだものになるよりほか、手はなかったのです」 「それじゃ……それじゃ、……あの首無し死体の本人を殺したのも、八千代だというのか」  鉄之進がそのときはじめて口を出した。お柳さまとちがって、このほうはひどく気力のない声だった。  金田一耕助は暗い顔をしてうなずくと、 「そうです。いや、自ら手をくだしたかどうかはわかりませんが、手伝ったことはたしかでしょう」  氷のような|戦《せん》|慄《りつ》が一座のひとびとをゆり動かし、無気味な恐怖が部屋のなかにみなぎりわたった。 「しかし、しかし……」  お柳さまはきりりと|柳眉《りゅうび》を逆立て、この恐ろしい戦慄の|呪《じゅ》|縛《ばく》からまぬがれようとするかのように、必死となってヒステリックな声をふりしぼった。 「それじゃ、あの首無し死体はいったい誰なんです。どこの何という女なんです」 「あれはね、隣村の海勝院という|尼《あま》|寺《でら》へ、ちかごろ預けられていた女で、名前はお静、苗字はなんというか存じません」  お静という名が、金田一耕助の口から出たとき、直記は雷にうたれたようにからだをふるわせた。  しかし、お柳さまはそれに気もつかず、 「いったい、そのお静というのは何者です。どういう|素姓《すじょう》の女なんです」  と、いよいよかさにかかった口のききかただった。それに対して金田一耕助は悲しげに首を横にふると、 「さあ、そこまではぼくも存じません。そのことならば、直記さんにお|訊《たず》ねになったほうがいいでしょう」 「えっ!」  一座のひとびとはぎょっとしたように、直記のほうをふりかえったが、直記は無言のまま、歯をくいしばってうつむいている。額からポタポタと汗が流れおちて、|膝《ひざ》においた両の|拳《こぶし》が、|痙《けい》|攣《れん》するようにブルブルふるえていた。  直記のこたえがなかったので、金田一耕助がまた口をひらいた。 「皆さんは多分、小金井のお屋敷にある離れに、一時、明かずの窓というのがあったのを御存じでしょう。そして、そのなかに直記さんがひとりの婦人をかくまっていられたことも、うすうす知っていられる|筈《はず》です。その御婦人は気がふれていたということですが、直記さんはその婦人を、海勝院にあずけられたのですよ。そして、その御婦人が犠牲になって、八千代さんの身替わりになったのです」 「直記!」  突然、雷のような声が、一同の頭上に落下した。  鉄之進だった。  鉄之進の顔は真っ赤に充血し、おそろしく怒張した血管が、みみずのようにヒクヒクと痙攣した。 「貴様は……貴様……は」 「いいえ、お父さん、知りません。ぼくは、何も知りません」 「何も知らぬといって、いったいその女は何者だ。貴様とどういう関係があるのだ」  それに対して、直記はなにも答えることができなかった。一度ふうっと顔をあげ、放心したような眼で、われわれの顔を見渡したが、やがてまたがっくりうなだれると、それきり何をきかれても、一言もこたえなかった。何かしらひどく考えこんだ様子だった。  そのとき、また横合いから、鳥のようなキイキイ声をあげたのはお喜多婆アであった。 「それみろ、わたしのいうたとおりじゃ。守衛さんを殺したのは直記と八千代だったのじゃ。ふたりがぐるになって可哀そうな守衛さんを殺したのじゃ。そして、八千代は身をかくすために、罪もない気のふれた女を殺して、自分の寝間着を着せておいたのじゃ。直記がその女をわざわざ東京からつれて来たとしたら、はじめから八千代の身替わりに立てるつもりだったのじゃ、おお、おお、おお、何んという恐ろしいやつだろう。鬼だ。畜生だ。これ、お巡りさん、なぜこの男をひっくくらんのじゃ。ひっくくって死刑にしておくれ。可哀そうな守衛さんの|敵《かたき》をとっておくれ」 「直記!」  鉄之進がなにかいおうとしたとき、横からそれを制止したのは金田一耕助だった。 「いや、御老人、ちょ、ちょっとお待ち下さい。お喜多さん、あなたもしばらく待って下さい。ものには順序というものがある。そう先走りされちゃいけません。いや、これはぼくがいけなかったのです。あまり早く、八千代さんのことをいい出したもんですから、あっはっは」  金田一耕助はうつろな声をあげて笑うと、ガリガリとやけに頭をかきまわした。世のなかにはちょっとした仕草や言葉が、|昂《こう》|奮《ふん》をしずめる特効薬になることがあるが、そのときの金田一耕助の、いささか|滑《こっ》|稽《けい》な仕草がそれだった。一同はちょっと毒気を抜かれたように、金田一耕助の様子を見守っていた。 「さて……」  と、しばらくしてから、金田一耕助は、またにこにこと微笑を取り戻した顔になって、一同を見渡すと、 「ぼくはさっき、なんの話をしていたのでしたっけね。そうそう、蜂屋小市の殺された時刻が、九時以前だということでしたね。それについてぼくはいま、胃の内容物の消化状態や、八千代さんのスリッパの裏についた血が、当てにならんものであるということを、いおうとしていたのでした。八千代さんが共犯者とわかると、そんなものはすべて故意に、当局の眼をゴマ化すためにあらかじめ、用意しておくことができるということを、皆さんにお話ししていたのでした。では、なぜ、ぼくが犯行を、九時以前と決定したかというと、それは直記さん、あなたのおかげですよ」  直記はピクリと顔をあげた。そして、さぐるように金田一耕助の顔を見詰めていた。  金田一耕助は、にこにことその顔を見返しながら、 「ここで、もう一度、あの晩のことをおさらいしてみましょう。あの晩、九時にあなたがた、直記さんと屋代さん、それから守衛さんと八千代さんは、洋館のほうの食堂で食事をしましたね。そのとき、蜂屋は部屋へとじこもったきり顔を見せなかった。いいえ、ほんとうをいうと誰も蜂屋が部屋にいるのを見たものはないのですから、そのとき、蜂屋君が真実部屋に閉じこもっていたという証拠はどこにもない。いやいや、一足とびに結論をいうと、そのときすでに蜂屋は離れで殺されていたのだから、部屋にはいなかったというのがほんとうです。ところで、皆さんの食事がおわったあとで、八千代さんが蜂屋の部屋へ食事を持っていった。このことにはふたつの意味があったのですよ」  金田一耕助は、私のほうへ眼をむけると、 「賢明な屋代さんは、すでに気がついていられると思いますが、ふたつの意味とは、まず第一に、蜂屋が生きてまだ部屋にいると思わせること。第二に、その時刻に食事をとったと思わせること。第二のほうは、むろん、死体が解剖されたとき、胃の内容物が検査されることを予想して、あらかじめ、打っておいた手なんです。つまり、犯人——というよりは、犯人たちといったほうが正しいのかも知れませんが、かれらは、蜂屋の死を、十二時以後と思わせたかったからですよ。むろん、死後硬直の問題もあるが、死後の推定時間というやつは、かなり幅があるものなんです。だから、一方に、胃の内容物の消化状態というデータをこしらえておけば、あるいは死亡時刻もゴマ化せるかも知れないと思ったんですね。そして、これはまんまと成功したんですね。もっとも、それには、八千代さんが一時ごろ、フラフラ歩くところをみせ、そのときにスリッパの裏に血がついたと思わせることによって、いよいよ、死亡時刻の錯誤を決定的なものにしようとしたんです」  私は|固《かた》|唾《ず》をのむ思いで、金田一耕助の言葉に耳を傾けていた。なにかしら、心臓がガンガン鳴る思いであった。直記もシーンと謹聴している。鉄之進とお柳さまは、まじまじと、金田一耕助の|口《くち》|許《もと》を|視《み》|詰《つ》めている。|四《よ》|方《も》|太《た》はぽかんと口をあけて、口のはたから|涎《よだれ》を垂らしている。お喜多婆アは、にくにくしげな|眼《まな》|差《ざ》しで、直記の横顔を視詰めている。磯川警部は、それらのひとびとの顔色を、満遍なくうかがっていた。  金田一耕助は言葉をついで、 「ではなぜ、犯人は犯行の時刻を十二時以後と思わせたかったか——それはたぶん、十二時以後にはアリバイがあったのでしょう。誰かといっしょにいることによって、離れへ近寄らなかったことを証明させることができたのでしょう。それに反し、真実の犯行時刻には、誰も犯人のいどころを知るものがなかったのでしょう」  私はドキッとした思いで、また直記の顔をぬすみ視た。あの夜ひと晩、私をそばにひきつけていたのは直記ではないか。 「いや、話がまたさきへとびましたが、もう一度さっきのつづきへもどって、八千代さんが蜂屋の部屋へ、食事を持っていったところから話しましょう。あのとき、食堂にのこったひとびとは、八千代さんがおりてくるのを、いまかいまかと待っていた。ところが、八千代さんがなかなかおりて来ないので、直記さんが、屋代さんをひっぱって、二階へあがっていかれた。そのとき、階段のうえで、とりみだした|恰《かっ》|好《こう》をして、八千代さんがあらわれたが、そのとき、八千代さんが、畜生ッ、蜂屋のやつ……とかなんとか口走ったので、いよいよ蜂屋が部屋にいて、八千代さんに何か|狼《ろう》|藉《ぜき》を働いたのだろうと思われたのですが、いずくんぞ知らん、むろん、あれも八千代さんの一人芝居で、あの時、八千代さんは蜂屋の食事を自分で食って、出て来ただけのことだったのです。さて、問題はそのあとなんですが……」  と、金田一耕助はまた、ガリガリと頭をかきまわし、 「ぼくはここのところが実に面白いと思うのです。八千代さんとすれちがった直記さんと屋代さんは、そのまま直記さんの部屋に入っていくと、直記さんはベッドの下から、かくしてあった村正を取り出し、それを、屋代さんとふたりで、階下の金庫へしまわれた。しかも、その金庫をあけるには直記さんと屋代さんがふたり|揃《そろ》わぬと、絶対にあけられぬようにしておいたのです。しかも、その翌日、兇行を発見したおふたりが、驚いて金庫をあけると、刀身にはべっとりと血がついていた。いっておきますが、あの刀身についていた血は、首無し死体の血液型とまったく同じだったのです。したがって、あの首無し死体を殺した兇器はその村正にちがいなかったのですが、このことが、東京の警視庁をずいぶん迷わせた。犯行の時刻はたしかに十二時前後と思われるのに、その時刻には、兇器はちゃんと、金庫のなかにしまわれていたのですからね。しかも、その金庫をひらくのには、直記さんと屋代さんが、合意のうえでないと絶対にダメです。このことが、警視庁をなやませ、なんらかの方法で、金庫をひらくことが、できるのじゃないか、それとも、直記さんと屋代さんが|嘘《うそ》をついているのじゃないか……と、そんなふうに考えたのです。しかし、ぼくは、それとは逆に、直記さんと屋代さんの話は真実であろう。推定された兇行の時刻には、兇器は金庫中にしまわれてあり、その金庫は絶対に、|何《なん》|人《ぴと》によってもひらかれなかった。——と、こういう想定のもとに推理をすすめたのです。そして、そこに横たわる矛盾を解決するために兇器を金庫から取り出すことを考えるより、むしろ、兇行時刻をくりあげてみたらどうかと考えてみたのです。即ち、あの村正は金庫にしまわれる以前、すでに血にそまっていたのをそのまま、金庫へしまったのではないか。そう考えるほうが、ひらかぬ金庫を、むりにひらこうとするよりも、はるかに自然ではないかと思ったのです。さて、そうなると、皆さんが食堂へ集まった九時以前に、すでに事は決行されていたということになります。いっておきますが、九時から兇器が金庫へしまわれたと思われる時刻、即ち十時前後までは、|母《おも》|屋《や》にいたひとびとにも、全部アリバイがありました。鉄之進さんは、お柳さまを相手に一ぱいやっていられたし、四方太さんもお相伴をしていたのです。したがって、兇行の時刻はどうしても九時以前ということになり、さて、そうなるとおかしいのは、八千代さんとお藤さんです。このふたりとも、それよりのちまで、蜂屋が生きて、部屋にいたかのごとくふるまい、また、証言もしています。だから、私はふたりとも嘘をついているのであろうと思い、昨日、お藤さんを問いつめたところが、皆さんもすでに御存じのような、新しい証言を得ることができたのです。お藤さんの嘘をついた動機は、皆さんも御存じのとおりですが、こうなるとどうしてもおかしいのは八千代さんの言動です。それのみならず、八千代さんの行動には、皆さんもすでに御存じのとおり、いろいろ不可解なところがあります。そこでぼくは八千代さんを共犯者であろうと、推断したのですが……」  金田一耕助の長話のあいだ、いかにもじりじりした様子で、体を前後にゆすっていたお柳さまが、そのとき、とうとう、たまりかねたように、ヒステリックな声で叫んだ。 「そんな|理《り》|窟《くつ》はどうでもよい。八千代が共犯者として、それじゃ、誰が主犯だというんです。ひょっとすると……」 「直記!」  突然、鉄之進がすっくとばかり立ちあがった。 「おのれは……おのれは……」  あっという間もなかったのである。鉄之進の固く握りしめた|拳《こぶし》が、|霰《あられ》のように直記の頭上に落下して来た。 「あっ、お父さん、何をする!」  直記も憤然として、鉄之進のほうへ向きなおったが、その顔面へ、また鉄之進の拳が二度三度とふりおろされた。直記の|瞼《まぶた》がさけて、さっと鮮血がとび散った。 「バカな、お父さん、あなたは……」  直記はわれにもなく、鉄之進の胸をついた。このことばかりは、直記のために弁じておくが、そのとき、直記に殺意があったろうとは、絶対に私には信じられない。事実また、鉄之進の死因が、直記の一撃によったものでないことは、誰の眼にもあきらかだった。  それにもかかわらず、直記のひと突きによって、鉄之進はよろよろと二、三歩よろめいたかと思うと、だしぬけにさっと眼や鼻から鮮血がほとばしった。  鉄之進はまるで|盲《めし》いたもののように、フラフラと、頼りなげに両手をひろげてよろめいたが、つぎの瞬間朽木を倒すように、どうとその場にひっくりかえったのである。  これが仙石鉄之進の最期であった。  そのときの、一座の|狼《ろう》|狽《ばい》、動揺はいうまでもない。いわゆるてんやわんやである。そして、そのために、せっかくの金田一耕助の名講演も、一時中絶のやむなきにいたったのである。  さて、鉄之進の急死によって、家中がごったがえしているあいだに、私は自分の部屋へかえって、この稿を書きつづけた。いままで機会がなかったのでいわなかったが、これまで書いて来たところは、すべて、事件以来今日まで、ひまを見て書きつづけて来たのである。  私も探偵小説家だ。もっとも直記の毒舌によると、三流四流のヘボ作家だということだが、ヘボはヘボでもよい。自分の空想力の欠如はやむを得ないとしても、このような奇怪な事件に直面しては、いかにヘボ作家の私でも、どうしてこれを記録にしてのこしておかずにいられようか。  だから私は丹念に、いままでの見聞を書きしるしてきたのだが、正直のところ、いまこれを書いている私の手は、怪しくふるえてやまぬのだ。  ああ、犯人は誰なのか。金田一耕助の胸中にある犯人とはいったい何者なのか。いやいや、それはきくまでもない、私にもだいたいわかっているのだ。  だが、しかし、金田一耕助はそれならばなぜ、その犯人をすぐ捕えてしまおうとしないのか。  いかに、鉄之進の凶変があったとはいえ、あの恐ろしい殺人鬼を、どうして自由にしておくのだ。  ああ、恐ろしい。さっきそいつがジロリとにらんだ、あの|物《もの》|凄《すご》い眼光を、私はいまも忘れることができぬ、あの|眼《まな》|差《ざ》しのなかには、たしかに殺意がこもっていた。  ああ、いまにして思い当たるのは、そいつがあくまで私をそばにひきつけておこうとするのは、ひょっとすると、この私を、自分の身替わりに立てようという、下心があるためではなかろうか。  お静という女を殺して、八千代さんの身替わりに立てたように……。  そういえば、あいつと私は年齢も同じだ。|背《せ》|恰《かっ》|好《こう》、姿かたち、肉付きも、いたってよく似ているのではないか。私にあいつの着物を着せて、首をちょん|斬《ぎ》ってしまったら……。  ああ、恐ろしい、ゾッとする。私もいまに殺されて、首をちょん斬られるのではあるまいか。  おお、神様!      岩頭にて  私は負けた。完全に敗れたのである。  いまの私はすっかり意気|沮《そ》|喪《そう》して、こうして筆をとるのさえ|億《おっ》|劫《くう》なのである。第一、この稿を書きつづけたところで何になるのだ。全くそれは無意味なことではないか。私の最初の計画では、前章の『血の凍る予想』で筆を断つつもりであった。  しかし金田一耕助は、私の肩をたたいてこういうのだ。 「あの小説、なかなか面白いですよ。|尻《しり》|切《き》れトンボはいけませんね。ぜひ、完結して見せて下さい。しかしこれからあとは小説でなく、真実の記録をお願いしたいですね」  そうなのだ。金田一耕助のいう通りなのだ。前章の『血の凍る予想』にいたるまで、ながながと書きつづけてきたこの記録は、金田一耕助のいうとおり、一種の小説に過ぎなかったのだ。いやいや、事件そのものからして、私の組み立てた小説だったのだ。そうだ、世の探偵作家は頭脳のなかで組み立てたプロットを、ペンでもって書いていく。三文探偵小説家である私は、それを血と憎しみをもって書きしるしてきたのだ。  まえにもいったとおり、真実の記録らしく見せかけた、私のこの小説は、前章をもって終わる|筈《はず》であった。つまりペンで書きのこしておく部分は、そこでプツンと切れる筈だったのだ。しかし、血と憎しみをもって描く私の小説は、あそこで終わる筈ではなかった。そのあとにもう一章、いちばん大切な部分がのこっていたのだ。  私はいま、金田一耕助のすすめにしたがって、その部分の記録をつづろうとしている。これをペンで書きしるしていくということ自体が、私の敗北を意味しているのだが……。  さて、仙石鉄之進の急死によって、捜査は一時中断のかたちになった。金田一耕助の名演説も、尻切れトンボのままで終わって結論らしいものは出なかった。私はそのことを死者に対する礼儀だろうと思っていたのだが、いずくんぞ知らん、それこそ金田一耕助のはじめからの計画だったのだ。かれは最初からあそこで、結論を出すつもりはなかったのだ。そしてそのために仙石鉄之進の死という突発事故を、極く自然なかたちで利用したのだ。私はそれを知らなかった! その夜、私はおそくまでかかって、『血の凍る予想』を書きあげた。ながながと書きつづけて来た小説をやっと最後まで書きあげたので、……と、いうよりも、事件がいよいよ最後の段階にさしかかったので、私はいくらかホッとした気持ちだった。まさかその晩、最後の部分を血と憎しみで書きあげようとは思わなかったので、と、いうよりは、そういうチャンスに恵まれようとは思わなかったので、私は小説を書きあげると眠るつもりであった。事実私はいったん寝床へ入っていたのである。  ところが、そこへあのチャンスが訪れ、それが私を誘惑したのだ。いまから考えると、私はやはり最初の計画どおり、もうしばらく待つべきだったのだ。自分でも事を急ぎ過ぎてはならぬと、何度となくいいきかせて来たのだ。それにも|拘《かかわ》らず私は、あの誘惑にうちかつことができなかった。それがあまり絶好のチャンスらしく見えたがために……。  さて、私が小説を書いているあいだに、直記は隣り部屋へかえって来ていた。いつもの直記ならば、寝るまえにきっと私に顔を見せ、例の毒舌を浴びせかけねばおさまらぬところだが、さすがにその夜は|動《どう》|顛《てん》していたのか、私に声もかけずに部屋へ入ると、寝床を敷く気配だった。  しかし寝床を敷いてからも、直記はなかなか寝る気はないらしく、ずいぶん長いあいだ思い迷っているらしかった。おりおり部屋のなかを歩きまわる気配がきこえた。  それでも、時計が十二時を打つと、かれも寝る気になったらしく、寝床へ入った様子であった。私もそれと前後して寝床へ入った。直記とちがって、それほど|煩《はん》|悶《もん》を持たなかった私は、それから間もなく、うとうとしはじめたのである。  その私が、はっと夢から眼覚めたのは、夜中の二時ごろのことだった。そうだ、そのとき時計を見たから、私はハッキリ|憶《おぼ》えている。時計の針はかっきり二時を示していた。  では、|何《な》|故《ぜ》その時刻に私が眼覚めたか。……それは直記のためであった。私は隣室からきこえてくる異様な物音と|呟《つぶや》きによって眼が覚めた。呟きは直記の声であった。何をいっているのか、言葉の意味はわからなかったけれど、直記が何か呟きながら部屋のなかをぐるぐる歩きまわっているらしい。  私の心臓はにわかにドキドキしはじめ、全身の緊張をもって、あたりの気配をうかがっていた。私がそのときうかがっていたのは、必ずしも直記ばかりではない。いや、私にはそのとき直記が、何をやっているのか、ちゃんとわかっていたのだ。私の知りたかったのは、屋敷の他の部分の気配だったのだ。  万事は好都合らしく見えた。直記の部屋をのぞいては、屋敷のなかは深海の底のようにシーンとしずまりかえっている。私はそっと寝床から起きなおった。それは極く自然な軽い運動であったけれど、それでもミシリと床が鳴ったときには、私は思わずハッとした。  しかし、考えてみると、いまの直記に、そのような微細な物音がわかる|筈《はず》はないのだ。いやいや、もっと大きな物音だって、かれの呟きと、かれのあてどもない歩行を、さまたげることはできなかろう。  あいかわらず、何かブツブツ呟きながら、隣り座敷を歩きまわる直記の気配を耳にすると、いざというときの用意のために身支度をした。  直記は相変わらず、低声でブツブツ呟きながら、部屋のなかを歩きまわっている。それは終点のない環状線をあるいているようなものだ。私はいらいらした気持ちで、かれの円周歩行に耳をすましていた。  だが、とうとう、直記の円周歩行は破れたのである。私は隣室の障子のあく音を耳にした。私の心臓はいよいよ躍る。ひょっとすると、今夜チャンスが来るのではあるまいか……。  私も障子をあけて、そっと廊下をのぞいてみた。廊下にはいつもひとつだけ、暗い電燈がついている。その|仄《ほの》|暗《ぐら》い廊下のはしに、直記がボンヤリ立っている。 「おい、仙石、どうしたんだ」  私はわざと低い声で、そう言葉をかけてみた。しかし、直記は依然として、うつろの眼を見張ったままボンヤリとうすら寒く立っている。見張った眼は、|虚《こ》|空《くう》の一点を|凝視《ぎょうし》したまま動かない。私はそっとそばへよると、直記の眼のまえでかるく両手をふってみせた。それでもなおかつ、直記の凝視のくずれないのを見届けると、私は大いに満足したのである。  直記はいま、完全な夢中遊行の状態に入っているのである。  そうなのだ、直記にも父鉄之進のあの奇妙な病気が遺伝されているのだ。夜歩く癖——見栄坊の直記は、それを私に知られることをおそれて、極力かくすようにつとめていたが、私はずっとまえから、彼にこの病気のあることを知っていたのだ。私の小説のなかでは、わざとそのことは伏せておいたが。……  いまにして諸君は思い出されるだろう。蜂屋小市が殺された晩、直記はこの上もない用心深さで村正を金庫のなかにおさめた。そして、私の協力なしには、絶対に金庫をひらくことが出来ぬよう工夫した。何故か。  それからまた、あの晩かれの部屋に寝かせるようにしたのみならず、ドアの内側へソファを持っていって、それへ私を寝かせることにした。何故か。  つまりかれは、自分の夢中遊行の習慣を知っていたからなのだ。直記もまた、鉄之進と同じように、激情的なシーンや議論で、感情が激発すると、夜歩く習慣があったのだ。しかも蜂屋が殺された日は、激情的なシーンの連続だったではないか。  かれはまず、|親《おや》|爺《じ》の鉄之進が村正をふりかぶって、蜂屋を追っかけまわすシーンを見て感情を刺激された。それからつぎにはあの広間で八千代と|守《もり》|衛《え》のラブシーンあるいはラブシーンらしきものを見て、いよいよかれは動揺した。私は知っていたのだ、直記が八千代に|惚《ほ》れていることを。それこそ惚れて惚れて惚れぬいていたのだ。底抜けに惚れていたのだ。ひょっとすると異母兄妹ではないかという|危《き》|懼《ぐ》がなかったら、直記はとうに八千代を自分のものにしていただろう。さすがに強引な直記も、兄妹|相《そう》|姦《かん》という不倫だけは、犯すことが出来なかったのであろう。  それだけに直記の|焦躁《しょうそう》は、はたの見る眼も|滑《こっ》|稽《けい》なほどであった。直記と八千代は異母兄妹であるかも知れないが、また、そうでないかも知れないのだ。手を出しても構わぬ女であるかも知れないのだが、直記にはその勇気が欠けていた。そして、その不決断がかれのあらゆる生活態度に落ち着きを失わせたのだ。  その代わり、かれは八千代を、誰の手にもわたすまいと決心していた。八千代にちかづく男を、かたっぱしから粉砕しようと決心していた。そのかれが、問題にもしていなかった守衛と八千代の、いかにも親しげな様子を目撃したのだ。あのときの直記の|瞳《め》にもえあがった、|嫉《しっ》|妬《と》と憎悪と殺気のいろを思い出してみるがいい。直記はあのとき心中で一刀のもとに守衛を|斬《き》りすてていただろう。  こうして、しだいに激発していく感情に、さらに輪をかけたのは、あの晩の八千代と蜂屋のイキサツだ。八千代がわざわざ親切に、蜂屋のもとへ食事を持っていってやるさえ気に|喰《く》わぬのに、不必要に八千代がながく、蜂屋の部屋にいることが、かれをたまらなくさせたのだ。おそらくかれは嫉妬のために、体がハチ切れそうであったろう。そこで、とうとうたまらなくなったかれは、私をうながして二階へあがっていったが、おそらくあれは、蜂屋の部屋を偵察するためだったのだろう。だが、その必要はなくなった。階段のうえでぶつかった、八千代の様子が、蜂屋の部屋で演ぜられたと思われる、ある情景を暗示していた。おそらく、ここでも、直記は心の中で、蜂屋を一刀のもとにぶった斬っていたにちがいない。  あの晩、直記はそれをおそれたのだ。こういう晩にひょっとすると、夢中遊行をやらかすのではあるまいか。……直記はそのことを心配したのだ。しかも、いま自分の|手《て》|許《もと》には村正がある。  直記は心中、蜂屋や守衛を、一刀のもとにブッタ斬ってしまいたい欲望を持ちながら、さすがにそれを実行することを恐れた。だが、その欲望はいつ爆発するかも知れないのだ。夢中遊行のかたちとなって……。  直記は自分で自分が信用出来なくなっていたのだ、ちょうど夜尿症のある少年が寝るまえに、どんなに|洩《も》らすまいと思いながらも、つい洩らすことによって、しだいに自分が信じられなくなっていくように。  そこで直記はまずあの村正を遠ざけようと思った。しかし、どんなところへかくしても、自分でそれを知っていたら、夢中遊行時にまたフラフラと取り出しにいくかも知れない。それではなんにもならないのだ、そこであのような念入りな工夫をもって、自分ひとりの力では、絶対に村正を手にとることが出来ぬように仕組んだのだ。  直記はしかし、それでもまだ不安であった。村正ばかりが兇器ではない。いったん人を殺そうと決心したら、兇器はいたるところにあるだろう。そこで自分を一室に監禁するのが何より安全な方法だと考えた。そして、その番人として選ばれたのがこの私だった。あの晩、私をドアのうちがわに寝かせたのは、外から来る侵入者をおそれたのではなく、自分がフラフラ、外へ出ていくことをおそれていたのだ。私はそのことをすべて知っていたのである。さて話をもとへ戻そう。  直記が夢中遊行を起こしたとき、私は絶好のチャンスが来たと思った。私はしずかに一歩退いて、直記のつぎの行動を見守っていた。  直記はあいかわらず、低い声でブツブツ|呟《つぶや》いていたが、やがて小首をかしげると、フラフラと雲を踏むような足取りで歩き出した。私は少しあいだをおいて、足音をしのばせてついていった。私が足音に気をつけるのは、直記の眠りをさますことをおそれたためではない。これだけ眠ってしまうと、ちょっとやそっとのことでは、なかなか眼覚めないことを、私はよく知っていたのだ。私が足音に気をつけるのは、屋敷のほかの連中の、眠りをさまさないためなのだ。  直記は客間のまえまで来ると、そこの雨戸をいちまいひらいた。一昨日の晩、八千代が出ていったところだ。直記もそこから、フラフラととび出していった。私もそのあとからついていきながら、いまの雨戸をくる音がひょっとすると、誰かの眠りをさましはしなかったかとおそれたが、幸いそういう気配もなく、屋敷はあいかわらず、シーンと寝鎮まっている。私の心はいよいよ躍った。  直記は一昨日の晩と同じように、杉木立の奥にある小さな木戸から外へ出ると、|竹《たけ》|藪《やぶ》の丘をぬけ、山路へさしかかった。そして、あいかわらず雲を踏むような足取りで、フラフラと山路をのぼっていく。  私にはハッキリ、直記の潜在意識となって、今夜のこの夢中遊行となった動機がわかるのだ。八千代だとばかり思われていたあの首無し死体が、そうではなくて、お静という女であった。そして、八千代はその犯人、あるいは共犯者であったという恐るべき暴露が、かれを驚かせ、悩ませ、それが今夜のこの夢中遊行となったのであろう。してみれば、かれの行手は竜王の滝よりほかにない。  一昨日の晩とちがって、今夜は美しい月夜である。五月とはいえこの山里では、夜が|更《ふ》けると同時にぐうっと気温が下降する。寝間着すがたの私の肌を、夜の冷気がさすのだが、しかも心中に燃えるようなものがあって、私にはその冷気がかえって|爽《そう》|快《かい》だった。  間もなく直記は竜王の滝の岩頭に|辿《たど》りついた。ああ、なんという絶好のチャンス、なんという絶好の舞台装置。私の抱いていた計画にとって、これほど|恰《かっ》|好《こう》な場所と時があろうか。私はわき立つ歓喜に胸を躍らせながら、直記のそばに駆け寄った。  直記はあいかわらず、何やらブツブツ、口のうちで呟きながら、小首をかしげて、滝のなかをのぞいている。私がそばへ近寄っても気がつかない。私はいっそ、このまま手早く目的を果たしてしまおうかとも思ったが、それでは|肚《はら》の虫がおさまらなかった。夢遊病者を殺すことは、寝首をかくのも同様ではないか。私はどうしても、ハッキリとした意識のもとにある直記を、思いきり驚かせ、|怖《こわ》がらせ、思い知らせた揚句、|弄《なぶ》り殺しをするように、殺してやらねば肚の虫が承知しないのだ。  私は用意の|荒《あら》|縄《なわ》で(これは途中、|納《な》|屋《や》から持ち出して来たものである)、手早く直記をしばりあげると、岩頭の松の木にくくりつけた。直記は赤ん坊のようにたあいなく、私のなすがままにまかせていたから、それは何んの造作もない仕事だった。私は直記を岩頭にひきすえると、両手で直記の|頬《ほお》に、はげしい平手打ちをくらわした。  ああ、このときの私の歓喜!  私は戦争からかえって以来、ながい間この瞬間を待っていたのだ。この瞬間の、肉のふるえるような喜びを想像するだけで、私はながいあいだの屈辱にたえて来られたのだ。私はポーの小説のピョンピョン|蛙《がえる》だ。この残忍な|復讐《ふくしゅう》の快感を味わうために、私は直記の毒舌を、いままで黙ってこらえて来たのだ。思えば小金井の古神家以来、私のやって来たことは、すべてこの瞬間の準備行動に過ぎなかったのだ。  私のはげしい平手打ちによって、直記はやっと夢から覚めた。直記ははじめ、自分がいまどういう状態にあるのか理解しかねる|風情《ふ ぜ い》であったが、それでもしだいに意識がもどって来ると、急にくしゃくしゃと顔をしかめて、子供がベソをかくような表情をみせた。 「屋代」  と、かれは|咽《の》|喉《ど》にからまるような声で、 「おれは……おれは……あの病気を起こしたのかい」  かれはあたりを|見《み》|廻《まわ》すと、 「ああ、おれはこの滝へずり落ちそうになったのだね。それで君が親切に、おれを救ってここへくくりつけてくれたのだね」  私はそのとき、声をあげて笑った。それから、はげしい平手打ちをつづけさまにくらわした。 「な、なにをするのだ、屋代」 「おい、直記、おれがそんな親切な男に見えるのかい、君からまるで、犬畜生のようにあつかわれながら、それでもおれがまだ、それほどの親切心を持っていると思うのかい。おれはそんな男じゃない」  私はそこでまた、はげしい平手打ちをくらわせると、あらゆる憎悪をこめて、パッとかれの顔へ|痰《たん》を吐きかけた。 「な、なにをするのだ、屋代、き、君は気でも狂ったのか」 「気はもうとっくに狂っているよ」  私は鼻のさきでせせら笑って、 「戦争からかえって来て、可愛いお静が君の暴力に征服されて、さんざんおもちゃにされたあげく、発狂したと知った瞬間から、この屋代は気が狂ったのだ」  お静という名を口に出すとき、私の奥歯はキリキリ鳴った。直記もまた、お静という名が私の口から出た瞬間、いっぺんに血の気をうしなってしまった。かれも|漸《ようや》く今宵の私がいつもとちがっていることに気がついたのだ。 「屋代!」 「まあ、いいからお聞き。おれはな、君のどんな毒舌でも|罵《ば》|倒《とう》でも、胸をさすってじっと我慢することが出来ると思っていたのだ。君もまた、そう思ったからこそ、安心しておれを|弄《なぶ》りものにしていたんだろう。しかし、ふたりとも間違っていたのだ。物にはおのずから限度のあることを、君もおれも気がつかなかった。おれがそれに気がついたのは、お静と君とのいきさつを知ったときからだ。そして、君はいまにそれに気がつくのだ」 「屋代、屋代……」 「黙れ、黙れ、黙って聞け。戦争にいくまえに、おれはどんなにいってお静のことを君に頼んだか。なんとかおれが帰るまで、お静の面倒をみてやってくれ。そして、この女だけには手を出してくれるな……と。それからおれはこうもいった。おれは意気地のない男でとても君のように図々しく女を口説けぬ。おれには生涯女は出来そうにないと思っていた。それが計らずも妙なチャンスから自分のものになった女だ。それだけにおれには尊い。世界中でただひとりの女なのだ。この女を失っては、二度とおれには女は出来ぬ。そういっておれはお静のことを君に託したのだ。そのとき君はなんといった。おれはそんなに女にかつえちゃいねえ。ひとの女になんの興味があるものかと。……それでもおれはまだ心配だったから、あのときたしかこういっておいた|筈《はず》だな。おれは弱気で意気地のない人間だ。君から野良犬のようなあつかいをうけても、反抗することの出来ぬ男だ。しかし、気をつけてくれろよ。こういう男がいちばん危険だということを。こういう男をおこらせたら、どんなことをしでかすかわからないということを。……そういったとき、君は表面せせら笑いながらも、内心かなり|怖《おそ》れていた様子だったじゃないか。それにも|拘《かかわ》らず、君はお静に手を出した。暴力をもって|手《て》|籠《ご》めにした。さんざんお静をおもちゃにした。自責の念にたえかねたお静が、発狂するにいたるまで、君はあれをおもちゃにしたのだ」  私はキリキリ奥歯を鳴らした。 「だから……だから、おれはいまこうして、あのときの約束どおりやっているのだ」 「屋代君、屋代君」  松の木にしばりつけられた直記は、身をよじるようにして|喘《あえ》いだ。月の光に額の汗が、ギラギラと光っている。 「それじゃあれは、みんな君の仕業だったのかい。蜂屋や|守《もり》|衛《え》を殺したのも……」  私は、ひっつるような声をあげて笑った。 「直記、君はいつもおれのことを、三文探偵小説家と|嘲《あざけ》ったな。そうだ。そのとおり、いかにもおれは三文小説家だ、しかし、人間というものはな、真実のことをいわれるのがいちばん痛いのだ。おれは君から、三文探偵小説家と|罵《ののし》られるたびに、腹の底が煮えくりかえるような怒りをおぼえた。しかし、ペンをとって書くおれの探偵小説は、いかにも三文小説だった。だから、だから、おれはペンに代わり、血と肉とで探偵小説を書いてみたんだ。どうだ、直記、おれの書いたこんどの探偵小説は、少しは君にも感銘をあたえたろうな」     第五章 最後の悲劇      最後の悲劇  愚かにも私はそのとき、勝利の快感に酔うていたのだ。直記をもう自家|薬《やく》|籠《ろう》中のものと思いこんでいたのだ。|活《い》かすも殺すも思うままだと、私は早まって考えた。だから猫が|鼠《ねずみ》をもてあそぶように、少しでもこの快感を長びかせようと、私は自分の|饒舌《じょうぜつ》をおさえることが出来なかったのだ。私は得意になってしゃべって、しゃべって、しゃべりまくった。そのあとに、どのような|陥《かん》|穽《せい》が設けられていようとも気がつかずに……。 「直記、おれはいま、お静が君のおもちゃになった揚句、発狂したということを、知った瞬間、気が狂ったといったな。そうだ、そのとおりだ。おれはその瞬間から、君に対する|復讐《ふくしゅう》を誓ったのだ。だが、どうしておれがお静のことを知ったか、誰からそれを聞いたか、君は知っているか、知るまい、知るまいね。それは八千代からだぞ。おれは八千代の口からきいたんだ。八千代はずっと以前から、おれの女になっていたんだぜ」  その瞬間、直記のからだが雷にうたれたようにはげしくふるえた。この男はいまでも八千代を愛しているのだ。その愛する女が、人もあろうに、おのれが犬猫同然にあつかっていた男に、身をまかせていたという事実は、直記の心をまっ暗にしたにちがいない。かれはもの|凄《すご》い眼をして私を|凝視《ぎょうし》した。  私はひっつるような声をあげて笑った。 「直記、君は女に関しては、何でも知っているようなことをいっていたな。しかし、ほんとはなんにも知っていなかったのだ。君は八千代におれのことを話した。売れない三文探偵小説家の屋代|寅《とら》|太《た》という男は、自分の|幇《ほう》|間《かん》も同様の人物だと打ち明けた。直記、それがそもそも君の失敗のもとだった。八千代のような物好きな女が、それを聞き流しておく筈はない。あいつは小説家、ことに探偵小説家とはいかなる動物なるやと好奇心を起こした。そして自分からおれのところへ押しかけて来たんだ。それがそもそも、今度の事件の|発《ほっ》|端《たん》なのだ」  直記の汗はますますひどくなってくる。滝のように|頬《ほお》をつたって流れる汗が、月の光に|玉簾《たますだれ》のようにキラキラ光った。 「おれは|幾《いく》|度《ど》もいうとおり、意気地のない人間だ。とても女を口説くような、勇気のある人間じゃない。だから、八千代がどんなに誘いかけても、おれは|唯《ただ》苦笑をうかべて受け流していた。事実また、おれが誘いの手に乗ったら、八千代はひらりと体をかわしたろう。そして、それきり寄りつかなくなったろう。それが、ああいう女の趣味だ。ところがおれはその手に乗らなかった。|朴《ぼく》|念《ねん》|仁《じん》みたいな顔をして受け流していた。それがあのじゃじゃ馬をじりじりさせたのだ。あいつはどうしても、おれに発情させねばおかぬと決心していたらしい。勢い向こうからしだいに深みにはまって来た。そうしているうちに、はからずもあいつが|洩《も》らしたのがお静のことだ。むろん、八千代はお静という女がおれの女だと知っている筈はない。君の話が出たついでに、ついお静の|噂《うわさ》がとび出したのだ。おれはそのとき、はじめてお静の悲惨な消息を知ることができた。いつか君はおれにむかって、お静は空襲で行方不明になったといったが、それはみんな|嘘《うそ》だということを知ったのだ。幾度もいうとおりおれはそのとたん気が狂ったのだ。そしておれのような男を怒らせることが、どんなに危険かということを、八千代もそのとき知ったろう。おれはその日、暴力をもって八千代をおれのものにしたのだ」  直記のからだが、またはげしくふるえた。怒りが恐怖を押しのけたらしい。かれの顔には名状することのできぬ嫌悪の色がうかんでいた。私はまたその顔に|唾《つば》を吐きかけてやった。 「やい、直記、八千代は処女だったぜ。これはおれにもちょっと意外だった。どうせ、君のことだから、一度ぐらいはものにしているだろうと思ったのさ。なぜ、君はあいつに手を出さなかったのだい。兄妹|相《そう》|姦《かん》をおそれたのかい。しかし、君とあいつが異母兄妹という確証はどこにもないじゃないか。あっはっは、八千代の夢遊病かい、君はあれを見て、八千代と兄妹であるという確信を強めたのだね。|親《おや》|爺《じ》からおのれに伝わった同じ病気を、八千代も持っている。してみれば、八千代も親爺のタネにちがいない。……そのことが君のような男にもブレーキになったのだろう。だがそのことなら、何も心配することはなかったのだ。八千代の夢遊病はみんな嘘さ、ありゃ、君の|毒《どく》|牙《が》を避けるために八千代の演じたお茶番さ。君と兄妹であると思わせるために、おれが八千代に知恵をつけたのだ」  直記のからだがまたふるえた。額に盛りあがったみみず|腫《ば》れが、いかりのために爆発しそうであった。  私はその鼻先でせせら笑った。 「はっはっは、惜しいことをしたなあ、残念なことをしたなあ。そうと知ったらものにしておくんだったろう。あっはっは。おれは八千代を自分のものにしたが、愛情らしいものは一度も感じたことはなかった。おれは、ただ憎しみのためにあいつを抱いてやったのだ。君が八千代に首ったけだということを、おれはまえからよく知っていた。だからお静の返報に、君の|惚《ほ》れている八千代をおもちゃにしてやろうと思ったのだ。八千代を抱いてもおれはいつも冷静だった。いや、冷静だったとはいえないかも知れぬ。憎悪と|復讐《ふくしゅう》でいきり立っていたのだから……」  直記の顔には、そのとき世にも奇妙な表情が現われた。それは怒りでもない、恐怖でもない。ひょっとすると、それは八千代に対する|憐《れん》|憫《びん》であったかも知れぬ。だが、そのことがまた私をかっとさせた。 「あっはっは、君は八千代を可哀そうな女だと思っているんだろう。そのとおり、まったくそのとおりだよ。そういう関係になりながら、おれの心が少しも燃えて来ないのを知ると、あいつはじりじりして来たのだ。あいつはおれに惚れてたわけじゃなかったろう。そのことだけは安心してもいい、|唯《ただ》八千代のように自尊心の強い女は、男に自由にされながら、しかし男の心が自分にないということは、このうえもない屈辱なのだ。だからあいつは、あらゆる手段、あらゆる狂態をつくしておれの心をつかもうとした。まったくそれは悲惨なほどの努力だったよ。おれと八千代の関係は、終始一貫そのとおりだった。おれたちは愛しあってたわけじゃないんだ。反対にはじめからしまいまで憎みあっていたんだ。そして、その憎しみのなかから、ソロソロとあの血みどろな三文探偵小説のプロットが芽生えて来たのだ」  さすがに私も|喋《しゃべ》りつかれて|咽《の》|喉《ど》が乾いた。そこで私は流れの水を手ですくって咽喉をうるおし、舌をしめした。  それからまた、直記のまえに立って演説をはじめた。 「そもそも今度の事件を最初にいい出したのは、おれじゃないんだ。八千代なんだ。君も八千代が、古神家と仙石の|悪《あく》|因《いん》|縁《ねん》を、どんなに嫌悪していたか知っているだろう。八千代は母を憎んだ。君の|親《おや》|爺《じ》を憎んだ。君を憎んだ。|守《もり》|衛《え》を憎んだ。バカの|四《よ》|方《も》|太《た》を憎んだ。それのみならず自分自身をも憎んでいたのだ。八千代は口癖のように、みんなみんな殺してしまいたい。そして自分も死んでしまいたいといいつづけていた。それがおれに今度の小説の筋書を思いつかせたのだ。おれは冗談のようにこういった。君がそんなに殺したいなら、みんな殺してやってもいい、しかし、自分が死ぬなんてバカらしいじゃないか。みんな殺してそのあとで、自分は涼しい顔をして生きていたほうがよっぽどいいじゃないかと。八千代も口では死にたいといっているものの、ほんとうは死ぬのはいやだと見えて、そんなことができるかと乗って来た。そこでやりかたによっては出来ぬこともないと、持ち出したのが、他人を殺して首をチョン|斬《ぎ》る。そしてそれを自分の身替わりに立てて、自分は別の人間になって、涼しい顔をして生きているという、探偵小説としては、いちばん初歩のトリックだ。八千代はしかし探偵小説については|素《しろ》|人《うと》だから、初歩もなにもわかったものじゃない。あいつはそのトリックに、とびついて来たのだ」  直記の顔色に、また恐怖のいろがよみがえって来た。そのことが私の雄弁をたきつけた。私は夢中になってしゃべりつづけた。 「おれはこういうふうに八千代を口説いた。誰か八千代に姿かたち、|年《とし》|恰《かっ》|好《こう》の似た女を捜し出し、そいつを殺して首をチョン斬る。そして死体に八千代の着物を着せておく。そうすることによって八千代は死んだものになれると。この考えは八千代をひどく喜ばせた。あいつはね、死にたくはなかったけれど、古神家の一員であるということには、ほとほと嫌悪を感じていたのだ。だから、別の人間になって生まれかわれるということが、ひどくあいつの気に入ったのだ。それからつぎにおれはこういう案を出した。直記——君のことだよ、おい。君を殺して首をチョン斬る。そして、その死体をおれの身替わりに立てる。そうすればおれも死んだものになれるから、別の人間と生まれかわって、そのときは八千代を真実愛してやろうと切り出したのだ。この考えがまた八千代をよろこばせたのだ。ひょっとすると、あいつはそうでもしなければ、とてもおれの心をつかめないとでも思ったのかも知れないのだ。そういう点からいうと、あの女もあれで相当、純情なところがあったんだなあ」 「八千代は……八千代はおれを殺すことを是認したのか」  直記がはじめて口をひらいた。押しつぶされそうなしゃがれ声だった。私はせせら笑って、 「おお、是認したとも、有頂天になってよろこんだぜ。君はいったい、どう考えてるか知らないが、八千代にゃ君なんか眼中になかったんだ。君を殺すことぐらい|屁《へ》とも思っていなかったんだ」  直記は低い|唸《うな》り声をあげた。私は何んともいえぬ勝利の快感を味わった。 「こうしてはじめは冗談から出発したこの計画は、しだいに熱をおびて真剣になって来たんだ。ところで、おれはこんなことを思いついた。いきなりほかの女を殺して、八千代の身替わりに立てるといったところで、うまくいくかどうかわからない。それにはそれだけの伏線を張っておかねばならぬ。三文作家でも探偵作家だ。探偵小説という奴が、伏線の文学であることぐらいは、おれだって知っている。そこで八千代の事件よりまえに、ひとつ首をチョン斬る事件をこさえておこうと考えついた。それがあの|守《もり》|衛《え》と|蜂《はち》|屋《や》の事件なんだ。ここで首をチョン斬って、死体の|身《み》|許《もと》が、どっちがどっちだかわからんというような場合をこさえておく。それによって八千代の場合のカムフラージをしようというわけだ。もっともおれがこんなことを考えついたのは、八千代がいちばんに守衛を殺してくれとせがんだからだ。八千代は君も嫌いだったが、守衛はもっと嫌いだったそうだ。その点、君も安心するがいい。守衛の顔や姿を見ると……いやいや、声を聞いただけでも、ゾーッと鳥肌が立つような嫌悪をおぼえたそうだ。そこで八千代の|請《こ》いにしたがって、守衛殺しをいろいろ計画しているうちに、ふと思いついたのがあの蜂屋だ。蜂屋というやつは君と同じだ。おれはあいつの毒舌に、どれくらいやっつけられたかわからない。むろん、殺すほどのことはなかったが、殺しても惜しくない人物だ。そこでおれは蜂屋と守衛の姿かたちを調べてみたが、そのときにゃ驚いたね。何がって、あんまりふたりが似ているからさ。まったく、これこそ天の与えと思った。天がおれにこの計画を、実行しろと命令しているんだと信じたのだ。それがおれを有頂天にさせたのさ」  月はもうだいぶ西に傾いた。しかし、夜が明けるまでにはまだ間があるのだ。私は自分の|饒舌《じょうぜつ》に、陶酔したようにしゃべりつづけた。 「こうしておれの計画が、いよいよ熟して来たところで、八千代にあてた、あの奇妙な予告状みたいなものがはじまったのだ。あれこそ今度の事件の発端で、いよいよおれが計画実現の第一歩を踏み出したわけだ。ところであの警告状だが、あれにはふたつの意味があったんだぜ。ひとつはいうまでもなく蜂屋の|太《ふと》|股《もも》に、守衛と同じ傷をつくっておくためだ。八千代は守衛の|怪《け》|我《が》を知っていたから、蜂屋のからだにも、同じマークをつけておく必要があったんだ。それからもうひとつの意味というのはほかでもない、君に対しておれの腕をみせようというわけだ。は、は、は、おれはな、ただ人殺しをすればすむんじゃなかったのだ。おれは、血と肉で探偵小説を書こうとしていたんだ。そしてそれを君に読んでもらおうというのがおれの真意だ、小説だから、できるだけ、奇抜で、刺激の強いのがよい。それにゃ、古神家はお|誂《あつら》え向きの舞台だったぜ。どうだい、直記、おれの演出は、……」  直記は黙ってうつむいている。おそらく、もう反抗する勇気もないのであろう。私は惰性のようにしゃべりつづけた。 「こうして蜂屋の太股にも守衛と同じようなマークができた。あとは蜂屋を、古神家へつれてくることだが、このほうは八千代がうまく演出したよ。八千代の|手《て》|管《くだ》で蜂屋のやつ、のこのこ古神家へやって来やアがったが、これがあいつの運のつきさ。一方、八千代の懇請で、おれもはじめて古神家へ招待される。こうしてお|膳《ぜん》|立《だ》てはすっかりできた。いや、君の親爺の酒乱という、意外のお景物まで加わって出来すぎるほどうまくできたよ。そこで、早速、実行にとりかかったのだ」  私はそこで急に言葉を改めると、 「ねえ、直記、金田一耕助というやつは、あれで案外ボンクラじゃないぜ。少なくとも蜂屋殺害の時刻を当てただけでもえらいものさ。そうだ、蜂屋の殺されたのは九時よりまえ、だいたい、八時ごろのことなんだ。殺したなア八千代さ。蜂屋を離れへおびき出して、身をまかせるようなふうをして、頭をガンとやったのさ。なに、人殺しなんてそんなにむずかしく考えるほどのものじゃないよ。大胆にやれば、なんの造作もないことなんだ。さて、そのあとでこのおれが君の部屋から持ち出した村正をさげて出向いていく、そして蜂屋の首をチョン|斬《ぎ》ったんだ。おれも戦争で、ずいぶんたくさん首を斬ったから、首斬りにゃ慣れているんだ、これまた、なんの造作もないことだったよ。さて、首をかくして……そうだ。蜂屋の首はまだあの邸内にある筈だ。どこにあるかって……? そりゃまあここではいわないでおこうよ。見付け出せないのは、警察の捜しかたが|拙《まず》いからさ。さて、首をかくし、村正を君の部屋へかえすと、それから間もなく何|喰《く》わぬ顔をして食堂へ現われたんだ。ここでおれの考えたトリックは、そのとき蜂屋の血でぬらしたスリッパで、八千代に真夜中に歩かせることと、六時ごろに蜂屋に食わせた食物を、十時ごろに食ったと思わせることだったが、金田一のやつ、両方とも看破しゃアがったから恐れ入った。しかし、なに、構うものか、それによって|却《かえ》って君の疑いが深くなって来たんだからね。あっはっは!……」 「守衛は……守衛はいつ殺したんだ」  直記が|蚊《か》のなくような声でうめいた。私の心は急に得意でふくれあがった。 「ああ、あの守衛殺しか。守衛殺しについちゃ、おれは実にうまい方法を考えたんだぜ。まあ、聞け、こうだ。守衛は八千代にだまされて家を出たんだ。家を出ておれの下宿で八千代を待ち合わせることになったんだ。おれの下宿は知ってのとおり、|雑《ぞう》|司《し》ガ|谷《や》の古寺の一室で、いつでも出入り勝手だから、人眼につく心配も少ないんだ。それでもおれはあの体だから、途中で人の注意をひいちゃならぬと思って、あいつに大きなリュックをかつがせることにした。リュックをかつぐことによって背中の|瘤《こぶ》もかくれるし、姿勢の悪いのも人眼をひかぬ。何しろ担ぎ屋ばやりの当世だから、そんな姿は珍しくない。守衛はこれでうまく人眼をごま化して、おれの下宿へたどりつくと、寝床を敷いて、八千代のくるのをいまかいまかと、胸をワクワクさせながら待っていたんだ。そして、待っている間に毒をのんで死んだんだ」 「毒……?」  直記は眼をまるくした。 「そうよ、そこがおれのトリックさ。八千代はあの晩おれの下宿で、守衛に身をまかせると約束した。ところが守衛というやつは、いつか君も見たとおり、東西の強精剤を服用しているほど、あのほうにかけちゃ自信のない男なんだ。|惚《ほ》れた女が身をまかせるというのに、あれよあれよじゃ愛想をつかされる。そこでかねて用意の強精剤を服用したわけだが、どっこい、そいつが、いつの間にか毒薬にかわっていたというわけだ。守衛はきっと、八千代を抱いているところを夢に見ながら、死んでいったことだろうよ」  直記がまた低いうめき声をあげた。私は構わず語りつづける。 「翌日、おれは一度下宿へかえると、守衛の首を斬り落とし、からだは近所の防空|壕《ごう》のあとへ埋め、首だけ持って小金井へかえって来たのだ」 「しかし、しかし……あの首をうちの親爺が発見したのは……?」 「あっはっは、ありゃア何も、君の親爺が発見したわけじゃないんだ。親爺はただ、夢中遊行を起こして、かねて気にしていた|湧《ゆう》|水《すい》|孔《こう》をのぞきにいっただけのことなんだ。ところが、そのあとを尾行したおれは、なるほど、こいつはいいかくし場所だと思ったのと、ここらで守衛の首が発見されなければ困るので、ほかへかくしていた首を、あの孔のなかへ押しこんだ。そしてそいつを|四《よ》|方《も》|太《た》といっしょに発見するような段取りにしたんだ」  一瞬、シーンとした沈黙が、ふたりのあいだに落ちて来た。どこかで|月夜鴉《つきよがらす》が|啼《な》く声がする。ふいに直記がすすり泣くような声でいった。 「ああ、なんという男だ、君は君は……悪の天才だ。悪魔の|化《け》|身《しん》だ」  その言葉をきくと、私の心は愉悦にふるえた。 「有難う、直記、君に|褒《ほ》められたのははじめてだな。してみると君にもこの小説が気に入ったんだね」 「それで、それで、八千代はどうしたんだ」 「あっはっは、八千代か、八千代は君の知ってのとおりだ、首無し死体となって一昨日の晩、この|滝《たき》|壷《つぼ》で発見されたじゃないか」  突然、直記の眼が、いまにもとび出しそうになった。直記は大きく肩をふるわせながら、 「悪魔。悪魔、それじゃやっぱり……」 「だからはじめからいってるじゃないか。おれは八千代をおもちゃにして来たのだと……おれは始終一貫、あいつを憎みつづけてきたんだ。一度だって愛情らしいものをかんじたことはないんだ、まあ、聞け、直記。君がお静をつれて東京をたつと、おれはすぐそのあとを追っかけてきたんだ。そして、蜂屋をよそおって、お静を尼寺からつれ出すと、あるところへかくしておいた。それからやっぱり蜂屋の姿で、八千代の部屋へしのびこみ、久しぶりでうんとあいつを喜ばせてやると同時に、つぎの行動の打ち合わせをした。その打ち合わせによると、八千代が夢遊病をよそおうて竜王の滝へ出向いていく。そして滝壷のうえにかくしてある蜂屋の|衣裳《いしょう》で一人二役をやってみせる、そのあとへ駆け着けたおれが、お静を殺して首をとり、これを八千代の身替わりに立てる、と、こういう寸法になっていたんだ。ところがそれは表面だけで、おれの本心は別のところにあった。おれはここへ駆け着けると君たちと別れて、まっすぐに八千代のひそんでいる|洞《ほら》|穴《あな》へ出かけていった。そしてあいつを殺してしまったんだ」 「ああ、恐ろしい。君は……君は……」 「何とでもいえ、君が口を|利《き》けるのももう長いことじゃない。金田一耕助という探偵は、おれの奇妙な論理にひっかかって、あの首無し死体を、お静だと思っている。それと同様の論法から、いま、君を殺して首をチョン|斬《ぎ》っておくと、あいつはそれをおれの死体と鑑定するのだ。そして君と八千代がすべての事件の犯人ということになって、やっきとなって行方をさがすだろう。おれはその間に可愛いお静と姿をくらます。これがおれの小説のほんとうの結末なのだ。そしてそれを|匂《にお》わせるために、事実とは多少ちがった、と、いうより、事実を少し省略し、自分の感情をいつわった記録を書き上げ、古神家の自分の部屋へのこして来た。君の首をチョン斬る道具も、逃亡に必要な衣裳や荷物も、みんなこの山の中にかくしてある。直記、それじゃいよいよ小説の結末をつけようじゃないか」  私はうしろ手にしばられた、直記の首に両手をかけた。だが、そのとたん背後から、誰かが私の肩を|叩《たた》いた。  私はそれこそ鋭い|槍《やり》ででもつかれたようにギョッとして振り返ったが、そのとたん、眼の前がまっくらにかげってくるのをおぼえた。そのかげりの中に、天も地もいっしょくたになって、くるくるとはげしく旋回するかと思われ、耳の中で百雷が、一時に|炸《さく》|裂《れつ》するような感じであった。  私のうしろには金田一耕助と磯川警部、それから、おお何んということだ、気の狂ったお静が、無心の顔をして立っているではないか。  我れ敗れたり!  私は急に足下の岩のくずれていくのをおぼえた。私はよろめき、|眩暈《め ま い》をおぼえ、|嘔《おう》|吐《と》を催し、それから、気が遠くなっていった。      勝 負  私はもう何も書きたくない。敗軍の将、何をか語らんだ。  それに私の語らねばならぬこと、即ち、私の計画、あの血みどろな、悪魔の設計図のような計画については、だいたい、前の二章で語りつくしたと思う。  しかし、金田一耕助はいうのだ。 「そうですね。いままでお書きになったところで、だいたい、あなたのお気持ち、あなたの計画、それからひいては、この事件に秘められている|謎《なぞ》も、わかると思いますが、なお念のために、もう一度、あなたの計画のそもそもの発端から、わかりやすく説明しておいたほうがいいように思いますね。どうせ、そう手間のとれることではないのですから」  金田一耕助という男は強引な男だ。見かけはショボショボとした、なんの取柄もない男だが、なかなかどうして、いったんこうと|睨《にら》んだら、こんりんざい、|喰《く》いついて放さぬ男なのだ、この男は。……  敗残の私はもう、この男の|傀《かい》|儡《らい》みたいなものである。この男のいうことならば、私は唯々諾々として、聞くのである。そこでこうして、恥多き、敗残の記録を書きつづけようとしている。  私はこの記録の冒頭に、旧幕時代、古神家の暴政に反抗して立った、百姓一揆の首謀者四名、捕えられて刑死したが、それらの四人の霊をまつって、いまだに四人衆様という神社があるということをいっておいたが、その四人衆のひとりが、私の先祖であるといえば、物語はあまりにも古風になるであろうか。  しかし、それが事実なのだから仕方がない。  私が物心つく時分から、繰返し繰返し寝物語にきかされたのが、この四人衆様の犠牲的な行動と、それから、この悲惨な最期にからまる物語であった。私の一家では、そういう先祖を持っていることが、こよなき誇りであったと見えて、その人にからまる物語は、もはや事実の域をはるかに越えて、一種神秘な、神話めいたものになっていた。  その人の行動の勇敢さは、もはや人間ばなれがしていると同時に、その人の最期のさまの悲惨さ、|凄《せい》|惨《さん》さは、それこそ、目もあてられぬまでに、おどろおどろしく誇張されていた。そのひとの最期のさまの悲惨さを、誇張するということは、とりもなおさず、そのひとの敵に対する、敵意を|煽《あお》るためであった。そのひとの敵——それはいうまでもなく、古神家と仙石家の代々の当主である。  私がうまれたころ、古神家も仙石家も、もう昔の古神家でも仙石家でもなかった。かれらはもはや昔の領内の民百姓に対しても、なんの権威も持たない、単なる華族に過ぎなかった。それにもかかわらず、なかば伝説化した四人衆様の英雄的行動と、古神、仙石家に対する遺恨と敵意は、代々語りつがるべき家訓のように、生々しく、毒々しく私の幼い頭脳に吹きこまれたのである。  いまだ幼く、いたってものに感じ|易《やす》かった私は、その物恐ろしい、|磔《はりつけ》の場面の話を聴くたびに、ふるえあがり、声を立てて泣き出したものである。愚かな私の祖母や父は、すると、しすましたりとばかりに、私の耳に、古神、仙石両家に対する|呪《じゅ》|詛《そ》と、憎悪を吹きこんだのであった。  いまから思えば、祖母や父のそういう物語は、一種の|炉《ろ》|辺《ばた》物語的な楽しみに過ぎなかったにちがいない。|何《な》|故《ぜ》といって、その頃、私たち一家は、すでに郷里をひきはらって東京へ出ていたし、また、古神、仙石両家からして、すでに大分まえから郷里には住んでおらず、祖母や父が、両家の東京における住居を知っていたかどうかさえ疑わしい。  しかし、|幼心《おさなごころ》に吹きこまれた呪詛の声は、毒素の如く私の体内にふかく植えつけられていた。それは、理性ではどうすることも出来ない、本能のように、私の感情の一部を支配したのである。  だが、それかといって、それがためにあのような、恐ろしい犯罪を私が|敢《あえ》てしたと思ってくれては困る、それはあまりにも|滑《こっ》|稽《けい》なことだ。遠い、遠い、伝説化した先祖のために、|復讐《ふくしゅう》を試みるほど、私は|素頓狂《すっとんきょう》な人間ではないつもりだ。  しかし、はじめて私が大学で、仙石直記にあったとき、一種異様なショック、毛穴を逆さに|撫《な》でられるような、不思議な嫌悪を感じたことは事実である。これはいったい、どう説明したらよいのだろう。幼いころ吹きこまれた毒素も、長ずるに及んで……ことに祖母や父がなくなってからは、しだいに効果がうすれ、大学へ入るころには、私もほとんど、その|呪《じゅ》|縛《ばく》からのがれていた|筈《はず》なのである。それにも|拘《かかわ》らず、仙石直記の素姓を聞いた|刹《せつ》|那《な》、何かしら、古い昔の記憶がよみがえって来たような、悪血の騒ぎをおぼえたのはどういうわけなのだろう。しかも、私はその直記から補助を受けなければならなかったのである。  直記は何故、私を放っておかなかったのだろう。何故、おせっかいにも、私のパトロンの役など買って出たのであろう。かれもまた、四人衆様の伝説は知っているのである。いつだったかそれについて、 「すると君とおれとは、敵同士になるわけだな」  と、そういって毒々しく笑ったことがあるくらいだ。  それを知っているのなら、何故、私をそうっと放っておいてくれなかったのか。まさかかれは、先祖の罪ほろぼしをするつもりではなかったろう、そんな殊勝な所のある男ではない。おそらく悪党がりのかれにとっては、そういう|因《いん》|縁《ねん》のまつわる私を、おもちゃにし、手玉にとることによっていっそうの|嗜《しぎ》|虐《やく》的な快感をおぼえたのであろう。  思えば直記と私とは、前世からの悪因縁であった!  しかし、それかといって、それだけのことで、私といえども、今度のような、あの恐ろしい犯行を思い立ったわけではない。  私が直記を殺そうと決心したのは、まえにもいったとおり、お静の一件を知った刹那であった。  私にとってお静は掌中の|珠《たま》であった。何物にもかえがたいこの世の宝であった。そのお静が、直記のために、おもちゃにされ、気が狂ったと知ったときの私の怒り、憤り——ああ、あの瞬間、私の気は狂い、直記はこの世から抹殺されなければならなかったのである。  しかし、私は直記のやつを、ただ殺しただけではあきたりなかった。私はかれに、死よりももっと強い、はげしい恐怖を味わわせてやらなければ気がすまなかった。髪の毛も白くなるような、皮膚の色も変わるような、血みどろな、骨も砕ける恐怖をうえつけてやらねばおさまらなかった。  それと同時に、直記を殺すことによって、自分が罰せられるのはまっぴらであった。直記をいじめ、こわがらせ、狂死するほどの恐怖をなめさせたのち、相手を殺しながらも、自分自身はその罪から、のがれなければならなかった。  私はそこでいろんな方法をかんがえた。ああでもない。こうでもないと、いろんな殺人方法を練ってみた。  直記にいわれるまでもなく、作家としての私は第三流である。三文作家だ、煮ても焼いても食えない作家だ。しかし、たとえ書くほうは駄目でも、読むほうと来たら実に好きである。私は探偵小説はいうに及ばず、世界中のありとあらゆる犯罪実話を読破している。私はいままで読んだもののなかから、自分に利用出来そうな、殺人方法はないものかと、あれやこれやと考えた。そして、その揚句に思いついたのが、今度私がやってのけた方法——いや、やってのけようとした方法——即ち、直記を殺して首をとり、それを自分の死体とみせかけようという寸法だ。つまり、直記を殺すと同時に、自分は死んだものとなり、刑罰からのがれようという方法なのである。そして直記を逆に犯人に仕立てようという寸法なのである。  私が何故、このようなショッキングな方法を選んだかというに、私はこの事件を出来るだけ、血みどろに、生々しく、陰惨なものに塗りあげたかったのだ。それによって直記を|怖《こわ》がらせると同時に、私の体にたぎり立つ、悪血の騒ぎをしずめることが出来ると思ったからである。それには古神家の伝説や、古神と仙石両家を骨がらみにしている、あのいやらしい、さまざまな因縁話が、お|誂《あつら》え向きの世界をつくっていたし、それに、戦争からかえって来た私は、人をブッタ|斬《ぎ》ったり、首をチョン斬ったりすることを、なんとも思わないほど、神経が鈍磨していたのだ。  そこで私は決めたのである。直記を殺し、首をチョン斬っておくことに……。  しかし、何んの準備もなく、いきなりそれをやることは、私の目的にそわないおそれがあった。それでは直記を怖がらせることにならないし、かつまた、死体入れ換えという|欺《ぎ》|瞞《まん》を、警察当局に、うまく納得させることが出来るかどうか、疑問だからである。  そこで私は準備殺人をやらねばならなかった。その準備殺人の犠牲者、あるいは道具としてえらばれたのが、蜂屋小市と|守《もり》|衛《え》である。  あの岩頭における直記と私との対話……と、いうより、直記相手の私の独白によって、諸君もすでに御存じのとおり、私は直記につれられて、はじめてみどり御殿の門をくぐった時より、はるか以前から、古神家の内情に精通していたのである。私は八千代の口から、守衛という佝僂の特徴を微に入り、細に入り、きいていた。そして、それがたまたま、戦後売出した佝僂画家、蜂屋小市に酷似していることに気がつくと、私はまるで天の啓示をうけたように驚き、かつ、喜んだのであった。  蜂屋小市も直記同様、私にとっては|面《つら》|憎《にく》い男であった。この毒舌家のために、私は何度公衆の面前で、侮辱され、|面《めん》|罵《ば》されたかも知れない。しかし、そのことが蜂屋殺しの直接の動機となったわけではない。蜂屋がそれほど、面憎い人間でなかったとしても、私はやっぱり蜂屋を犠牲者としてえらんだであろう。つまり守衛とよく似た佝僂であったことが、あの男の不運であったのだ。  さて、こうして蜂屋を道具に使うことにきめると、まず守衛に、蜂屋と同じような服装をさせることにした。なに、そのことは雑作もないことだったのだ。守衛という男は、八千代のいう言葉なら、なんでもきく男だったから。こうして守衛も蜂屋と同じように、あの気取った、出来損ないの芸術家のような、服装をするようになったのだ。こうして、第一の準備工作が終わったところで、八千代にあてた、あのコケ脅かしのおまじないが、遠く九州から、ついで京都から、そして最後に東京から送られたのだが、むろんあれは私が八千代と相談のうえでやったことで、さる人に頼んで|投《とう》|函《かん》してもらったのだ。むろん、そのひとは手紙の内容がそんな|変《へん》|挺《てこ》なものであろうとは、夢にも知っていなかったが。……なお、ついでにいっておくが、あの脅迫状のなかに使われた、首をチョン斬った写真の主は、蜂屋ではなく守衛で、それは守衛も承知のうえで、八千代が撮影したものである。むろん、そういう写真をとらせたとき、守衛はそれがあのような、恐ろしい事件の準備工作として用いられようとは、夢にも知ってなかったであろう。  こうして、いよいよ準備は|進捗《しんちょく》した。そして、この物語の第一幕ともいうべき、キャバレー『花』の幕が切って落とされたのだ。  あの晩、八千代と蜂屋は偶然、『花』で落ち合ったことになっている。そして、それには違いなかったが、八千代が『花』へいくのを見届け、それから別のところで飲んでいる、蜂屋の一行に『花』の宣伝をした男のあることを、警察でも見落としていたし、いや、警察が見落とすまえに、蜂屋やその連れでさえ、そのことを忘れていた。そして、蜂屋に『花』へいくように、暗示をあたえた人物こそ、かくいう私なのであった。  こうしてその夜、まんまと首尾よく、蜂屋の|太《ふと》|股《もも》に、守衛と同じような|弾《だん》|痕《こん》をつけることに成功したのである。  かくて準備は全く終わった。いまや蜂屋をみどり御殿におびき出し、守衛の身替わりに立てるばかりになった。そして、そのことは十分うまくいったつもりであった。ただ、あの村正と金庫の一件さえなかったら……。  そのことについて、金田一耕助はこういっている。 「私がどうして、あなたに眼をつけたかというのですか。そうですね。あなたにとって、最も大きな致命傷となったのは、直記氏があの村正を金庫の中へしまいこんだことですね。これで犯行の時刻の|欺《ぎ》|瞞《まん》が、すっかり無駄になってしまった。即ち、犯人は八時前後に起こった殺人を、十二時以後に起こったことだと思わせようとしていたのです。そのために八千代さんを使って、いろんなお芝居をさせている。それにも|拘《かかわ》らず、十二時以後には、兇器はチャンと金庫のなかにおさまっていて、何人といえどもそれに近付くことは出来なかった。これで犯人の計画はスッカリ無駄になるとともに、直記氏は無意識のうちに、自分の無罪を証明していたのですよ。|何《な》|故《ぜ》といって、直記氏が犯人なら、兇器を金庫へしまうような、そんな矛盾したことはやらなかったでしょうからね」  そうなのだ。直記のやつが村正を、金庫の中へしまったことが、そもそも私の失敗の第一歩だったのだ。それを思えば完全に、私は直記に敗けたことになるのだ、おお、なんという残念なことだろう。  しかし、当時にあっては、警視庁でも、そのことを、大して重視しているふうにも見えなかったので、私もたかをくくっていた。まさか金田一耕助のような男が現われて、私のやった間違いを、ひとつひとつ、洗いあげようとは夢にも思っていなかったから。  金田一耕助はまたいった。 「それから、もうひとつあなたの致命傷となったのは、小金井の屋敷の離れにのこっていた、ローマ字で書いた名前ですね。あなたはあれを何故、全部、削りとってしまわなかったのです。何故、あんな小細工をなすったのです。あなたはあれをYachiyoと読み、蜂屋が八千代を待っている間に、書いたのだろうと、いわれたそうですが、それにしては|痕《きず》|跡《あと》が古過ぎることに気がつきました。そこで私は拡大鏡で、入念に調べてみたのですが、その結果、それはYachiyoではなく、Yashiroであることに、私は気がつきましたよ。つまり誰かがsをcにかえrをyに書きかえたのですね。そうわかると同時に、私はあなたの計画の大部分が、ハッキリわかって来たのですよ」  そうだったのだ。金田一耕助もいうとおり、壁にあの文字を見つけたとき——それは蜂屋を殺した直後だったが——私はあれを削りとるべきだったのだ。ところがYashiroとYachiyoの不思議な相似が、つい私を誘惑し、あのような小細工を|弄《ろう》してしまったのだ。全部削りとっておけば、そこからはなんの|手《て》|懸《がか》りもえられなかったであろうに。  金田一耕助はつづけてまたいう。 「さて、あの文字がヤシロだとわかると、誰かあなたに関係のあるひとが、あそこに住んでいたことになります。そこであなたの過去を調べているうちに、浮かびあがって来たのがお静さんなる女性です。これで万事わかりました。即ち、あなたが表面によそおうていらっしゃる以上に、深い関係を、この事件にもっていらっしゃることが……」  金田一耕助はそれから、深刻な表情をしながら、私の書きためておいた、『岩頭にて』より以前の記録を、コツコツ指ではじきながら、 「あなたはこの記録を、ここでプッツリ、|尻《しり》|切《き》れトンボにしておくつもりだったのですね。そして、直記氏を殺し、首をチョン|斬《ぎ》り、御自分は姿をくらます予定だったのでしょう。そして、この記録の指さしている暗示から、直記の首無し死体を、自分の死体だと警察の人達に、思いあやまらせる方針だったのですね。いや、今度の事件で、あなたの目的としたところは、|唯《ただ》その一点、即ち、直記氏を殺し、その死体を自分の身替わりに立てるというところにあったのですね」  私は無言のままに|頷《うなず》いた。そうなのだ。唯一つその目的のために、私は蜂屋を殺し、守衛を殺し、最後に八千代を殺したのだ。そして首尾よく直記を殺すことが出来たら、私は、狂えるお静を抱いて、身をかくすつもりであったのだ。  それだのに……それだのに……私はすべての準備行動に成功しながら、唯一つのそれが本当の目的であったところの、直記殺しにおいて|躓《つまず》いてしまった。そしてお静は……。  いや、お静のことについては心配はいらぬ。金田一耕助が万事ひきうけたといってくれた。私はあの男を信頼する。私を打ち負かした憎い男だが、私はなんとなく、あの男には好意が持てるのだ。  私はつかれた。もうこれ以上書きつづけるのがいやになった。ここらで筆をおくことにしよう。  いや、最後にもうひとこと、書き加えておくことがある。それはこの間、金田一耕助がわざわざ|報《し》らせてくれた仙石直記のその後の状態である。  今度の事件のショックが、直記の体内に潜伏していた病気を誘発したとみえて、かれは目下、早発性|痴呆症《ちほうしょう》とやらで、生ける|屍《しかばね》も同様な状態だそうである。  直記が|涎《よだれ》を垂らしながら、とりとめもない独り言を|呟《つぶや》いているところを想像すると、少しでも、私の|溜飲《りゅういん》はさがるのだ。  してみると、おお、私と直記のこの血闘は、いったいどちらが勝ったのであろうか。 本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして、不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品発表時の時代的背景と文学性を考え合わせ、著作権継承者の了解を得た上で、一部を編集部の責任において改めるにとどめました。(平成八年九月) 金田一耕助ファイル7 |夜《よる》|歩《ある》く |横《よこ》|溝《みぞ》|正《せい》|史《し》 平成13年11月9日 発行 発行者 角川歴彦 発行所 株式会社角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C)  Seishi YOKOMIZO 2001 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『夜歩く』昭和48年2月20日初版発行          平成 8 年9月25日改版初版発行